第一章 2
アルフォンスは大学に編入すると、徒歩で通えるくらいの路地裏に、古いアパートを借りた。
音大の生徒が中心になって借りるアパートメントもあったのだが、いかんせん家賃が通常よりも高めであったため、苦学生のアルフォンスにはそんな贅沢はできなかった。
ピアノ専攻の生徒だというのに、自室にピアノを用意する事もままならなかったが、幸い、アパートと同じ建物の地下に古いジャズ・バーがあり、バイトの皿洗い募集の張り紙をみて申し込むと、理解のあるオーナーが、空いた時間にピアノを弾いてもかまわないと承諾してくれた。
但し、未成年なからバイトしている事は、誰にも内緒だよと念をいれられたが。
昼間は学業、夜はバイトと、四六時中バタバタと動き回るアルフォンスの生活は忙しくもあったが、それなりに充実したものでもあった。
アルフォンスは講義が終わると、ジャズ・バーのバイトへ向かった。バイトのある日だけは仕事を終え、誰もいなくなった店でピアノの練習をする。
幸い店は地下にあり、防音設備もされていたので、夜中までピアノを弾く事は可能であった。
バイトのない日は、夜遅くまで大学の練習室を借りて練習に励む。気の済むまでピアノを弾き終わると、寝る為だけにアパートの部屋にもどる。
文字通り四六時中ピアノを弾きまくり、音楽中心の生活。
そんな生活の繰り返しを寂しく思わなくなかったが、それよりも憧れの大学で好きな音楽を学べる事の喜びの方が勝っていた。
そんなある日だった。
アルフォンスはバイトの仕事を終え、誰もいなくなった店でピアノを弾き始めた。
皿洗いの仕事は、指を大事にするピアノ奏者にとっては思わしくない仕事だ。とは言え、食うためだと言えばそんな我が儘も言えたきりではない。
ただでさえ指の動きが鈍くなりがちな寒い時期だと、指が思うように動くまで、念入りに指の運動をする必要がある。
アルフォンスは、いつものように最初は指の動きの練習を中心に、鍵盤の低音から高音へと一つ一つ押さえながら弾いてゆく。一通り指が慣れたら、練習曲の一つを暗譜で弾いていると、入り口のドアを叩く音がした。
こんな時間に誰だろう。オーナーなら鍵を持っているはずだし、お客だろうか。
「すいません。営業は終わりました」
アルフォンスは鍵盤から手を一旦放し、ドアの方へそう言い放ったが、聞こえていないのかドアを叩く音はやまなかった。
アルフォンスは手を止め、立ち上がりドアを開けると、一人の少年がドアの下でうずくまっていた。見ると転んだのか、コートもところどころ汚れている。もしかしたら具合でも悪いのだろうか。
「君、大丈夫?」
「……ああ」
少年は顔を上げて返事をした。一つに束ねた栗色の長い髪が所々ほどけている。少年にしては整った顔立ち。自分と同じ青色の瞳が印象的で、アルフォンスは思わず見とれていた。
彼は、体が痛むのか顔を歪めながらこちらを見ると、店内から出てきたのがアルフォンスだった事に驚いているようだった。
「お前……まだ子供だろ? オーナーは?」
なんて失礼な人だろう。確かに自分はまだ子供と言われる年齢なのは認めるが、相手だって見るからに子供だ。しかもこんな夜中に、店に何の用があるのだろう。
ここでバイトをしているのは内緒にしてあるし、ばれるとオーナーにも迷惑がかかってしまう。アルフォンスは怪訝な顔をしながらも、バイトの事は伏せておき、ここでピアノの練習をさせてもらっている事だけを説明した。
「へえ。さっきのピアノはお前なのか」
腹のあたりを押さえながら、よろけながらも少年が立つと、彼はアルフォンスより頭半分くらい背が低かった。
なんだ。この人だってやっぱり子供じゃないか。
やたら偉そうな口を利く少年を、アルフォンスは自分よりも背が低い事に少しだけ優越感を覚えながら、丁寧に返事をした。
「ええ。ボクです」
アルフォンスは少年の体を支えようと手をさしのべた。
「悪い」
少年はアルフォンスの差し出した手に、自分の手を差し出した。
白くて細い指先。美しい手だった。
アルフォンスは少年の手をひっぱり、体を支えようとしたが、少年は怪我をしているのか腹のあたりを押さえながら前屈みになった。
「痛てぇ」
「大丈夫? 君、もしかして怪我をしているの?」
見たところ怪我人のようだし、どう見ても自分よりも小さい子供だ。何の用があってこの店を尋ねたのかは知らないが、この少年をこのままにはしておけない。
「家はどこ? 送って行こうか?」
「いや……今夜家には戻れない。ここのオーナーは知り合いだから、今夜だけこの店に泊めてもらいたいと思って」
どう言う事情があるのかわからないが、この店に泊まると言ってもベッドも何もない。
「ここに泊まると言っても、怪我をしているじゃないか。ボクの部屋はこの建物の上なんだけど、来る?」
アルフォンスは、言ったそばからなんでこんな言葉が出たのかわからなかった。見知らぬ人を家に泊めるだなんて。けれど自分と同じくらいの少年が怪我をしていて、このまま放置するわけにもいかないだろう。
「いいのか?」
「ベッドは一つしかないけど、ここの店で休むよりも疲れは取れると思うよ」
「じゃ……悪いが頼む」
アルフォンスは頷くと、「ちょっと待って」と声をかけ、ピアノの蓋を閉め、帰る仕度を始めた。
「練習中だったんだろ? 悪いな」
少年はそれだけ言うと、そのままずるずると床に座り込んだ。よほど具合がわるいのか、一人では立っていられない様子だ。
慌ててアルフォンスが駆け寄り、肩に手を廻して抱き寄せると、少年はぐったりと身を預けてきた。態度とは違って、案外、華奢な体つきだ。
「君、大丈夫?名前は?」
「オ、オスカー」
少年はそれだけ答えると、意識を手放した。
to be continued……