北条氏照 | ナツレのツレヅレなる何か

北条氏照

先日の滝山城攻略 にちなんで長音記号2にひひ
城主の北条氏照(ほうじょううじてる)さんをイメージしてお絵カキカキアート

 

この方、北条五代中興の英傑 北条氏康(ほうじょううじやす)の三男で、

小田原評定で有名な北条氏政(ほうじょううじまさ) の弟ですべーっだ!

北条氏の関東経営で重要な役割をまかされていたようで~古河公方(こがくぼう)との折衝や、それこそ滝山城・八王子城といった北条家の城を縄張りをした人物として戦国マニア的には注目の御仁ですラブラブ!

 

まぁ最近でこそ北条氏康さんがゲームなどで注目されはじめてきましたが長音記号2まだまだマイナーな扱いの北条氏の一族さんでありますが、今後の飛躍(!?)に期待ですニコニコ



ナツレのツレヅレなる何か-北條陸奥守氏照 大石源三 戦国武将イラスト

 

北條氏照(ほうじょううじてる) 幼名:藤菊丸。 官途名:陸奧守(むつのかみ)。別名:由井源三(ゆいげんぞう)・大石源三(おおいしげんぞう)

北條氏康の三男で北條氏政 の弟。(二男となっていましたが2011/6/19訂正アップ)

 

武蔵 瀧山城主 大石定久の娘 比企を娶り大石綱周(おおいしつなちか)の養子として大石氏家督を継ぎ、大石源三を名乗った(もっとも、瀧山城はこの氏照の時築城されたとの説もある)。

氏照はそのまま大石氏を称し続けたとも云われるが、永禄11年12月頃から北條姓に復したとみられている。

瀧山城は武蔵の重要拠点 川越城(かわごえじょう)を支援する役割を担っており、北條氏の関東制覇の前線を受け持った。

 

永禄4年(1561)2月、10万とも喧伝される上杉景虎(謙信) の関東大遠征を受けた。父 北條氏康は瀧山城と江戸城を第二次防衛ラインとみなした兵力配分を行い、氏照を武蔵の主将として信任していた様子が窺える。

もっともこの時は景虎のあまりにも早い疾風迅雷な突出の前に関東の防衛線は崩壊し、氏康が想定したような効果的な反撃は出来なかった。

しかし氏照はよく瀧山城を堅守し、同盟者の甲斐 武田信玄 の来援を促すなど重責を果たした。

 

永禄7年(1564)、房州 里見氏との第二次国府台(こうのだい)合戦に後詰めとして参戦。

 

永禄12年(1569)9月下旬、前年に三国同盟を破棄し駿河の今川氏真を攻めた武田信玄の侵攻を受けた。

氏照はことある事を予見し、想定侵攻ルートの檜原口(ひのはらぐち)の防備を固めていたが、信玄は遙か南の高尾山麓小仏峠(こぼとけとうげ)を小山田信茂に踏破させ侵攻。一挙に瀧山城へ迫った。

氏照は急遽、廿里(とどり)で迎撃を企てたが敗退。瀧山城へ籠もった。

 

拝島の大日堂に本陣を据えた信玄は嫡子 諏訪勝頼(すわかつより)を総大将とし瀧山城を力攻めにした。諏訪勝頼の活躍も目覚ましく瞬く間に瀧山城の各拠点は陥落し二の丸までも攻め込まれたが、氏照は窮鼠とかしてなおも抗戦を続けた。
結局、損害が増えたことを嫌った信玄が囲みを解き、小田原方面へ主戦場を求め移動した為落城を免れた。

 

この戦いで瀧山城の防備の限界を悟った氏照は、より堅固な八王子城を築き天正8年(1580)頃、瀧山城を廃城して根城をそちらへ移すことにしたのだという。

 

天正18年(1590)、關白秀吉 による北條氏への上洛要請(降伏勧告)について、氏照は拒否しての抗戦を主張し結果小田原遠征を招いたという。
氏照自身は小田原城へ参じ籠城したが、居城八王子城は前田利家上杉景勝真田昌幸 らの軍勢に囲まれ、その降伏勧告を拒否し抗戦し、壮絶なる玉砕を果たした。

 

結局小田原城にあった氏照は合戦らしい合戦には参戦しなかったが、開城に伴い北條氏側の責任者として兄 氏政 と供に自害した。享年51歳。

 

辞世として「吹と吹風ないとひそ花の春 紅葉の残るあきあらばこそ」が伝わる。


 

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