少しずつ進んでいる脚本について書こうと思います。


第三稿にしてようやく教授から「まあまあ、よくはなってるかな」という言葉を頂きました。

ただ、やはり映像として説明できるところを台詞で説明している所がたくさんあるようです。

見て理解する。見て感じる。

映像を構成する要素のうち、「台詞」はほんの一部でしかないと指摘を受けました。

絵コンテなどの次の段階に入ってもよいということだったので、修正は必要ですがまずは

一安心です。





また、以前第一稿をある映画監督さんに見て頂く機会がありました。

つい昨日、その件でお礼を兼ねてお会いしたのですが、指摘はまた違ったものでした。

総じて優等生的な脚本で、いい人を押しつけている印象を受けるとのことでした。

魅力的な人物は「何かを背負っている人」よりも「何かを背負いながらもそれを感じさせ

ない人」なのだそうです。

話の終わりに第三稿をお渡ししたので、もう一度お話することができそうです。





一稿から三稿までの指摘を受けて感じたことは、私は「抑える」ことや「感じさせる」表現

がほとんど扱えていないということです。

それは、言い換えれば映画としての「現実感」にまつわるものでもありますね。

頭で分かっても脚本に還元できるほど感覚として理解できていないので、上手く説明で

きないのですが。





以降は決定稿に向けての修正と、演出のための脚本分析と撮影のための絵コンテに入

っていきます。

脚本分析?

絵コンテ?

と思った方は、申し訳ないですがまた次回。
修正を経て、脚本の第二稿を書きあげました。



話を簡単に説明しますと、

夢をあきらめて生活のために工場で働く姉と、一度はあきらめた日本画家の道を、再び歩み始
めた妹の話です。
姉妹は五年前に面打師を志していた父親を亡くしますが、二人が失ったものはそれだけではあ
りませんでした。また、面打師である二人の祖父も、父親との間にあった確執を抱いたまま、何
かを失った生きていました。
姉が勤め先の工場から突然解雇を言い渡されたことがきっかけで、それぞれの人間関係が揺
らぎ始めます。そして、亡くなった父親を巡って、人物一人一人の生き方が問われていきます。

こんな感じです。



身の回りでおきた世界を描く、という点では最近の邦画、あるいは私小説のようですね。
構想段階で、「太陽を盗んだ男」ほどではないにしろスケールの大きい話が自主制作でできれば、
という思いもありましたが、結局はこのような形に落ち着きました。




教授に見て頂いたところ、台詞が多すぎて映像としての表現が全く突き詰められていないとの指
摘を受けました。他にも、書きながら感じていた細かな説明不足の点や人物の動機などについて
の疑問が的確に挙げられていきました。

人間の本音は、必ずしも台詞に現れるとは限りません。むしろ、台詞ほど怪しい本音はありません。
現実世界でもそうですが、その人の押し殺した態度や行動にこそ本音が見え隠れするものです。
映像として人物を描くということは、その表現を探るということに他なりません。基本中の基本を、再
認識することになりました。

褒められると、その言葉のためにそぎ落とされた本音を知りたがるタイプなので、これくらい指摘し
てもらった方がよかったと思っています。



この記事を書き終えたら、早速第三稿に取り掛かります。

「東京物語」 (1953年・日本) 監督 小津安二郎

1953年、尾道に暮らす周吉とその妻であるとみは、東京に暮らす長男の幸一と長女の志げを訪ねる。
しかし、久々の再会だというのに幸一も志げも二人をどこか煙たがっている。

やがて両親の相手に疲れた幸一と志げは、二人を熱海旅行へと送り出す。
息子、娘に会えたことで満足して尾道に帰って行った周吉ととみだったが、帰宅後間もなくとみが危篤
状態になる。

幸一と志げが尾道に駆けつけたその夜に、とみは亡くなる。
葬儀が終わってから、志げは次女の京子にとみの形見の品を催促する。幸一も志げも、悲しみなど忘
れたかのように即座に東京への帰路に立つ。
葬儀の後に尾道に残ったのは、戦争で亡くなった二男の妻である、紀子だけだった。




家族のつながりとその喪失を描いた、小津作品の中でも最高傑作と名高い名作です。
公開年は1953年、つまり昭和28年ですね。
邦画では溝口健二「雨月物語」、今井正「ひめゆりの塔」、洋画ではルネ・クレマン「禁じられた遊び」、
ジョージ・スティーヴンス「シェーン」、チャーリー・チャップリン「ライムライト」などが公開されています。

書きたいことが多いのですが、やはり小津安二郎は日本家屋を美しく撮る監督だと思います。独特の
ローアングル、そしてcm単位で配されたキャストや小道具の数々。全くといっていいほどカメラを振る
ことのないカット。


そして、映画という媒体を通して繰り返し繰り返し家族の姿を描いているという点。
私が小津作品に惹かれる理由はここにあります。

時代によって家庭の生活は変わっていきますが、家族という共同体がはらんでいる本質的な問題は
いつの時代も変わらないものです。
失ったときに気付く何か、というと野暮かもしれませんが。
そのつながりがあまりにもありふれているため、家族という存在が当たり前になっている。

しかし、この東京物語は、家族を構成する父や母、息子や娘というある種の役割を持って生活している
人々が、実は個人という別個の存在の集まりであることを強く認識させられます。
役割を持って生活すること、それが家族を示す証になっているからこその危うさが、巧みに表現されて
います。

家族の姿をきちんと描くということ、それは私のなかの大きなテーマなので、小津安二郎作品は敬愛す
る映画である以上に、到達するべき目標でもありますね。








それにしても、毎回、何を選ぶか本当に迷います。
週3、4回更新できるほどの筆力があれば観た映画全て書くことができるんですけど。
撮る方でも進展ありました。
近いうちに書きます。
皆さんは普段何を基準にして、観る映画を選ぶんでしょうか。

個人的にはその一つとして、タイトルも重要なのでは、と考えています。

名作には名タイトルが付けられていることが多いような気がしませんか?

その作品だからこそ、活きてくるようなタイトルです。




何でこんなことを言い出したかというと、自身の作品タイトルを変えようと思っているからです。

自分では60点くらいかなと思っているので、どうにかして80点以上のものを付けたい。


主演の姉妹二人、ようやく決まりました。

お二人とも映画の撮影は初めてということなので、撮影についての説明も含めて本読み

のため一度来て頂きました。

やはり経験者だからか、出だしはスムーズな感じだと思います。



あとは、どうやって慣れ親しんだ舞台の芝居から映画の芝居へと変えていくか。

登場人物を自分のものにできるか。



これは役者さん自身の仕事ではありますが、そこまで導くのは私の仕事だと思ってます。





監督も演出もほとんど初めてですが、それを自分で口にした瞬間に、ただの言い訳になっ

てしまうんじゃないか、という気がします。