成田長親 | ナツレのツレヅレなる何か

成田長親

2012年11月2日(金)公開の映画『のぼうの城』から成田長親(なりたながちか)様ご登場
あっちなみに映画はこの成田長親さんが主役で

この成田長親さんですが豊臣秀吉北条氏政(ほうじょううじまさ)を攻撃したいわゆる小田原攻めの際
石田三成・浅野長吉(長政)・大谷吉継長束正家 真田昌幸といった匆々たる武将が参加する軍団に攻め寄せられるも、これをはね除け北条方で唯一最後まで落城しなかった武蔵 忍城(おしじょう)の大将さんです

映画『のぼうの城』のキャプションでも20,000人vs500人(軍勢の数は後述)とありますが
本来は圧倒的軍勢に対し戦い抜いた勇将として有名になっていても良かったのですが・・・
城主の成田氏長(なりたうじなが)の奥方 岩槻御前(いわつきごぜん)や、その義理の娘 甲斐姫(かいひめ)といった面々が、あまりにも有名(勇名)すぎてこれまで日陰者になってました
今回、映画でスポット当てられて良かったですなぁ

映画はまだ観てませんがそのうち観る予定なので楽しみ楽しみ
こういう歴史スペクタクル物が最近の日本映画では少ないのでヒットしてほしいですなぁ
 


映画では野村萬斎さんが成田長親役でした。
もうこれが成田長親のイメージになっちゃいますね
 

成田長親(なりたながちか) 

武藏忍城城主 成田親泰(なりたちかやす)の三男 成田泰季(なりたやすすえ)の子。
成田氏は關東管領上杉氏に従い、次いで上杉謙信に誼を通じていた。
しかし永禄3年(1560)の上杉謙信の關東大遠征の際に叛いて北條氏康に投じ、以降北條氏の臣として重きをなした。

天正18年(1590)3月から始まる豐臣秀吉による小田原征伐に際し、忍城主 成田氏長(なりたうじなが)北條氏政の招集に応じ5百余騎を率いて小田原へ入った。
忍城へは守備兵5百を残し、城代として成田長親を任じ守備を命じた(城代としては当初は長親の父 泰季であったが陣没した為、急遽長親が城代を継いだともいう)。

同年4月下旬、小田原城攻囲軍の内から浅野長吉を主力とする東方攻略軍が組織され東上。
これを受け忍城でも対応が検討されたが、成田氏長室の太田氏は『城主氏長不在の時に武名を落とすこと無く、城を死守すべし』と檄を飛ばし、ここに忍城は抗戦と決した(關八州古戦祿)。

長親は城兵5百余の城兵のみでは守りきれないと判断し、15歳以上の男子で義勇兵を広く募り、瞬く間に2千余の軍勢を揃えるなどの手腕を見せた。

同年6月4日、先に降った相模玉縄城主(さがみたまなわじょうしゅ)の北條氏勝(ほうじょううじかつ)を伴って各支城を誘降させながら侵出してきた石田三成率いる2万3千の豐臣方の軍勢が忍城へ迫った。
長親はその降伏勧告を拒絶し、その攻囲を受けた(關八州古戦祿)。

6月5日、忍城の東南より大谷吉継・宇都宮国綱(うつのみやくにつな)ら6千5百、南部より佐竹義宣(さたけよしのぶ)・北條氏勝ら5千余、東北から長束正家・結城晴朝ら4千6百余で攻め寄せてきた。しかし忍城は別名「水城(みずき)」と呼ばれる文字通りの水城であり、寄せ手は深田や沼に足を取られ進退がおもうようにならず、そこを長親の指揮で効果的に反撃し散々に打ち破った。

この敗北に三成は戦略の練り直しを迫られ、丸墓山に登って改めて地形を調査し、水攻めが効果的との判断を下した。
ただし、現在は三成と秀吉との書簡から、最初から秀吉の命で水攻めと決していたといわれ、むしろ三成は水攻めには反対していたとの説が有力である。

いずれにせよ、豐臣方は忍城を水攻めする事と決し、城の南方へ長さおよそ28kmにも及ぶ大堤防を築き始め、まずは11kmの堤防を6月14日には完成させ水を引き入れた(淺野家記・忍城戦記)。
しかし、思うように水が溜まらず、荒川を切って水を引き入れたが直後豪雨となり、18日になると水が満ちすぎ堤が決壊してしまい寄せ手2千7百余が溺死する。
一説には忍城方が堤防工事の人足に紛れ込んで手抜き工事をしており、また風雨に紛れその部分へ破壊工作を仕掛けた為といわれる(成田記)

6月14日、当方面の主力で各支城と機動的に連携する手筈であった鉢形城(はちがたじょう)の北條氏邦(ほうじょううじくに)が降伏。忍城への援軍の希望は潰えた。さらにその鉢形城を抜いた浅野長吉・真田昌幸の軍勢6千が忍城攻略に加わった。
 それでも忍城の長親は降伏を潔しとせず、7月1日淺野長吉の攻勢に対抗するが鉢形城を抜き気勢上がる淺野勢に逆に主兵30余騎を討取られてしまう。
秀吉はこの報に満足し、さらなる水攻めを敢行させた。上杉景勝の重臣 直江兼續(なおえかねつぐ)は水攻めの普請完了でまもなく落城するであろうとの所感を忍城攻囲中の佐竹義宣へ書き送っている。

しかし長親はこの絶望的な情勢下にあっても兵の掌握をつづけ城を維持し続けた。

7月5日、大将 石田三成自ら攻勢の陣頭に立ち、総攻撃を仕掛けた。しかし長親は酒巻靱負尉(さかまきゆきえのじょう)へ反撃させこれを打ち破ぶる。これに慌てて兵を動かした淺野長吉・長束正家の軍勢も散々に打ち破り、さらに救援となるよう攻勢に出た大谷吉継・宇都宮国綱の軍勢に対しては正木丹波守の手勢で釘付けにし、その意図を挫いた。
この攻勢の失敗で被った大損害は豐臣方を激しく動揺させ、さらなる増援が検討された(淺野家文書・上杉家文書)

しかし皮肉にもこの大攻勢失敗の同日7月5日、小田原の北條氏政が降伏。

最後はその小田原に入っていた城主 成田氏長が開城を命じ、これを長親・氏長夫人が受け入れる形で石田三成へ忍城を引き渡し終結した。




まぁ北條氏の重臣としても実績ある成田氏長さんはともかく、のぼうさんコト成田長親さんはこの忍城以外あまり知られていなンで、忍城籠城戦を記載しました

もっとも世間ではこの籠城戦は成田氏長夫人 岩槻御前(いわつきごぜん)の手柄と評されてしまっているので、長親さんは陰薄いんですがネ
あと『成田記』などで、この岩槻御前に甲斐姫を加えた活躍譚が喧伝され、忍城は「女の城」ながらよく戦ったと評判になり、長親さんたら益々陰薄くなっちゃってました

さらに悲惨なのは寄せ手の大将 石田三成さんで、「”女の城”も落とせなかった戦下手」のレッテルをはられ、その評価は今も色濃く残っています
まぁ最近では水攻めの案は秀吉のモノで三成は悪くないという擁護もちゃんと出ていますが、所々の力攻めでも撃退されちゃってますのでなんとも
とくに最後の7月5日の大攻勢では、大将の三成自らが”ぬけがけ”の攻勢を仕掛けたことが味方の足並みを乱し大惨敗を招いたといわれ、擁護に苦しむところです

ナツレ的には水攻め自体はそれ程間違った戦略では無かったと思います
もちろん忍城を早期攻略するつもりであったのであれば水攻めを選択すべきではありませんが
当時は小田原に至急救援に赴かなければならないといった切迫した情勢でも無く、本来なら小田原を見習ってじっくり囲む事ができる水攻めは上策だったのではと思えます
むしろ無駄な犠牲を出し続けた三成の采配が個人的には気になります

最近ではそもそも水攻めは秀吉の策だったといわれてますのでなおさら力攻めなど中途採用していらぬ犠牲を出す必要はなかったと思うのですが・・・さて

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