忍者に討たれた戦国武将『鵜殿長照』2ページ目 | ナツレのツレヅレなる何か

忍者に討たれた戦国武将『鵜殿長照』2ページ目

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■三河の今川氏支柱

三州錯乱(さんしゅうさくらん)といわれた義元没後の混乱の中、長照は三河今川勢の支柱としてよく勢力を保ちました。元康とは違い、やがて今川本軍の後巻(うしろまき)があると信じていたのでしょう。困難が続く中、ようやく今川氏真がその重い腰を上げて軍勢を繰り出してきました。一日千秋の思いで耐え続けてきた長照にとってその報がどれほどの喜びであったかはかりしれません。

しかしながら、その援軍が上ノ郷城まであとわずか4里・・・つまり二刻(4時間)の距離の牛久保まで達していましたが、それをみることなく無念の討死を遂げられました。

 

[私見入りますが]三河の今川勢支柱といえる鵜殿長照を失ったこの後巻(救援)失敗は今川氏にとって、三河はおろか隣国遠江の国衆まで大きく動揺させる大失態でした。その動揺を抑えるべく氏真はすぐさま三州急用という増税を課し三河奪回を高らかに宣言しています。しかしこれはなんら具体的な行動を起こすこともできずに頓挫してしまいました。やはり三河今川勢の支柱たる長照を欠いたことでその支持層を失った影響が予想以上に大きかったのではと思われます。具体的にはやがて遠州忩劇(えんしゅうそうげき)と呼ばれる遠江国衆の大規模離反という形となって現れ、一挙に今川氏衰亡へと繋がっていきました。

今川氏真の後巻失敗による上ノ郷城落城と長照の死はこの地域にとってとてつもなく大きなトピックであったといえます。

 

■忍者に討たれた戦国武将

さて、もっとドラマににかかわるエピソードをひとつ(ネタバレ?注意~)。

 

松平元康が人質に取られた瀬名姫(築山殿)や竹千代と亀姫の人質交換を目論見、鵜殿長照とその息子らの生け捕りを狙ったというのは有名な話なのですが・・・。

じつはこの策を実施するにあたり忍者を使ったという逸話があるので~す。

そう!『どうする家康』では、本多正信と服部半蔵の指揮する服部一門が実行するという展開となっているアノお話です。

 

逸話の方では、甲賀にツテがある元康家臣の戸田三郎四郎と牧野伝蔵が伴太郎左衛門(ばんたろうざえもん)という甲賀忍者の親玉と計画を練ったとされています。この時280名もの甲賀忍者軍団が上ノ郷城攻めに投入されたのだといいます(鵜殿由緒書・改正三河風土記)。

 

まず、80名の忍者たちをあらかじめ城内に潜伏させ、機を見て各処に放火を繰り広げさせます。そして城兵が徳川方に寝返ったように装いふれ回り、同士討ちを誘発させます。さらに城門を開き残った手勢を城内に引き入れたことで、城方は大混乱となり組織的抵抗が不可能となりました。その中を甲賀伴一族の忍者である伴与七郎(ばんよしちろう)が目標の長照に一気に迫り、生け捕りをはかったのです。しかし長照は捕らえられるのを潔しとせず自害をしてしまいました。そこで、その子供二人を生け捕りに切り替え、これをもって瀬名姫と子の竹千代・亀姫との人質交換を成立させたというのです。

立川文庫に出てきそうな痛快エピソードですが、史実に沿った忍者の伝記として残したい逸話ですよね。

 

なおこの上ノ郷城の戦いで服部半蔵も軍功を上げているので、服部半蔵がこの忍者部隊を指揮したというシナリオもありありのありです。

ドラマの方もどういう演出にするのか今から楽みです!

 

ニンニン☆ミ

 

 

[注;大高城城主や上ノ郷城落城について長照の父 鵜殿長持とする書もあります(改正三河風土記・三河物語など)。しかし鵜殿長持は神ノ郷正行院過去帳に弘治二年(1556)9月11日に没したとの史的資料があるためここでは採りませんでした。]

 

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