小さい頃、小説を書くのにハマっていた時があった。漫画家志望の友達もいて、挿絵を描いてもらったり一緒にお話を作ったりなどして、とても楽しかったのを覚えている。
あの時書いていた小説のうちの一つのことについてお話しさせてほしい。
それはロミオとジュリエットの廉価版みたいなもので、周囲から猛反対される恋路を、ただひとり、主人公の少年の祖父だけが、応援していたのだった。
おじいちゃんはなにがあっても、
お前の味方だ。
これがこの小説の大切なキーワードだった。
しかし、味方、みかた、みかた味方、みかたみかたみかた、という字を、何回か書いてみて、なんとも言えない、しらじらしさを感じた。
当時、味方という言葉を私が一番頻繁に聞いていた場面は、母が被害妄想にとりつかれた時に、
あなただけがわたしの味方よ。
というふうに使っているとき。
その言葉は母娘の連帯感を再確認させる力というよりも、他の誰にもすがることのできない母の孤独感ばかりをぎらぎらと際立たせ光らせていた。
味方であるという声明は、本来こんなに孤独なものではないはず。
むしろ、口にしただけ、耳にしただけであたたかくなるような、やさしくて強い言葉であるはず。
なのに、優しくて強い意味合いの力をもつ『味方』ということばを、私はほとんど耳にしたことがなかったのだ。
味方ってことばがなんとなくそぐわなさすぎて、漢字が間違ってるのか?となんども辞書を確認したり当て字をしてみたりした。その時にわたしにささやきかけた勘のような違和感の正体は、おとなになった今ならはっきりとわかるが、当時の私にとって母の言うことは絶対、母は全知全能。なのでなにかあったら母の言うことを聞いていれば良い。母の心の闇とそれにより形成されつつある自分の心の歪みなど、知る由もなかった。