行動制限に関する痛ましい事故がありました。
27歳・英語教師のニュージーランド人男性が、双極性症状で大和市立病院に入院し、身体をベッドに10日拘束されたのちに死亡。遺族は「野蛮で中世のような」身体拘束の結果静脈血栓症で死亡したとして、「NZの病院であれば死ななかった」と嘆く。https://t.co/Z4FAwCrxR2
最近思うのです。
「ひぐらしのなく頃に」は、
疑心暗鬼にかられた人が自傷・他害といった危険な行動を起こさずに、よりみんなが平和に暮らせる、つらさを乗り越えられるようになるには、たくさん、ひとに相談をすること、信頼関係をつくり、みんなを巻き込むことが大事だと、観る者、読む者、プレイする者にメッセージを与えています。
そして、行動制限をなるべく予防することの鍵も、おなじことではないかと。
精神症状により自傷・他害のおそれがあるひとを閉じ込めたり縛ったりして、行動制限をおこなうことの反対側には、対話するということがあるのではないかと。
もしかして、コミュニケーションがうまくとれなくって、どうしようもないと思い込んじゃって、時間がなくて、行動を制限するという、本来であれば最後の砦みたいなものを、簡単に行使してしまっているのではないだろうか……
でもそれは神と同等のちからを使えるものがちょっと失敗した時に時間を巻き戻してやり直せばいいやと思うのとおなじくらい安直で。
フィクションの中のかれらは我々にない力を持っていてそれを使ったり使わなかったり使い方を間違ったりしてやっていくけれど、
いまのわたしたちには、その失敗したって思うこと自体が欠落しているように思うのです。
行動を制限して、ADLもコミュニケーションの機能も落ちていって
拘束すればそれでおわり、放っておけばいいというわけではないのです
みんなそのことはよくわかっているのだとおもうけど、目が回るような忙しさに対話の可能性が見えなくなってしまっている気がするのです
そして機能の落ちた人はお世話をたくさんしなくてはならない、わたしたちはもっと忙しくなり、余裕をなくしてしまう。素早く動けることが何よりもよくて、ゆっくり対話をしたり頭を使ったり悩み続けたりすることは現場の邪魔みたいになってしまう。
精神科に身体的ケアが少ないことの意味をもっと考えるべきなのだと思います
わたしたちは、身体科のナースにはあまり求められないことが求められていて、それはとても時間と頭と労力を喰う、対話というものなのです
わたしはひとと話をした後、延々と、失言がなかったか、などと反芻するとてもつらい反省会が自動的に頭の中で開催されてしまうので、つらいです。だから、人と話をするのが苦手ではありますが、行動制限をすることや、よくなるはずのひとを寝かせたまま放っておいてしまうのはもっとつらいです。
ひととたくさん関わってるうちに、ひととの信頼関係が、わたしのたった一言でダメになるかもしれない、と思うのはとても怖いです。
でもそれこそ、話す上で、失敗することを恐れている、やり直しをもとめる、安直な姿勢ではないか……
信頼関係なんてふわふわしたもの。
一回壊れたら、時間をかけて修復していくしかない。
話し方なんかうまくなくていい。心理なんか探らなくていい。やらなければならない。ひとと対話することを恐れてはならない。やり方は実戦で覚えるべきなのだ。