大谷吉継
『真田太平記』では大谷刑部(おおたにぎょうぶ)の呼び名で出てきた、
石田三成
の盟友大谷吉継をご紹介
真田左衛門佐 (さなださえもんのすけ)の舅として『真田太平記』でも重要な役回りを演じていますが、
あの関ヶ原の大乱をマネジメントし、盟友三成に殉じた人物として
戦国ファンの間でも人気の高い人物です。
また癩(らい)病を患い、白い頭巾で頭を覆っていた姿も有名です。
『真田太平記』でも家康を討つ決意を打ち明けた三成に対し、決起を思い止まらるよう熱弁を奮います。
その際、三成に対して
「己の才を頼のむあまり、ともすれば人を見下すような処がござる。高慢に見えまする。」
「主計頭(かずえのかみ)や清洲侍従(きよすじじゅう)の怒りや反発はその辺りにはじまったのではござらぬか」
と、これまでの三成の所業を痛罵し、誰も味方にならないと断じます。
友とはいえ・・・あまりに率直な物言いで観てるコッチが止めたくなりました。
まぁそこは愛あればこそ~っていうのが垣間見える良いシーンでした。
※主計頭=加藤清正(かとうきよまさ)、清洲侍従=福島正則(ふくしままさのり)、文治派といわれた三成に対して武断派と呼ばれた三成の政敵。
※大谷吉繼(おおたによしつぐ) 官途名:刑部少輔(ぎょうぶのしょうゆう)
豐臣秀吉
に仕えた武将。前半生についてはほぼ不明の謎の人物。
天正11年(1583)賤ヶ岳の戦いの前哨において、柴田勝家
の甥 柴田勝豊を調略する功をあげ一頭角を現し、
天正17年(1589)越前敦賀城主5万石に封ぜられる。
慶長5年(1600)徳川家康
の上杉景勝
討伐軍に敦賀から参加する途中、
近江佐和山城の石田三成
と謀って家康へ叛旗を翻し、各大名家に対し調略を行った。
関ヶ原では小早川秀秋の裏切りを予見し、その防備も視野に入れて対処したといわれる。
実際秀秋が裏切った際はこれを撃退し、徳川軍監奥平貞治(おくだいらさだはる)を戦死させている。
しかし直後、脇坂・赤座・小川・朽木らが次々と東軍へ寝返ると支えきれなくなり自刃して果てた。
享年41歳といわれる。
唐入りの兵站奉行を任された吉繼はその見事な調整能力から
「百万の軍を差配させたい」と秀吉に言わしめたという。
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