日本空手道 葉隠塾東京本部 瞬機必殺の理 -359ページ目

初恋 の3番

余裕とは

冷静沈着とか、ゆとりは自信と誇りがもたらすものなのです。
従って、自信と誇りが消えた瞬間に凧の糸が切れたように消えて行くのです。


冷静な判断、ものに動じない心。
それも自信と誇りの裏付けがなければなりません。
調子に乗った奴には敵わない。とか、
調子に乗らせたら止まらない。とかがそれです。


乗っているものから落とされ、停められた瞬間、人間は余裕も自信も失い、
我を忘れてしまうものです。
それを挫折感とか敗北感と人は呼びますが、
信じていたものを失うことは羞恥心を呼び起こし、
無意識にそれを隠そうとする人間の性があり、
その為自分を見失うのです。

繕う(修復)事だけが主になり偏って行く為の結果です。


実は僕が好きな柔道家の木村政彦先生のお話です。
晩年お目にかかり、愚息とともに中野のある料理屋で宴が張られました。
木村先生のご友人が三人ほどと、
お店の方にお引き合わせをして下さった方々での食事でした。


僕に取っては子供時代から憧れていたスーパーヒーローです。
愚息が大学に入学した歳でしたが、
木村先生に関しては既に僕から聞き知っておりました。
多分木村先生はそう云う席には馴れておられたのでしょう初対面でしたが、
全く違和感はありません。
話題もスムーズに運んで行きました。

丁度ファンがタレントを囲み話題の映画か、
曲についてお聞きするような感じなのです。
話は進み当然柔道の話題に入ります。
先ずは修業時代のエピソードや試合のことになりましたが、
皆さんどなたも力道山戦の話題には触れようともしませんでした。


今回、『ゴング格闘技』永きに渡り(木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか)
が連載されておりましたが、僕はそれを知りつつあえて読みたくない気がし、
手を触れなかったのですが、愚息の竜から電話がかかり、
「ゴン格の記事読んだ?」「いや、読んでない。」と応えると
一応読んでおいた方が良い。と云うのです。


早速購入し読んで見ましたが、想像通り何処かで何度も目を通した文面です。
何故、読みたくなかったか。結果は周知の通り。
それをどの角度から見直すかでしょう
が僕に取ってはどうでも良い事でした。
どうであれ木村政彦先生は僕のヒーローであり夢なのです。

正直、力道山戦は木村政彦唯一の汚点と云えますが、
もう消しゴムでは消す事の出来ない事実です。
僕は小学生の時リアルタイムでその試合のテレビ中継を見たのです。

そこに居合わせた大人達は声を上げて泣きました。
はり倒されて倒れて行く英雄の脆い姿をどう受けとめたのでしょう。
その後試合の正当性などが取り沙汰されました。
だれもが認めたくない事実だったのです。


それほど木村政彦は偉大な英雄だったのです。


ところが僕がその記事を読み、新たな感動を覚えたのは戦いそのものではなく、
力道山戦あとの木村政彦先生に及ぼした影響です。
それは涙が止みませんでした。

何がどうであろうが、敗北により積み上げて来た自信と矜持が崩壊し、
あれほどの方でも自分を見失ってしまったことです。
露になった醜態を如何に修復しようか。
その思いに長い事悩まされたことです。
悩めば悩むほど傷は深くなり、恥の上塗りになるのですが、
誇りが高いほどそれがたまらない屈辱であったのでしょう。
事実をつくろう跡も残っているのです。


絶対的な誇りであったからこそ、簡単に捨て去ることが出来なかったのでしょう。


比べものにはなりませんが、仕事でこの屈辱を味わった覚えが僕にもあるのです。
我を忘れました。見失いました。それを醜態と感じました。
矜持があればこその敗北感を味わいました。


木村政彦先生が、晩年病後に奥様との決まった散歩道で、静かに涙を浮かべ
『これで良かったよね、、、、。』の一言に
力道山戦の長い傷跡の全てが集約された言葉であったように思います。


そこに余裕は見受けられません。誇りと同時に自信も失った英雄の姿です。
力道山戦の終わりが木村政彦先生の栄光の終わりでもあったのです。
それを実感させる言葉でした。


闘う男の挽歌です。


しかし、掛け替えのない英雄として我々の記憶に生きる木村政彦は永遠です。



葉隠塾  成嶋弘毅


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昭和初期の残像

憧れは夢に変わり、それが具体的になれば現実へと移行して行くのです。
キャプテン翼に憧れワールドカップの選手になったブラジリアンがいました。


それがキャプテン翼でなくガッチャマンであったらどうなるのでしょう。
成りようのないヒーローも沢山います。
成りようのあるヒーローが好ましくない対象であったら
これは問題ですが、それもありうるのです。


貴方も何かに成りたかったのではありませんか。
果たして現在それに近い生き方をされておられる方もいる筈です。


私事で申し訳ないのですが、僕が成りたかったのは男でした。
男と云いましても自分自身が男なので

僕の云う男は”漢”であり”侠”なのです。


男の中の男、男伊達の男なのです。
一言に云ってサムライであり、強力で高潔なのです。
しかし、義侠の徒であり無法ではなりません。
それは国を司る政治家であり、国を富ませる実業家であり、
又腕力胆力に鎧われた武術家でもあるのです。
いわゆる国をリードする男でありたいと、
どうした訳か子供の時からそう云う男に憧れ続けたのです。


日本を支えた実業家にも何人かお逢いしました。
政治家もいました。
正に憧れの対象だったのです。
どなたもそれは男伊達でした。
タレントに憧れる以上に熱中しました。

威風堂々と人の上に立つリーダーの存在はそれは例えようもないほど
カッコ良いものでした。
当時夫々が持たれていたお洒落心は共通するものであったように
僕には感じました。
対象が大同小異だったのではないでしょうか。


将来ブログに登場頂く予定の柔道家、
木村政彦氏もお年を召しながら尚更に落ち着き、凄みを感じさせました。

勿論、大山倍達総裁の若い頃は精悍と云うよりも恐ろしさを
感じさせた方でした。

先ほど紹介致しました『義侠の徒であり無法ではなりません』
と云いながら無法と世間で呼ばれた方々とも数人お目にかかり、
ある時期親しくさせて頂いたこともあります。


しかし、それはそれでやはり一流は一流の持つ貫禄を備えておられました。
正に憧れの対象となるべき方に違いありません。
一芸に秀でた者のオーラと云いましょうか間違いなくそれがあったのです。
亡くなられた方はそれを予感させられる所がありました。


僕には上に挙げた方々は生きているサムライに見えたのです。


それで僕が最終的に目指したのが実業家であり、
個人の趣味では武術家だったのです。

何処までも限りなく欲張りであった為、
二兎を追いそこそこ二兎を捕まえたと思っておりますのは自惚れでしょうか。


別段の努力をした訳でもなく、両方を根っから憧れ続けて来ただけです。


しかし、憧れほど力強い動機は他にはないかも知れません。
それはマグマのような熱と勢いに守られているのです。







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損得の勘定

大人とは。みなさんが大人への道すがら
大人への道で如何にあるべきか考えた筈です。


子供っぽさを隠そう。馬鹿騒ぎは控える。云うことも選ぶ。
本音を隠すことがまずその始まりだった筈です。


欲しくても欲しがらない。本能的な欲望は決して見せてはならない。
喜怒哀楽を簡単に人前で見せない。


そうです。これら全ては日本人の徳目であり、武士道の規範でもあるのです。
が、しかし。その使い方が難しいのです。


商売を始め、買い付けをします。
素晴らしいものを見付けました。
何とか入手しお得意様に提供したい。
その一念から買う気を売り手に気取られ値をつり上げられたのです。
正直な態度がもたらせたマイナス面でした。
そこでその人は認めると云うことは損をする事ではないかと云う
疑問を持ったのです。
大かれ少なかれその思いをした経験は誰にでもある筈です。


実は僕は腹を割ると云う行為を良しとする
悪い(自分ではそう思っていない)癖があります。
良いものは認め、相手にも伝えるのです。


実は、著書の出版に際し依頼すべき仕事がありました。
その相手と数回の打ち合わせを繰り返し相手の力量を計り、
確信をもって全てを認め決定しました。


後日その方から打ち明けられた事があります。


『成嶋さんとのお仕事が決まった時、建前抜きで、
胸襟を開いて接してくださる成嶋さんに面喰らいました。
実はそれまで大人になることは、本音を隠し夢を失なって行くことの積み重ねが
成長であり、自分もそうしないといけないと思い込んでいたのです。
しかし、成嶋さんと接しているうちに、考えが変わっていきました。
人とも上手に本音を出せるようになり、人間関係がずいぶん好転したのです。
その上、もっと若かった時のように大それた夢も描くようになりました。』


その言葉を聞き、
これだ!この心を伝える為に本を書き、ブログを始めたのです。
本当の意味での目的が果たされた気がしました。
実際に著書が一万部売れたほどに嬉しく思いました。


駆け引き。
この言葉は正直嫌いです。
従って駆け引きして来る相手も嫌いです。
2~30年前、高価な時計を買う時は香港に行きました。
既に胸には何を買うかを決めてあり、先ずは値踏みです。
その店の人間の印象から入ります。
良くなければ直ぐに出ます。
良い印象を受けた場合僕の決め台詞があります。
貴方とこの店が気に入った。
この時計も気に入った。
僕は旅行者で時間が惜しい。
貴方がこの周辺でBestの値を提示すれば時間を無駄にせず、
貴方から買います。

大概はそこで正直に提示して来ました。
当然商売人として僕も周辺の値段は調べての上です。
それをしなければただの馬鹿正直で終ります。
その場合価格はUSドルで一万程度の物です。
やはり相手にも興味の湧く金額でなければ心は動きません。


取引では、欲しい気持ちに売りたい気持ちが合致して成立するのです。


今一つ、騙して少々高く売るより欲しい人に適正な値で売れれば幸せ。
欲しい人は適正な値段で買えればそれで良し。
それ以上に安く買おうとは思わないでしょう。
まともな商売にはさほどの上下はない筈です。
ならば気持ち良くが何よりではないでしょうか。



葉隠塾  成嶋弘毅


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印象の恐ろしさ

自分の行為を奢らず、控えめに語るのことを謙遜とされます。
逆に自分の行為をひけらかすことを自慢と蔑まれます。
見るからに自惚れた奴が謙遜する姿を見ると嫌らしく思えます。
まだ照れながらの自慢の方が愛せます。


許せる自慢、許せないものがあるのは何故でしょう。
日本人はしたり顔の人間を嫌います。
だから謙遜も過ぎると嫌味になるのです。
何処かでお前、そうは思ってないんだろの意地悪い心です。
見た目が相手に与える印象なのです。


面倒くさい問題ですが、人生において、それは結構重要な部分なのです。
印象とは、確証のない相手への思い込みだからです。
しかし、時としてそれが大問題を引き起こす可能性があるのです。


そこから僕の得た知恵は、近寄らず、また距離をあまり隔てずでした。
印象は自らとうざかれば疎まれ、また近寄れば警戒をされます。如何に淡々とした
印象の下に自らを置くかが問われるのです。

要するに邪念を払えば良いのですが、印象とはある程度は演出できるのかも知れませんが、
危うい賭けとなるでしょう。

邪念を払い、常住淡々と生きる心がけを続けることなのだと信じ、暮らしております。



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