【新連載】
ピアノマン
プロローグ
プロローグ
どのくらい時間が経ったのだろう。つい、疲れて寝てしまった。どこからかピアノの音がする。
アルフォンス・シュバッツは、猫足にビロードがあしらわれたアンティーク椅子の背もたれから身体を起こすと、どこからか聞こえてくるピアノの音色に耳を傾けた。
優しい音色。暖かい。まるで母の子守歌を聴いているようだ。
アルフォンスは瞼を閉じると、遠くに聞こえるピアノの音色に耳を澄ませた。
そうだ。これはあの曲だ。
アルフォンスはなぜこの曲を知っている人がいるのか不思議に思った。
題名はわからない。いつも母が口ずさんでいた曲。この曲を自分の他にも知っている人がいる。
心臓が高鳴る。アルフォンスは考えると嬉しくてたまらなかった。このピアノを弾いている人がどんな人なのか、すぐに確かめたいと思い席を立ったが、同時にドアをノックする音が聞こえた。
「どうぞ」
アルフォンスは、慌てて背筋をピンと伸ばして返事をした。
ここはドイツ国内でも有名な国立音芸術学の建物の一室。アルフォンスは、芸術大学の音楽科ピアノ専攻の編入試験を受けるため、早朝に家を発ち、田舎の無人駅から列車に揺られようやくお昼過ぎにここに着いたのだった。
無事に実技テストと筆記テストを受け終わり、審査する間に通されたものの、試験に向けて連日練習で寝不足なのと、やっと試験が終わった安堵感もあったのか、部屋の椅子でついうとうとしてしまった。
「失礼」
ドアのノックと共に、一人の男が部屋に入ってきた。
黒髪に銀縁眼鏡。折り目正しい姿勢を崩さず、一言「おめでどう。君は合格だよ」と言葉をアルフォンスにかけると、とたんに彼は、優しい目になった。
アルフォンスは、ほっとしたのもつかの間、すぐに椅子から立ち上がると、深くお辞儀をしては礼を言った。
「ありがとうございます」
「よかったね。入学願書はこの後、事務室に寄ってもらうといい。奨学金の申請の書類もそこでもらえる」
「はい」
男は、聞きもしないのに右手を差し出しながら、勝手に自己紹介を始めた。
「私はマーロウ・ボードマン。ここで作曲科の講師をしている。住まいは決まっているのかい?」
「いいえ。まだ……」
「ウチの部屋が空いていればよかったんだけれど、生憎、今は居候がいてねぇ。まだしばらく出て行きそうにないし、娘も、かみさんも、案外、居候の事を気に入っている様子だから難しいかなぁ」
「下宿先ぐらいは、自分で探しますから」
「そう? 悪いね」
マーロウは苦笑しながら言うと、事務室で聞けば学生専門の下宿も紹介してくれることを教えてくれた。
「あの……先程、ピアノの音が聞こえていたのですが、どなたが弾いていたのでしょうか」
おずおずとアルフォンスが言うと、マーロウは拍子抜けした顔をした。
「ピアノの音? ここは芸術大学のピアノ科の棟だからね。ピアノの音はたいてい常に聞こえているよ。誰が弾いているかなんて聞かれても、ちょっとわからないな。なんなら、これからここを見学してみる?」
「いいんですか?」
「ああ、かまわないよ。オレも今日はこれで帰るし。君を案内しても、キャサリンちゃんとの約束には十分間に合うかな。あ、キャサリンちゃんってのは、ウチの娘なんだけどね」
マーロウは、愛娘の顔を思い出しているのか、急に鼻の下を伸ばす。
二人は一緒に部屋を出た。マーロウは廊下を歩きながら懐から黒い革の手帳を出すと、間から一枚の写真を見せてくれた。見ると髪の毛をツインテールにした目がまんまるな可愛い女の子と、彼女を抱いた美しい女性が写っている。おそらくこの子供が愛娘と、奥さんだろう。
「わかる?これが娘のキャサリンで、これが僕の奥さん」
「綺麗な方ですね」
アルフォンスが褒めると、マーロウはうんうんと満足そうな笑みを浮かべて、快く案内をしてくれた。
「ここのフロアがピアノ専攻の練習室」
マーロウは一番手前にあった防音の扉を開けると、中に入るように促した。
「練習室にもいろいろある。広さも違えば、楽器の台数なんかもね。これが一番多いパターンかな」
部屋には小さめのグランドピアノが一台。椅子は二脚あり、そう広い部屋ではない。
ここが練習室か。
アルフォンスは先程のピアノの主を捜す事も諦めて、一つ大きく深呼吸をした。
二十世紀初頭。ここはドイツで三百年の歴史を誇る芸術大学。ようやくあこがれの場所に自分は来たのだ。田舎の学校で古いピアノを弾いていた自分が、今、ここに立っている。母と別れて過ごすのは寂しいけれど、自分には音楽しかないし、好きな音楽でお金を稼いで、母を少しでも楽にさせてあげたい。
アルフォンスは今までの事を思うと、未来を夢見る切符をやっと手に入れたのだと、嬉しい気持で一杯になった。
to be continued……