北条氏政 | ナツレのツレヅレなる何か

北条氏政

NHK大河ドラマ『江~姫たちの戦国~』では、小田原城攻めが近づいていますね。
それにちなんで今回は、前回ご紹介した北条氏照 (ほうじょううじてる) さんの兄である北条氏政(ほうじょううじまさ)さんについてお話ししましょう。ニコニコ

 

北条氏政さんは、北条五代の四代目当主でした。豊臣秀吉の小田原城攻めの際には、家督を五代目の北条氏直さんに譲りましたが、実際には後見人として権力を握っていました。

 

しかし、この氏政さんは、以下のようなエピソードなどからあまり良い評判がよろしくありません。

 

たとえば
・麦を刈ってるのを見て、「新鮮な麦をすぐに昼食に出せ」と命じたが、麦は刈ってから何日もかけて加工しなければ食べられないことを知らなかった。そのことを武田信玄に知られて失笑された。
・父の氏康から、飯に二度汁をかけたことを叱られた。毎日する食事の汁の量も分からない無能さに、北条家は自分の代で滅びると嘆かれた。
豊臣秀吉 の小田原城攻めに対して、何の策も立てずに長々と評定を続けた。その無為な様子は「小田原評定」と揶揄された。

 

これらのエピソードは、今から見れば少し厳しすぎて気の毒なような気もしますし、後世の創作や誇張も含まれているでしょうが、北条家を滅亡させた張本人として冷ややかに見られていることは確かです。

 

北条自体が武田や上杉といった戦国大名に比べ、まだ一般にはなじみが薄いようですが長音記号2

一方で、北条家は戦国大名として先進的な領国経営や支城支配を行っていたことが知られる戦国マニアにとっては興味深い大名です。得意げ

北条式の築城術も独自の工夫があり、その遺構は保存状態が良く人気があります。(先日ご紹介した滝山城もそうですね)

 

(6/21/11'追記アップ)ちなみに『江~姫たちの戦国~』では、私が大好きな『真田太平記』で石田三成 役だった清水紘治(しみずこうじ)さんがこの北条氏政さんを演じていました。ラブラブ!う~んこんな単発役でなんてもったいない長音記号1もっと観たかったなぁ

ナツレのツレヅレなる何か-北条相模守左京大夫氏政

氏政イメージ。肖像画からですが~チョットかっこよく描きすぎたはてなマーク

背後の文字は氏政本陣にも掲げられたと伝わる『钁湯無冷所(かくとうれいしょなし』の文字・・・”所”が隠れてるケド

フリーの衡山毛筆フォント を利用ニコニコ はじめて利用したけど良いなぁこのフォント~ドキドキ

     (↑窓の杜へ飛びまする)

 

 

 

北条氏政(ほうじょううじまさ) 新九郎、相摸守(さがみのかみ)、左京大夫(さきょうのたいふ)、

 

北条氏康(ほうじょううじやす)の二男で長兄が夭折(ようせつ)したため、永禄2年(1559)末、あるいは永禄3年(1560)初めに北条氏4代目当主となる。

家督相続以後、越後の上杉謙信による度重なる関東侵出を受けるが駿河今川氏真・甲斐武田信玄との三国同盟を活用し、むしろ上野南部まで勢力を拡大した。

 

永禄11年(1568)末から、駿河の今川氏真と戦端を開いた武田信玄と同盟を破棄し 、仇敵の上杉謙信と相越同盟を結んで抗戦した。

しかし元亀2年(1571)10月3日、父氏康が没すると上杉と絶って、再び武田と結んだ。

以後、北関東の勢力拡大に専念した。

天正10年(1582)武田家が滅ぶと駿河を手中にした徳川家康と結んだ。

天正18年(1590)、関白豊臣秀吉 による上洛命令を受けた。氏政は弟で五男北条氏規(ほうじょううじのり)を使者に外交交渉で切り抜けようとしたが、真田昌幸 の名胡桃(なぐるみ)城攻略を『惣無事令※』違反と咎められ、その征討を受けることとなった。

※惣無事令(そうぶじれい)=天下の紛争をすべて私戦と規定し、その戦闘行為を禁じた法令

開城降伏したが赦されず、弟 北条氏照 とともに切腹を命ぜられ、7月11日自刃した。享年53歳。

 

 

■関白豊臣秀吉に拠る小田原征伐に対する北条氏政の戦略

惣無事令違反として豊臣秀吉に拠る小田原征伐に対し、座して何もしなかったといわれているが実際は北条氏なりの勝利への戦略が会ったようです。

弟で北条随一の軍略家と知られる四男北条氏邦(ほうじょううじくに)は迎撃に際し積極策を提案し、秀吉に服していない会津の伊達政宗に北陸方面の牽制を期待し、その間に駿河へ北条総力を侵攻させるという大胆な構想を主張し家臣大半の支持を受けたといいます(関八州古戦録)。

しかしこれは北条氏唯一の豊臣方窓口となる徳川家康の領内を蹂躙することとなり、外交チャンネルを喪失することを意味し、また伊達政宗の動向にも確証がないため見送られてしまいます。

結局重臣松田憲秀が主張した各拠点で暫時秀吉討伐軍の兵力を削ぎ小田原本城に引き付け、それと上野方面に展開する北条氏邦の迎撃部隊との相互支援で叩くという漸減邀撃(ぜんげんようげき)策を採択しました。

 

氏政は豊臣政権はまだ脆弱であると見なし、遠征という性質上兵糧の不安がついてまわることから長期戦に持ち込めば勝算ありと踏んだようだ。

 

北条氏防衛の基本戦略を漸減邀撃としたため、各支城にそれなりの兵力配分を行うこととなったが、これは兵力分散を意味することとなり、大兵力で一点突破されると領内の各拠点が孤立するだけの結果となった。

特に駿河の押さえとして最重視した伊豆の足柄(あしがら)城、山中城、韮山(にらやま)城の防衛ラインのうち、北条氏勝の拠る山中城が3月29日の攻撃開始からわずか二刻(4時間)余りで落城したことが誤算だった。 韮山城などは北条氏規の巧みな迎撃で豊臣方の侵攻を6月34日まで引き付け初期の目的を達成したといえるが、山中城を抜いた豊臣本隊が小田原へ殺到したため、戦略上無意味なものとなってしまった。

 

その山中城を3月29日に抜いた豊臣軍主力は早くも4月2日には箱根湯本に到着し、翌3日より小田原城攻囲戦を開始した。 しかしさすがに防備が堅いのを見て取った秀吉は無理攻めはせず、4月6日から小田原城を見下ろす小高い山に後に石垣山城と名付けられる付城の築城を開始した。

 

機動力を持って小田原を支援すべく上野方面に展開していた北條氏邦は、前田利家上杉景勝 を主力とする北陸方面軍の攻勢を受け持ちよく耐えていた。しかし小田原城攻囲軍の中から浅野長政を主力とした東方攻略軍が新たに編成され北上すると、瞬く間に後背地を奪われ鉢形(はちがた)城に孤立した。その為5月下旬には機動力を生かした反転攻勢など実現不可能となり、(伊豆の韮山城落城に先立つ)6月14日には継戦を断念せざるをえなかった。

 

6月下旬を迎えると本拠小田原城以外で健在なのは成田長親が拠る武藏忍城(おしじょう)のみとなり、期待していた伊達政宗 も6月5日には秀吉 の元に服した為、完全に勝利の目は無くなっていた。
また6月26日に先に築城に入っていた後世石垣山城と呼ばれる付城が完成したのを目の当たりにした小田原城中は一挙に降伏やむなしとの意見に傾いたという。

 

結局7月5日、開城降伏したが赦されず、弟 北條氏照 とともに切腹を命ぜられ、7月11日自刃した。享年53歳。

 

辞世の句は「吹きとふく風な恨みそ花の春 紅葉も残る秋あらばこそ」。 

 


■現代の北条氏政さん

にひひ最後に話とびますが長音記号2

最近この氏政さん~TVゲームの【 戦国BASARA 】でひょうきんな爺さんキャラで登場して人気(はてなマーク)のようですべーっだ!
(コスプレしてる人を何回か見たことあるんで長音記号2多分それなりに人気なんぢゃはてなマーク

 

父 北条氏康もやはりTVゲーム【 戦国無双 】で(↑でもチョロっと出てきた)忍城の甲斐姫(かいひめ) を従え人気を博しているようですし~手裏剣忍者で有名な風魔小太郎もいますし~北条一門がメジャーになるのも近そうですニコニコ

 

 

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