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一期一会

本も人の出会いも一期一会。時々読者、時々物書き。好きな本やコミック感想を中心に、日常のつれづれと共につぶやいていきます。




 なんだ。しっかり彼女がいるんじゃない。好きだと私に告白までしたくせに。
 ゴミを代わりに捨ててくれるくらいの恋人がいるというのに、どうして薫は伊織に交際を申し込んだのか疑問に思った。
 年上なら、上手に遊んでくれると思ったのだろうか。
 ならば、あの朝のできごとは気にしなくてもいいのかもしれない。
 転職と共に引っ越しをして、ようやく慣れた頃だ。大学まで徒歩二十分で行ける距離の割には、家賃が安いのも気に入っている。できれば引っ越ししたくない。
 多少、しばらくは気まずい思いをするかもしれないけれど、薫とは、なるべく会わないようにすればいい。大学だって、薫は伊織担当の講義をとっているわけではないのだから。伊織は肩すかしをくらったような気分になった。
 薫に告白されてから、私もまんざらではないのかもしれない。と、少し女としての自信を持ったところだったのに、例の女性を目撃してからは、膨らんだ風船がしぼむように、自信がなくなるのがわかった。
 やはり、あれは気の迷いだったのだ。からかわれたのだろう。真面目に誘ってくれていたと思っていただけに、薫の態度に腹が立つ。
 考えると、寂しくなった。人恋しくなるのは、特にこんな時だ。
 自分では、容姿もスタイルもそんなに悪くないと思うのだが、どうしていつも上手くいかないのだろう。
 学生時代からいつも好きになるのは、必ず誰かの彼だったり、既婚者だった。片思いは山ほどしているのに、両思いの恋愛は、実は一度もした経験がない。このまま一生両思いの恋愛はできないのでは? と、来月三十路の誕生日を前にすると、危機感として身につまされる。たまに誰かに告白されるとしても、今回のようにうんと年下だったり。世の中は上手くいかないものだ。
 そもそも民間企業から転職したのも、上司との不倫がバレて、会社に居づらくなったからだ。もう、誰かの男は好きにはならない。と、あれほど誓ったのに。この感情はなんなのだろう。
 今更ながら、伊織は薫のことを恋愛対象者として見ている自分に気付いた。今頃気付いても遅いというのに。
 それにしても、彼女がいるというのに、三日とあけず伊織に声を掛けたり、差し入れをする薫の神経がわからない。もしかしたら、彼女ではないのかもしれない。薫を信じたい気持ちと、疑う気持ちがごちゃまぜになって、悶々としていた。
 伊織は、本当に例の女が彼女なのか、確かめずにはいられなかった。
 ふと部屋にある蜜柑の箱が目に入った。実家から送ってきたものだ。
 そうだ。今、差し入れを持って行ったら、彼女と鉢合わせするだろう。その時の薫の態度を見れば、例の女との関係は一目瞭然なのではないか。薫を試すようなことになるかもしれないけれど、思いついたら実行に移したくてしかたがない。
 伊織はスーパーの袋に蜜柑を山のように入れると、意を決して隣室のドアをノックした。
「朝早くにごめんなさい。いつも差し入れありがとう。実家からだけど、蜜柑がたくさん届いたらから」
 控えめに言ってみる。朝早いけれど、おそらく薫は起きているだろう。ちらりとでもいい。玄関ドアを開けてくれたなら――。
 伊織は心臓を高鳴らせながら、薫の返事を待った。
「え? 伊織さんですか? ちょと待って下さい」 
 しばらく待つと、薫はバスタオルを腰に巻いたまま出てきた。どうやら、シャワーを浴びていたらしい。上半身に滴る水滴が妙に艶めかしくて、伊織は慌てて顔を背けた。
「ありがとうございます」
 薫は礼を言いながら、蜜柑の入った袋を受け取った。
「すいません。今、シャワーから出たとこだったもんで」
 用が済むと、それ以上話す話題もない。薫も半裸姿だったのが気になるらしく、「じゃあ」と先にドアを閉めてしまった。
 バタリと閉まる寸前、急いで伊織は視線を部屋の中に泳がせた。死角もあるので絶対とはいいきれないけれど、薫の他に、人の気配はなかった。一瞬、ほっとしたのもつかの間、視線を下に向けると、三和土に黒いハイヒールが置いてあった。
 間違いない。さっき見かけた女のものだ。女の姿が見えないのは、もしかしたら、女はまだバスルームにいるのかもしれない。朝から一緒にシャワーを浴びる仲というわけか。
 伊織は呆然としたまま、206号室の部屋の前で立ちすくんだ。


to be  continued……



 その日の夕方。ようやく仕事を終え、伊織が戻ろうとアパートの近くまで来た時だった。
 隣はだだっ広い青空駐車場で、前面道路の遠くからでもアパートがよく見える。
 伊織の住んでいる部屋辺りをふと見上げると、隣の部屋から出てくるワンピース姿の女性がいた。洋服の雰囲気からすると、女性は二十代前半。華やかな花柄のワンピースに、春らしいパステルブルーのカーディガンを羽織っていた。髪は背中まで長く、毛先はゆるく内巻きにカールされていて、上品な上に、もの凄い美人だ。
 隣の部屋は206号室の薫の部屋だ。もしかして、お姉さんか、妹さんだろうか。あまりじろじろ見るのも悪いと思い、伊織は駐車場に駐めてあった車の影から様子を見ていた。
 美女は慣れた様子で玄関ドアの鍵を閉めると、ヒールを鳴らしながら鉄骨階段を下りてゆく。ぴんと伸ばした背筋は、女性としての自信に漲るオーラが漂っていた。
 毎日神経をすり減らし、夕方になると化粧もはげ、ヒールで歩くのも億劫になる伊織とは大違いだ。なんとなく、女性として負けている気がするのは、気のせいではないだろう。美女はそのまま伊織には気付かず、駅前へと向かって歩いて行った。
あれはいったい、誰なのだろう。もしかして、彼女なのだろうか。けれど、昼間薫に告白され、交際を申し込まれたばかりだ。いくらなんでも、彼女ではないだろう。姉か妹か。薫に用があって尋ねてきたのかもしれない。伊織は勝手に解釈した。


 その後も薫は、大学で会う度に伊織に声を掛けてきた。
「映画のチケットが手に入ったんです。一緒にどうですか?」
「この本、すごく面白かったんです。読んでみて下さい」
「近所で美味いパン屋を見つけたんです。今度差し入れしますね」
 さりげなく声をかけられるのもだから、つい、うっかりOKの返事をしそうになる。せめてあと五歳若くて、OLのままだったら、絆されて一度くらいは食事につきあったかもしれない。伊織は薫からの申し出は全部断っていたが、薫もめげてはいなかった。
 部屋が隣というのを利用して、伊織の居ないときに玄関前に差し入れを置いて行くようになった。
 伊織が風邪気味の時は、スポーツドリンクと風邪薬。肩こりの持病が辛いと思っている時には、入浴剤とシップ薬。少し帰りが遅くなるような日には、見計らったように、薫オススメのパンを差し入れとばかり、玄関ドアのノブに袋がかかっている。見方をかえれば、ただのストーカーのように見えるかもしれないけれど、久しぶりに誰かに大事にされている気がして居心地いい。悪い気分ではなかった。

 伊織は週、二日ほど、早朝ジョギングしている。
 晴れた日だけしか走らないが、それでも健康によいことをしている気になる。今朝もジョギングして部屋に入ったところに、隣の玄関ドアが開く音がした。
 こんな早朝から薫は出かけるのか。と、玄関脇のキッチン小窓を注目していると、横切ったのは、薫ではなかった。例の女性だ。
 206号室は、一番奥の部屋だ。一つ手前の部屋が伊織の部屋になる。女性は姉か妹だと思っていたが、こんな朝早くに部屋を出てくるなんて考えられない気がした。なにせ1Kの間取りだ。薫の部屋はベッドが一つしかなかったし、姉妹と住むとは考えられない。となると、残り考えられるのは彼女ぐらいだ。
 気になって、伊織は直ぐさま玄関ドアを薄く開け、女性の後ろ姿を確かめた。もしかして、朝帰りするところなのかも。と、疑ったからだ。ところが、女性はバッグも何も持たず、持っていたのはゴミ袋だった。そういえば、今日はゴミの日だったと思い出したが、伊織はショックだった。
 彼の部屋のゴミの日まで把握しているということは、ほぼ同棲状態だとみてもおかしくはない。先日、告白されたので、てっきり薫には彼女はいないと思っていたが、実際は全然違うのではないか。
 しばらくすると、女はゴミを出し終えたらしく、手ぶらで薫の部屋へ入っていった。
 ゴミを捨てにいくくらいの仲というと、これはもう恋人だと思ってほぼ間違いはないだろう。伊織は決定的な瞬間を見てしまったと、胸が痛かった。



to be  continued……







 伊織がいつものように講義を終え、廊下に出ると男子学生の姿があった。
「ここの先生だったんですね」
 急に声を掛けられ、男子学生の顔をよく見ると、隣人の山本薫だった。
 なんで彼がここにいるのだろう。
 伊織の思考は顔に出ていたらしく、薫は周囲を気にしてか一瞥すると、「先生の講義は受けてないけど、俺もここの学生なんです」と、なんら他の学生が質問すると同じ口調で付け加えた。
 まさか、彼がここの学生だとは思わなかった。マズイ――。
 咄嗟に「ちょっと来て」と、伊織は薫の腕を掴むと、空いていた準備室に連れ込んだ。
「あ、あの時は私も酔っていて……ごめんなさい」
 伊織は、丁寧に頭を下げた。言い訳をあれこれ考えるけれど、伊織の頭にはとにかく謝ることしか頭に浮かばなかった。
「なんで先生が謝るの?」
 気が動転していたとはいえ、言われてみればそんな気もする。

合意の元で抱かれたのなら、どちらが悪いというのはないだろうが、あの日はひどく酔っていて、正直相手が誰だろうとかまわなかった。伊織は夢で、男に抱かれて居たと思っていたのだから。
 けれど、学生に手を出したとなると、流石にマズイだろう。そこまで思案すると、やはり、頭を下げなければならないのは、伊織のほうだと思った。
「お願い。黙ってて。内緒にして欲しいんだけど」
 伊織は再び頭を下げようとすると、薫は伊織の肩を両手で掴んだ。
「謝らないで欲しい。俺が誰かに喋るとでも思ってる?」
 顔を覗き込まれて、真顔で尋ねられると、伊織は何も言えなかった。
 喋らないというほど、伊織は薫のことを知らない。アパートの住人になって一年経つが、先日まで薫と会った記憶はなかった。伊織の記憶が確かならば、隣室はずっと空室で、埋まったのは一ヶ月そこら前ぐらいだったと思う。引っ越し業者が、隣室に荷物を運び込んでいたのは知っている。けれど、その後も物音もあまりしないし、誰も住んでないのでは? と、思っていたくらいだ。伊織があれこれ考える間に、薫は勝手に話を続けた。
「俺、三年の山本薫といいます。先生の講義は取ってないけど、アパートが隣ですよね。先日のことは覚えていますか?」
「ああ。表札を見ました。まさかここの学生だとは知らなくて……。あの時は酔っていたから、その……」
 伊織は、しどろもどろになっているのが自分でもわかった。覚えていないから忘れてくれ。と言えると程、開き直る度胸もなかった。
「知らなくて当然です。だって、俺、今年から三年生に編入したクチだから」
 この大学は、編入試験を受けて合格すれば、三年生から学生を受け入れる枠がある。専門学校や、高専、短大から、毎年わずかではあるが、編入生を受け入れてきた。言われればそうか。と思うけれど、伊織にとっては、アパートでも大学でも薫とは会った記憶がない。恐らく、抱かれた朝が、初対面だと認識している。合点はいったが、この状況は変わらなかった。
 最悪は引っ越しすれば、二度と会わない相手だろう。と高を括っていたけれど、ここの学生では引っ越ししてもしょうがない。伊織は諦めるしかないのか――。と、肩を落とした。
「黙っててもらえるか確約が取れるとほど、私は君を知らない。もし、誰かに言いたければ言えばいいわ。辞める覚悟はできているから」
 ここまで来たら、どうでもなれ! と言った気分だった。
 下手に出て、あのできごとをネタに揺すられる可能性だってある。ここはハッタリでも、強気に出たほうがいい。と、伊織は咄嗟に方向を変えた。
 もし、本当に脅される事態になれば、退職してもいい。その時は、悔しいけれど、実家に戻って見合いでも、なんでもすればいいだけのことだ。薫は伊織の言葉を聞いて、心外そうな顔をしながら一歩詰め寄った。
 目の前に薫が立つと、思ったより長身だった。身長が一六○センチある伊織がヒールを履いていても、まだ十センチ近く差がある。
 伊織は初めて薫がこんなに背が高いのだと認識した。
 そうか。あの時は寝ていた状態だからわからなかったのか……と、考えると、大きな胸に抱かれていたのを思い出し、急に恥ずかしくなる。あれこれ考えていると、薫は、急に真面目な顔つきになった。
「なら、俺と付き合ってください」
「はぁ?」
 まさか、こうくるとは思わなかった。伊織は薫の顔をまじまじと見ながら確認した。
「君、本気?」
「本気も、本気です」
 薫は伊織の両手を掴んだ。
 眩しいくらい真っ直ぐな瞳を向けてくる。元々、性格が真っ直ぐで正直な子なのだろう。

たった一度の過ちで、責任を取りたいと考えているのかもしれない。
 伊織は「冗談でしょ」と、視線を外すと、薫はぎゅっと手を握り締めてきた。
 こんなに真っ直ぐに言われると「いいわよ」と、つい言いそうになる。伊織は喉元まででかかった言葉を、無理矢理嚥下した。
 ここで情に流されて、後で酷い目にあうのは目に見えている。薫は三年生だと言っていた。年齢でいうと、二十歳か、二十一歳くらいだろう。来月三十路の誕生日を迎える伊織より、十歳近く年下だ。
 遊びで付き合うのならそれもいいかもしれないけれど、生憎、伊織の人生計画では、遊びで交際できるほど時間の余裕はなかった。できることならば、今月中にでも結婚したいくらいだ。伊織は薫の言葉を、本気にできなかった。
「俺、本気です。本気で伊織さんが好きになりました」
 こんなストレートな告白は、今までされた記憶がない。

嬉しい半面、将来を考えると脳天気に喜んでばかりもいられない。惜しい気もするけれど、続かないとわかっている恋愛はお断りだ。伊織は、せっかくだが薫の申し出を聞き流すことにした。
「残念ながら、年下の子と、しかも学生と付き合う余裕はないの」
 せっかく告白してくれたのに、酷い返事をしたとは思っている。けれど、真面目な子だからこそ、断るのなら徹底した返事をするのが礼儀だと思った。
「年下なのは、しかたないです。自分じゃどうにもできません。だけど、俺が学生じゃなければいいんですか?」
「ちょっと待って。付き合えないからと言って、学生を辞めるのは勘弁よ」
 まさか、こんな返事をされると思わなかったけれど、伊織の返事次第で大学を辞められても困る。
「まさか、本気でいっているんじゃないんでしょう? こんな理由で大学を辞められるとなっては、君の親御さんに申し訳がたたないわ」
 伊織は保護者からのクレームを受けるのは、考えただけでも教職として死活問題。子供のように、大げさに首を横に振った。
「親は関係ないです。第一、俺、両親とも居ないし……」
「え?」
 即答されたが、予想外の薫の環境に、伊織は少なからず同情した。
「ご、ごめんなさい。ご両親がいないとは知らなかったから。少し……言い過ぎたわ」
 慌てて謝罪すると、薫も少し思うところがあったのだろう。
「いや、俺の家のことは、先生には関係ないし……。こちらこそ、急にすいませんでした」と、握っていた伊織の手を一度ぎゅうと掴み、放した。
 なんだ。筋を通して話せば、ちゃんと話せる子なんじゃない。薫の性格が少しわかった気がしたが、なんとなく気まずい空気が漂う。伊織はいたたまれなくなり、ちらりと腕時計を見やると、「そろそろ次の講義だから……」と、準備室のドアを開けた。
「待って下さい!」
 伊織が準備室を出ようとするのを、薫は呼び止めた。
「伊織さんを好きなのは、本当です。それだけは忘れないで下さい」
 伊織は何も言えなかった。聞こえなかった振りをして、返事はせずにドアを閉めたが、薫に言われた言葉が部屋から出てもずっと伊織の耳に残った。




to be  continued……



それから二時間後。伊織は二日酔いの頭痛を我慢しながら、玄関ドアの鍵を閉めた。

隣の部屋を出たのは、つい先程のような気がする。あれから隣人がやって来たらどうしよう。と心配だったけれど、どうやら杞憂らしかった。
いつもより早い時間だが、部屋にいても隣人が気になってしかたがないのは確かだ。早く勤務しても、勤め先の大学では割増料金を支払われるわけではないのだけど、部屋にいるよりはマシだ。なるべく鉄骨階段を音をたてないように降り、階段下にあるポストの名前を確認した。
 206のポストには、『山本薫』と名前があった。
 そうか。彼は薫君というのか。
 隣の苗字だけはうっすらと記憶にあったが、名前までは覚えていなかった。

年は間違いなく三十路前の伊織より若いだろう。
 夕べは、酷く酔っていた。非常勤講師として勤めて約一年。民間企業からの転職は、安定しているし、楽だろうと一通り一年間過ごしてみたが、案外、そうでもなかった。

学生は真面目に提出物を出さないわ、上からは、評定の低迷者が多すぎると指導能力を疑われるわ。この辺りは、民間企業の中間管理職とさほど変わらないかもしれない。
 伊織がここまで酔ったのは、日頃の鬱憤がたまっていた上に、亡くなった東海林教授が再婚していたというのを最近知ったからだ。
 東海林教授は、学生時代から、憧れの教授だった。

民間企業からの転職先を、ここの大学にしたのは出身校だったからの理由だけではなかった。

ロマンスグレイの東海林教授に憧れてというのが、一番の理由だったからかもしれない。転職してみれば、東海林教授は半年ほど前に亡くなったと聞いたと聞き、がっくりとしたものだったが。
 来月の誕生日がくれば、伊織はとうとう三十路になる。先日も母から「付き合っている彼がいないのなら、早くこっちに戻ってきなさい」と苦言を言われたばかりだ。
 毎年届く年賀状の友人の苗字が変わるのが増えるのを、羨ましく思う。実家からの電話を、素直に喜べない。
 大学の講師に転職したのも、元はと言えば、上司との不倫が奥さんにばれたからだ。

会社を追われ、自宅まで無言電話や、不幸の手紙紛いの郵便物が、毎日のように届く。一刻も早く上司とは縁を切りたかったし、違う生活を送りたかった。
 たまたま行った同窓会で、出身大学で講師を募集していると聞き、よい機会だとすぐに応募した。結果は合格。一ヶ月後には採用され、これを期に人生をリセットするはずだったのに――。
 もちろん、転職の理由は両親には内緒だった。最近では、電話がある度に、戻って来いだとか、早く孫の顔が見たいだとか。結婚の催促としか思えない意見ばかりを、遠回しに何度も話す。やっと再就職できたのに、今更辞めたいとは思わない。人生とは、上手くいかないものだ。とにかく、伊織は前途多難な人生を悲観していた。
 転職二年目の春に、他の講師を迎えての歓迎会があったのは、伊織にとって「憂さ晴らししなさい」との、神からのお告げのように思えた。

普段、あまり人前では呑まないのだが、夕べは勧められるだけ呑んでいた。憂さ晴らしできたのはよかったけれど、帰るべき部屋を間違え、隣人の男と一夜を共にしてしまうとは。

今まで真面目で良い子として育ってきた伊織には、とても大きな過ちを犯した気になっていた。
 とにかく、一刻も早く引っ越しをしよう。
 疼く頭を押さえつつ、伊織は勤務先の大学へ足を向けた。



to be  continued……



隣人 -年下の男-




 橘伊織は、うとうとしながらも、人肌を欲していた。

孤独から生まれる本能的な温かみが欲しくて、伊織は男の身体にすがりついた。

しなやかな筋肉に包まれていると、なんとも言いがたい安心感がある。ピンと引き締まった肌が気持ちよくて、広い胸に頬を寄せた。
 自分から身体を差し出すのは破廉恥だと思いつつも、酔ってぼんやりとした頭では理性もなにもない。

いつもは胸の奥に押し込んでいる欲求も、泉のように湧き出てくる欲望には勝てず、伊織はもっと触って欲しくて、豊満な胸を差し出した。

男の舌が、ゆっくりと乳輪を這い、ちゅぷりと音を立てて乳首を舐る。

舌の上で乳首を転がされると、段々と固く小さくなるのが自分でもわかる。

それと同時に下半身も、甘く、鈍く疼き出す。伊織は声が出そうになるのをぐっと堪えると、男が耳元で優しく呟いた。
 何を言われたのかは、わからない。けれど、甘い言葉を囁かれたのは、確かだった。

男は耳たぶを甘噛みしながら、首筋に唇を落とした。

キスを首筋で甘受しながら、大きな男の熱い掌に身体を撫でられるのが、なんとも言えない至福の時だ。

久しぶりの感触。

の状況が永遠に続けばいいのに――。
 


それにしても、男の大きな手で胸を揉みし抱かれる感触も、下半身が濡れて、蕩けそうになる感触も、夢にしては、リアル過ぎるな――と思いつつ、男の短髪に手を差し込んだ。

妙にチクチクとした感触が、掌に刺さる。伊織は気になってぱちりと目を開いた。

 あれ……? ここはどこ?

 すぐに天井が目に入った。よく見ると、スタッコ調のクロス柄は伊織の部屋と同じものだが、様子が変だ。

見回すと自分の部屋と似ているようで違っていた。ゆっくりと視線を戻すと、知らない男に抱かれている自分がいた。
 若い男だった。

聡明そうな顔立ちで、すっきりとした短髪。

何かスポーツをやっているのだろう。

身体は細いけれど、つくべきところには筋肉が付いている。所謂細マッチョという体型だ。もちろん男も全裸だった。


「ちょ、ちょっと……!」

 ドスンと音と共に、床に転がり落ちる。

慌ててベッドから抜け出ると、伊織は素っ裸だった。

夢ではなかった。

尻餅をついたフローリングの冷たさが妙にリアルで、急に現実に引き戻された。

今の状況は? と、聞かれたら、おそらく私は、この男に抱かれたのだろうとしか言いようがない状態だった。

記憶はなくても、今しがたまでの身体の反応でわかる。身体が熱を帯びた白熱灯のように、丸く熱くなっていて、下半身がぐっしょりと濡れているからだ。
 予想できる展開に、伊織は恥ずかしくて、周りに脱ぎ散らかった自分の服をかき集めた。

下着をつける暇も惜しんで、もの凄い勢いで、目に入ったワンピースを上から被るように着る。

途中、男が何か言いかけた気がしたが、聞こえない振りをした。自分の顔を確認したわけではないけれど、おそらくまっ赤になっていると思う。

顔が火照り、耳まで熱い。

伊織は「失礼、しました」と、床に転がっていたバッグとヒールだけ掴み取ると、裸足のまま、慌てて部屋を飛び出した。

玄関を出て行った後に、ハタと気がついた。

 あれ? ここはいつもの――。

 気がつくと、伊織は二階建てアパートの屋外廊下に立っていた。

隣が砂利敷きの駐車場になっているのも、敷地の堺に垣根があるのも、少し視線を外すと軒並み同じような分譲地住宅が密集しているのも、見慣れた風景だった。
間違いない。

ここは、いつものアパートだ。おそるおそる伊織は後ろを振り向いた。

視界に入ったのは、部屋番号が『206』のプレート文字。伊織の部屋番号は『205』だ。
 嘘。まさか、隣の部屋に間違って入るなんて――。
 伊織は慌てて部屋の鍵をバッグから取り出すと、男が出てこないうちに。と、急いで部屋のドアを開ける。

中に入り、バッグと靴を三和土に投げ捨て、厳重に鍵とチェーンロックを掛けた。
 私としたことが、なんという失態を犯したのか。

まさか酔っていたとはいえ、部屋を間違ったあげく、知らない男と寝るなんて。

これが夢ならいいのに。

けれど、バクバクと口から飛び出そうなくらい早い鼓動の心臓や、まだ熱を持つ身体は事実のほかなんでもない。
 伊織は、甘く疼く下半身を持て余しながら、ズキズキと二日酔いで痛む頭を必死に押さえ、とりあえず身繕いをしようとバスルームへ向かった。



to be  continued……









 その日、結局午後からの講義は休んで、ずっと部屋で慎之介と遊んだ。
 何度かアキさんの様子を見にいったが、薬が効いているらしく、昼間は死んだようにぐっすりと寝ていた。
 慎之介はぐずりもせず、俺の部屋でくつろいでいた。
 一緒にゲームをやったり、TVを見たり、風呂に入れて、料理をする。料理と言っても、やっと一人で作れるようになったチャーハンだけだったけれど、慎之介は「旨い。旨い」と、大人の一人前の量を、ぺろりと平らげた。
 夜も慎之介が泊まりたいというので、俺の部屋で一緒に寝ることにした。
 一人っ子の俺は、まるで弟と一緒のようで、嬉しくてわくわくしながら一緒にベッドに入ったのはよかったが、すぐに慎之介にベッドを占領された。
 子供の寝相は、なんでこんなに悪いのだろう。就寝して三十分もしないうちに、シングルベッドに大の字で横向きに寝られると、流石に俺は寝れなかった。
 余っている毛布にくるまり、床に寝ころぶ。慎之介の寝息を聞きながら寝入ろうとしていると、隣の部屋からガタンと大きな音が聞こえた。
 何の音だろう。
 アキさんは寝ているはずだから、もしかして空き巣とか――。
 俺は心配になり、預かっている鍵を使って隣の玄関を開けた。
 入る前に声をかけようかと思ったが、もし泥棒でもいたら先に気付かれる。悩みながら、そっとドアだけ開けてみると、アキさんが床に伏せたまま倒れていた。
「だ、大丈夫ですか?」
 具合が悪くなったのかと、思わず上がり込んで抱き上げたが、アキさんはバスローブ姿のまま、床に倒れたまま寝込んでいただけだった。
「ああ、テルさん。昨日もお風呂に入っていないし、目が覚めて汗を掻いていたものだからシャワーだけでもと思ったんだけど……」
 どうやら物音はアキさんが床に倒れた音だったらしい。起きあがろうとしたらしいが、そのまま突っ伏して寝てしまったようだ。原因がわかってほっとしたが、俺は急に今の状況がヤバイことに気がついた。
 床には布団が敷かれ、アキさんは濡れた髪のまま、バスローブ一枚で俺の腕の中にいる。意識すると、下半身が急に気になり始めた。
「怪我はなかったですか? なら、俺はこれで……」
 そっと腕を放し、アキさんを布団に寝かせようとした。
「待って」
 まだ熱のある潤んだ瞳で、腕を捕まれた。アキさんは何も言わずじっと俺を見つめている。
 ヤバイ。お願いだからそんなに見つめないで。
 目をそらそうとすると、アキさんは静かに目を閉じた。
 ダメだ――。我慢できない。
 次の瞬間、衝動的に、俺はアキさんの唇に自分の唇を重ねた。
 アキさんの唇は、熱かった。舌を割り入れると、口の中は更に熱い。キスの合間に「移っちゃうかも」と、アキさんは小さく呟いたが、俺には関係なかった。むしろアキさんのなら移して欲しいくらいだ。
 そっとバスローブの重ね目から手を入れ、柔らかい乳房に直に触れる。マシュマロみたいな胸は、強く押すと中身が弾けて飛び出そうだ。優しく触れると、アキさんの切なそうなため息が耳元で聞こえた。こうなったら、止められない。バスローブをはぎ取り、夢中で乳房にしゃぶりつく。アキさんは俺にすがりつきながらも、抵抗はしなかった。
 抵抗しないということは、OKしてくれたものと思い込む。乳房に伸ばした指で、先端の飾りを優しく絡めると、段々と固くなるのがわかった。
 アキさんの上気した顔が、艶めかしい。恥ずかしがりながらも下唇を噛みしめる表情を見ると、ズンと下半身に血流がいくのがわかる。
 か細い声で「電気を消してください」とお願いされると、きかないわけにはいかなかった。
 一度立ち上がり、灯りを消す。ついでに大急ぎで自分の部屋に戻り、ゴムだけ掴んで戻って来ると、パジャマ代わりのジャージを脱ぎ、全裸になった。
 再び俺はアキさんの上に覆い被さった。
 できるだけ優しく、アキさんの身体に触れる。暗い中、アキさんの吐息が漏れるのがわかる。目が慣れてくると、ブラインドから漏れる月明かりが、アキさんの身体の輪郭を浮かび上がらせた。まるでヴィーナスのような豊満で柔らかい身体に、俺は言葉を失った。
 アキさんの身体は、子持ちの主婦とは思えないくらい綺麗だった。初対面で裸を見たけれど、至近距離で実際に触れてみると綺麗の度合いが違う。すっかり俺はアキさんの身体に魅了されていた。
 深いキスをしながら、アキさんの身体に手を這わす。舌を絡め、括れたウエストを中指でそっと触れるか触れないかの距離で下から上になぞると、まるで若竹みたいにアキさんの身体が撓る。胸を突き出す姿勢になると、俺は乳房の突起を舌に含みながら、指を下半身へと滑らせた。
 ゆっくりと指を中へ入れると、アキさんは恥ずかしいのか足を閉じる。
「力を抜いて」と、耳元で囁くと、アキさんは恥ずかしそうに訴えた。
「恥ずかしいの。初めてだから……」
 え? 
 一瞬、俺の動きが止まった。
 まさか初めてというのは嘘だろう。俺を喜ばせようとしているのか? とも思ったが、どうも一つ一つの反応が初々しい。まんざら嘘でもないように思えて、俺は思いきって訊いてみた。
「初めてって。だって慎之介の母親でしょ?」
 嫌みに聞こえないか? と、言った後に考えたが、杞憂だったようだ。アキさんは俺の腕の中で、小さく首を横に振った。
「話せば長くなるけど、慎之介は私の子供じゃないの。前にも慎之介が言ってたでしょ。私は処女だって」
 そういえば、初対面の時にそんなことを言っていたのを俺は覚えていた。子供のたわごとだと流していたが、あれは真実だったのか。
 アキさんは恥ずかしそうにしながらも、結婚指輪を抜き枕元に置くと、自分からキスを求めた。
 ああ。こんなところで動きを止めている場合じゃない。俺は再びアキさんに没頭した。
 初めてなのなら、できるだけ優しく扱おうと思ったけれど、無理だった。すでに立ち上がった俺のモノは、痛いくらいにせり上がっていて、暗い部屋でもブラインドから差し込む月明かりでテラテラに輝いていた。
 でも、ここはぐっと我慢。なるべくアキさんに負担をかけたくない。
 痛みを感じないように、よく慣らしておこうと指だけ入れようとすると、アキさんは恥ずかしがって足を閉じてしまう。俺はアキさんの下半身の下に枕を据えると、思い切って足を広げて性器に顔を埋めた。
 ぺちゃぺちゃと丁寧にしゃぶると、小さな粒はすぐに興奮して立ち上がった。舌を使い奥へ差し入れると、縁から泉が滴ってくる。十分に濡れているのを確かめて、ゴムをつけたペニスを挿入した。
 最初はゆっくりと腰を進めたが、アキさんの奥は狭かった。ピクリと跳ねる小さな粒や、肉厚な割れ目が、柔らかく吸い付く。少しずつ動いても、ねっとりとした内壁が絡むのがペニスによく伝わる。
「力を抜いて」と助言するが、アキさんは必死で俺にしがみついていた。
 そっと挿入を繰り返している間にも、アキさんは下唇を噛みしめて、シーツを握りしめていた。
「怖くないから」と、握ったシーツを剥がし、俺の手を絡めると、「光輝」と名前を呼ばれた。
 名前を言われたとたん、俺は我慢がきかなくなった。血流が更に増し、茎が太くなるが自分でもわかった。
 猛烈に擦り合わせたい衝動にかられ、俺はアキさんのヒップに茎を埋め込む勢いで、前後に腰を動かした。
「ごめん。我慢できない」
 自制しようとするけど、ブレーキが利かない暴走車のように、腰を埋めて窪みに抜き差しする。俺はせりあがる高波のような甘い疼きを脳裏に覚え、奥深くに白濁を吐き出した。

 はあはあと、二人とも、大きく息をしていた。本当はもっとアキさんの中にいたいけれど、初めてなのにあまり負担をかけたくない。
 ずるりとペニスを抜き出すと、アキさんが「あん」と小さな声を上げた。
 声を聞いただけで、すぐに俺の下半身は熱くなる。本当は何度もしたかったけれど、アキさんはインフルエンザが完治しているわけではないし、初めてだと思うと、これ以上は求められなかった。
 代わりに、一緒にシャワーを浴びた。
アキさんは一緒にシャワーを浴びるのをとても嫌がったけれど、また倒れられたらたまらない。と、理由をつけて、丁寧にアキさんの身体を洗ってあげた。
 途中、何度か暴走しそうだったけれど、慎之介の怒る顔を思い出し、なんとかやり過ごす。
 再び一緒に布団に入ったところで、アキさんが話してくれた。
「私、結婚はしたんだけど、元の旦那様とはしたことないの。付き合って籍を入れたとたん、事故で亡くなったから。慎之介は、前の奥さんの連れ子なの。元旦那さんは慎之介が生まれてすぐに、子連れの奥さんと結婚したらしいわ」
 話を聞くと、元旦那さんは、俺の大学、つまりはアキさんの勤める大学の教授だったらしい。教え子でもあるアキさんとは、大学卒業後に付き合いだしたという。
「病気の時に、誰か頼れる人はいないの?」
「私は母子家庭で育って、親も亡くなっているし、元旦那さんの親は、私との結婚には大反対。慎之介の本当のお母さんは慎之介が二歳の時に亡くなっていて、亡くなった慎之介のお母さんは両親いなくて施設で育ったらしいから」
 なるほど。これでようやくアキさんをとりまく環境はわかったけれど、知ればしるほど、俺はアキさんが健気に思えた。
 結婚して、旦那様と結ばれないまま、死別。二十三歳の若さで、元旦那さんとも血が繋がらない前妻の子供を一人で育てているわけだ。よっぽど亡くなった旦那さんが好きだったのだろうと思うと、なんだか癪に思うがしかたがない。苦労をしている分、俺がアキさんを大事に、幸せにしてやらないと。と思う。
「ねえ、どうして俺を頼ってくれたの?」
 今頃になって、少し意地悪な質問だったかもしれない。けれど、冷静に考えると、親はいなくても、友達や、職場の同僚と、誰かいたのではないか。
 腕枕したアキさんは、うーん。と小さく唸った。
「友達もいないわけじゃないけど……。そういえばぜんぜん浮かばなかった」
 けろっと言われ、俺はアキさんが更に愛しくなった。
 他に頼る人も思い出さないくらい、俺のことが好きだということか。勝手に都合のいいように考えて、ハタと気が気付いた。もう、俺の気持ちなんてバレていると思うけれど、そういえば一度もちゃんと「好きです」と言った記憶がなかった。慎之介も俺のアキさんに対する気持ちは、察しているくらいだから、アキさんにはバレバレだと思ったが、一応言っておこう。
「順序が逆になったけど、好きです。アキさん。付き合って」
 アキさんは、身体をこちらに向けると、まじまじと俺の顔を見つめた。
「私でいいの? 子持ちだよ?」
「ぜんぜん。いつかは子持ちになるんだし。子育ての予行練習ができていいじゃん。早く俺の子供も産んでよ」
「それってプロポーズ?」
「そのつもりだけど? まあ、結婚は今でもできるけど、子供を作るのは大学を卒業してからにしてくれる?」
 照れくさかったけれど、慎之介を見ていると、子供がいる生活も悪くないと思う。
「私でよければ、お嫁さんにしてください」
 アキさんは恥ずかしそうに俺の胸に顔を埋めた。
 少し早かったか? と思ったけれど、大事にしたいという気持ちはずっと変わらないと思う。まさかここまで進展すると思っていなかったけれど、後悔はしていない。それより、明日の朝、慎之介にどう説明するか、俺は頭を悩ませた。 了



 ある日の朝。慎之介が一人でやってきた。
「テル。頼みがある」
 慎之介から見れば、俺が家来らしいので、口調も命令形だ。いつもそんな口調なので、最初は命令するな。と、いちいち諭していたが、そのうち断念した。
 最初はいつもの我が儘が始まったか? と思ったが、慎之介の表情は真剣だった。何かを頼まれるようなことは思いつかなかったし、慎之介が俺に頼み事をするなんて、これが初めてだ。いつもと違う慎之介の様子に、俺は悪い予感がしていた。
「どうした?」
「アキが寝込んでる」
「え? アキさん、病気なのか?」
 聞くと昨夜からアキさんは調子が悪かったらしく、慎之介の夕飯をどうにか作って食べさせた後、死んだように眠り、朝になっても起きないという。
「お願い。アキを病院に連れて行って」
「俺がか?」
 俺は今日のスケジュールを頭に思い浮かべた。幸い、今日の講義は午後からだ。病院に連れていくだけなら、おそらく午前中で終わるだろう。
「いいけど……」
 俺が「但し、行くなら午前中な」と付け加えると「良かった」と、慎之介はあからさまにほっとしていた。
 俺はふと考えた。母子家庭だからだろうか。口は悪いけれど、慎之介は、とてもアキを大事にしている。俺がアキさんを病院に連れていくのはかまわないとしても、他に頼れる人はいないのだろうか。元旦那さんは無理にしても、アキさん側のおばあちゃん、おじいちゃんだとか、おじさんおばさんだとか。
「俺が病院に連れていくのはかまわないけど、他に頼れる人はいないのか?」
 慎之介はほっとした表情から一転、少し表情を固くしたまま「いない」とだけ答えた。
 なんとなく、それ以上慎之介に訊けなかった。もしかしたらアキは実家が遠いのかもしれないし、頼りづらい環境なのかもしれない。ぐずぐずここで理由を考えてもしかたがない。とにかく、慎之介は俺を頼ってきたんだ。俺は腹をくくった。
「じゃあ、これからタクシー呼ぶから、保険証だけ用意してくれ」
「わかった」
 次の瞬間、俺は慎之介に指示しながら、携帯でタクシー会社を検索していた。

 タクシーを呼び、慎之介と共にアキさんを病院に連れて行くと、アキさんの病名はインフルエンザだった。注射を打って貰い、薬を貰って再びタクシーを拾ってアパートへ帰った。タクシーを降りると、アキさんは具合が悪いのに、気の毒なほど俺に何度も頭を下げていた。部屋まで自分で歩こうとするけれど、熱が高いせいで平衡感覚も鈍っているらしい。行く時もそうだったように、道路からアパートに戻るまでに段差もあることから、おぶったほうが早いと、俺はアキさんをおぶって部屋の前まで連れていった。
 ついでに許可をもらい、部屋に入る。フローリングにマットレスを敷いた布団が一組あった。慎之介が気を利かせアキさんの靴をはぎ取り、ゆっくりと布団に寝かせた。
 挨拶をし、俺の役目はここまで。と、部屋を出ようとすると、服を引っ張られる感覚があった。振り向くと、アキさんが俺のシャツの裾を引っ張っていた。
「どうしたの?」
 心細いのだろうか。儚げなアキさんの表情が、気になる。まだ何かやって欲しいことがあるのかと振り向くと、赤い顔をし、目を潤ませたアキさんが、じっと俺を見つめていた。目が潤んでいるのは熱のせいだとわかっていても、なんだか誤解しそうになる。こちらまで顔が赤くなっていないかと気にしながら「何かしてほしいことある?」と、尋ねるのが精一杯だった。
「アキ、何かやって欲しいことがあるなら、俺に言え」
 横で見ていた慎之介は、こんな時でも命令口調だ。
「慎之介、せめて病気の時くらい、優しい言い方しろよな」と、ツッコミを入れたが、アキさんは苦しそうにしながら「慎之介を……お願い……」と、蚊の鳴くような声で頼んだ。
 インフルエンザが慎之介に移るのを心配してのことだろう。
 こんな病気の時でも、慎之介を心配するなんて、やっぱり母親なんだな――。と、俺は酷く感動していた。
 本当は、午後から大学の講義があったが、アキさんに頼まれたのならしかたがない。俺はできるだけ自然に、笑顔を作った。
「わかった。慎之介は家で預かるから、心配しないで」
 アキさんは、あからさまにほっとした顔をし、化粧っけのない青い顔で渇いた唇の口角だけをゆっくりと上げて微笑んだ。儚げな笑みが、余計にか弱く見える。
「とにかく、寝て下さい。時々、様子を見に来ますから」
 慎之介と鍵を預かり、俺はアキさんの部屋を出た。
「テル。ありがと」
 玄関を出たところで、慎之介に礼を言われた。
 少しは感謝してくれているのか。と思うと、小さいのになんだか健気で、慎之介の日頃の無礼な態度も許す気になる。
「まあ、病気の時はお互い様だよな」
 なるべく、恩きせがましくならないように言うと、慎之介は唇を噛みしめて、大きく縦に頭を振った。段々と唇がへの字に曲がる。
 あ、これは泣かせたか……?と、心配して見やると、慎之介はぐっと堪え「僕、早く大人になりたい」と、ぽつりと言った。まだ四、五歳の子供なのに。どういう理由があるのかわからないけれど、可哀想の一言では、片付けられない。俺がガキの時には、ずっと子供でいたいと思っていたけどな――。
 あまりに自分が子供の時と違う環境に、胸の奥がツンとする。本当はもっと父親や母親に甘えたいだろうに。もしかしたら、日頃の慎之介の強気な態度は、『寂しい』を紛らすためのものなのかもしれない。俺は黙って慎之介の頭をガシガシと撫でた。


to be  continued……








大学から戻り、部屋で寛いでいる時だった。呼び鈴の音がして、玄関ドアを開けると、隣室のアキさんと慎之介が立っていた。
「隣の東海林です。昨日はご迷惑おかけしました。お借りしたパーカーです」
 アキさんは紙袋を俺に渡した。
「わざわざすいません」と受け取っていると、アキさんの指が、細かく震えていた。
 まるで中学生みたいだな――。と思う。
 俺にも覚えがある。初めて女の子に告白しようと、ラブレターを渡した。放課後、校舎の裏に呼び出し、手紙を手渡しする時にどれだけの勇気がいったのか。かなり緊張したものだったよな。と思い出すと、なんだかこっちまで緊張して手が震えた。
受け取りながら、俺はアキさんの左薬指にシンプルな指輪がはまっているのに気がついた。おそらく結婚指輪だろう。
 なんだ。やっぱり人妻だったのか。けれど、昨日は慎之介はママじゃないと言っていたし。よくわからない。どちらにせよ、俺には関係のないことだ。
「ありがとうございます」と、事務的に挨拶を述べ、玄関のドアを閉めた。
 アキさんと慎之介が、部屋に戻ったのだろう。耳を澄ますと、隣の玄関ドアの閉まる音が、小さく聞こえた。
 音を聞きながら、ほっとすると同時に、なんとなくつまらなさを感じていた。
 正直、俺は、アキさんに興味がある。だが、興味があるのは、アキさん本人だけではない。彼女をとりまく環境にも興味があった。
 なぜ、アキさんは、慎之介と生活しているのか。
 なぜ、二人は母子家庭なのか。
 慎之介の話が本当なら、慎之介はアキさんの子供ではないとも考えられる。
 考えれば考えるとほど、俺はアキさん親子が気になってしかたがなかった。
 翌日から、俺は講義が終わると、図書館へ通う日々が始まった。本にも興味はあるけれど、本命はアキさんに会うためだ。
 アキさんが図書館で働いている昼間は、慎之介は保育園に通っている。アキさんが司書としての仕事を終え、慎之介の保育園にお迎えに行く間の十五分、俺はアキさんと一緒に帰る。ささやかなデートの時間だ。と、思っていたのは、俺だけかもしれない。けれど、嬉しくてしかたがなかった。
 たまに保育園に行く前に、アキさんはスーパーで買い物を山のようにした。
 なんとなくなりゆきで、俺も荷物を持つついでに保育園のお迎えから、一緒に帰宅することが、度々あった。
 もちろん、荷物は全部俺が進んで持つ。ところが、俺がアキさんに優しくすると、慎之介の機嫌がすこぶる悪かった。
「テル。お前は家来だからな」
「あんまりアキに近づくな」
 まったく可愛げのないガキだ。
 慎之介が危惧している通り、俺はいつの間にかアキさんに夢中になっていた。
 初めて会った時に、全裸を目撃していたから。というだけではない。
 もちろん、俺だって健康な男子だ。衝撃的な出会いをした日は、刺激的でよく眠れなかったけれど、俺がアキさんを好きになったのは、本当に子持ちの主婦なのか? と疑うくらい、純粋なのだ。乙女のまま年をとった印象がある。
 例えば、図書館の本棚の棚の影で、学生の恋人同士がキスをしているのを目撃しても、立ち寄ったスーパーで、男物のパンツの安売りを見ても、いちいち顔を赤くして反応する。
パンツぐらい、慎之介のを毎日見ているだろうし、旦那のパンツを洗濯した経験ぐらいあるだろう。と、いうのは、アキさんには当てはまらないらしい。
年齢は知らないが、俺より年上なのは間違いない。俺の中では、年上の女性はもっと積極的だという印象があるし、同い年の女の子だって、もっと過激なガールズトークなんかしていそうだ。
 アキさんは、少し俺と手が触れただとか、スーパーで高い場所にあるものを取ってやると、それだけで赤くなる。年上の女性が、何かにつけ、はにかんだ表情を見せるのは、思った以上にギャップがあって、俺は胸をわしづかみにされた。
 実際は違う面もあるのかもしれないが、惚れた男にとって、憧れの女性の存在は、いつでも夢の存在なのだから、好きに妄想するくらい許されるだろう。
 おそらく、慎之介が俺に対して厳しいのは、アキに対して好意を持っているとわかって警戒しているからだ。隠す必要はないと思っているので、俺は素直に好意を表していた。



to be  continued……



  

   2



 翌日、俺は気になって目が覚めた。
 思ったより――というか、予想通りというか、隣室との壁はけっこう薄いらしい。朝からドタバタする音が筒抜けの上、早朝に部屋を二人して出て行った音がした。
 気になっていたのは、音ばかりではない。昨日、出くわした親子だ。慎之介は親子ではないと言っていたが、本当のところはどうなのだろう。
 大学に通学する際、ポストの表札を見たら、『東海林アキ・慎之介』と名前が載っていた。世帯主はアキさん。男の名前がないな。と、さりげなくチェックする。アキさんの名前のすぐ下に、旧姓・山崎と載っていたのは気になるところだったけれど。
 ふーん。
 籍は同じらしいし、旧姓と載せているところをみると既婚者で親子なのだろう。けれど、慎之介はアキさんがママではないと言っていた。
 母子でないとすると、連れ子なのか? もしくは、アキさんは出戻りの姉で、慎之介とは歳の離れた姉弟ってところか? 
 想像するが、よくわからない。
 そもそもこのアパートは、間取りが1Kということもあり、単身者用だよな。と、再確認する。理由はともあれ、二人暮らしというわけか。
 時計を見るとすでに 遅刻しそうな時間に気がつき、俺はそれ以上詮索するのは野暮だと諦めた。
 人の家庭を詮索しても、何の意味もない。俺には関係のないことだ。それより、大学生になった俺には、もっとやらなければならないことが、山ほどあるのだから――。

 大学進学を期に、俺は念願の一人暮らしを始めた。
 アパートから、大学まで徒歩で約二十分。散歩がてらの通学は、ちょうどいい距離だ。 少々建物は古いけれど、風呂もキッチン付いている。ついでに一階なので小さな庭まで付いているのはラッキーだった。掃除、洗濯、料理に、ゴミの出しかたまで。殆ど家事を母任せだったのでまだ慣れないけれど、知らないことを始めるのは嫌いではない。俺は一人暮らしを楽しんでいた。
 大学に入学した最初の一週間は、オリエンテーションの日々だ。
 そういえば、この大学には大きな図書館があったなと、読書家である俺は、暇をみつけて図書館を覘いてみた。
 昭和初期に作られた建物は、幸運にも東京大空襲を逃れ、大学の敷地の端にひっそりと建っていた。ゴシック調の石造りの建物は、入った瞬間に空気が冷えているのを感じる。大理石の床と、高い天井は、もうそれだけで満ち足りた気分にさせてくれた。
 まずは蔵書のチェックから――。
 俺は入り口で辺りを見回していると、「新入生ですか?」と声を掛けた司書さんがいた。 顔を向けると、どこかで見た気がする。昨日の裸の人だ―― と、すぐに思い出した。
相手もすぐに俺の顔を見ると、次の瞬間、ばっとカウンターの下に隠れた。隣にいた司書が隠れたのを不審に思ったらしくアキさんに問い質すと、「ごめんなさい。慎之介のお迎えの時間だから上がります」と、猛ダッシュでカウンターから飛び出て行った。
 もしかして、俺と顔を合わせるのが恥ずかしいから出て行ったのか? 
 そんなことしたって、同じアパートに住んでいるんだから、逃げてもしょうがないのに。
「あの……今の人は?」
 俺が残った司書に尋ねると、「ああ。あの子はちょっと変わっているから」と、前置きして事務的に受付カードを作ってくれた。
 仕事中は徹底して仕事をやるタイプらしく、俺がアキさんについて尋ねても、特に返事はない。あまり個人的なことを聞いても悪いと思うので、俺もそれ以上尋ねなかった。
 どうやら、アキさんの勤務先は、俺の通う大学内の図書館らしい。これだけわかっただけでも、今日は収穫だ。
 自宅もお隣同士。学校でも図書館に行けばアキさんに会える。

そう考えるだけでも、俺は幸せな気分になれた。


to be  continued……



隣人


-人の女-




 白いクロス貼りの壁に、白いフローリング。引っ越し屋が忙しなく荷物を運び込む。床のフローリングは少々傷が入っていたけれど、綺麗にワックスがかかっていた。
「これで全部です」
 承認のサインをし、玄関ドアを締めたところで、俺、吉永光輝は、ようやくほっと息をついた。今日から俺は、念願の一人暮らしを始めるのだ。
 中古物件の木造アパート。間取りは1Kと、けして広くはないけれど、狭いながらも楽しい我が家になるのは間違いはないだろう。一階の俺の部屋の目の前には、小さいけれど庭もある。つい、嬉しくなってカーテンのついていない窓を開けると、花の匂いがした。
 沈丁花の匂いだろうか。控えめな匂いは、嫌いではなかった。
 時計を見ると、すでに夕方だった。とりあえず、アパートの両隣には挨拶をしておこうと、俺は母から無理矢理持たされた新茶の包みを持って、玄関を出た。
 先に右隣部屋のインターフォンを鳴らしたが、どうやら留守のようだった。後でもう一度訪問することにして、今度は右隣の部屋の前へ行く。インターフォンを鳴らそうと玄関ドアの前へ立ったとたん、バタンといきなり扉が開いた。
「ちょっと! 待ちなさい!」
 へ? 子供?
 見ると全裸の男の子が裸足で出てきた。歳は四、五歳ぐらいだろうか。
 春先と行っても、裸で外へ出るにはまだ寒い季節だ。まさか虐待されているのか――? と、部屋の中へ目を向けると、全裸の女の人が立っていた。
 歳は二十代前半くらい。部屋の電気はついていなかったが、薄暗い中でも白い肌がひときわ目立つ。豊満な乳房に濡れた髪の毛が張り付いていた。くびれたウエストに程良く張った腰は、今まで見たグラビアアイドルのどんな子よりも色っぽい。顔まではよくわからないけれど、綺麗な身体をしているな――。と、思わず下から上へ視線を上げたところで、女の人と目が合った気がした。
「きゃあ! 見ないで!」
 次の瞬間、手当たり次第、スリッパだの、新聞だの、物が飛んできたので、俺は思わず玄関の扉を閉めた。
 な、なんだ? 今のは。
 心臓がバクバクいっている。まさかこんなに間近で一糸まとわぬリアル女体を見るなんて。思わず下半身に血液が集中するのがわかり、少し前屈みになる。
 視線を足下に向けると、すぐ脇で男の子が裸で立ちすくんでいる姿が目に入った。
「お前、大丈夫か? 何かされたのか?」
 俺は膝をついて視線を合わせ、男の子に尋ねると、男の子は恥ずかりもせずにまっすぐに見上げた。
「お、お兄ちゃん、誰?」
 見ると歯をがくがく言わせていた。裸で寒いのだろう。俺は羽織っていたパーカーを脱ぎ、男の子にかけてやった。
「俺は吉永光輝。今日、隣に引っ越してきた。テルでいいぞ。それより、なんで裸なんだ? ママに怒られたのか?」
 初対面で、どこまで人の家庭に踏み込んで良いものかわからないけれど、裸で玄関から飛び出すなんて、ただごとではない。見たところ、母親はまだ若いようだったし、俺の頭の中では『幼児虐待』という文字が、浮かんでは消えていた。
「あれはママじゃないよ。アキだよ」
「アキ? ママの名前か?」
「そう。でも、ママじゃない」
 男の子の言う意味が、よくわからない。あれが母親でなければ、いったい誰なのか?
 不可解だな。と思っていると、玄関ドアが薄く開いた。先程の女性が隙間から顔を覗かせ、外の様子を窺っていた。
「あの……隣に引っ越してきた吉永です」
 俺は立ち上がり、先に挨拶をすると、ようやく玄関が開いて女性が出てきた。今度はちゃんとシャツとジーパンと服を着ている。男の子も気づいて、俺の陰に隠れると、小さな手でジーパンを握りしめていた。
「す、すいません。ご迷惑をおかけしました」
 ぺこりと頭を下げ、反動で顔を上げる。風呂にはいっていたからだろう。濡れ髪からは、ほんのりとシャンプーの匂いがする。身体も綺麗だったけれど、顔も綺麗だった。化粧していない肌は、全裸の時と同じように白かったし、ゴムで一纏めにして丸見えになった首筋は、細くてしなやかだった。
「あの……立ち入って申し訳ないんですが、まさか虐待ってわけじゃ――」
 迷いながらも言葉にしてみる。初対面で聞いていいものかわからないけれど、場合によっては、男の子を返すわけにはいかないと思った。俺が全部言い終わらないうちに、女性のほうから誤解だとばかり、顔の前で手を振った。
「違います! 違います! むしろ虐められていたのは、私のほうで……」
 女性は、うつむくと恥ずかしそうに下唇を噛みしめた。
 男の子が女性を虐めていたというのか? 意味がわからん。
 俺はジーパンを握りしめている男の子の顔を見つめた。
「お前、虐めたのか?」
「僕、あれくらいでアキが泣くとは思わなかったんだもん。虐めようと思ってやったわけじゃ……」
 じわりと男の子の顔が歪む。段々口がへの字に曲がっていく。
 泣くのをぐっと我慢している顔だ。それでも、男の子は俺に説明しようと、やっと口を開いた。
「だって、アキはショジョなんでしょ? だから僕の母親じゃないって」
「やめて!」
 男の子の声に被さるように、女性が大声を上げた。「二度と言わないで」と恥ずかしそうに顔を両手で覆う。
 ショジョ? 
 頭の中でカタカナを漢字に変換してみる。おっと。これは子供が簡単に口に出して良い言葉ではない。見たところ子供といっても、まだ四、五歳のはずだ。俺がこの子と同じくらいの年に、処女なんて言葉は、そもそも知らなかった。
 詳しいことはわからないけれど、見たところ男の子の身体に傷や火傷の跡はなかった。どうやら女性の言うことは正しいようだ。虐待したわけではないとわかると、少し俺も落ち着いてきた。
「お前、名前なんていうの?」
「慎之介」
「へえ。格好イイ名前だな」
 名前が格好イイと言われたのが誇らしいのか、慎之介は足下まであるパーカーを着たまま仁王立ちして元気に答えた。
「慎之介。初対面でこんなこと言いたくないけど、男の先輩として、言わせてもらう。女の子にそんなことを言っちゃダメだ」
「へ? そんなことって?」
「だから……その……処女だとかいうのは、いくらママでも失礼だぞ。ママでなくてもそうでなくても、男なら、女の子を泣かすな。ちゃんと謝れ」
 しどろもどろな言い分だったけれど、慎之介は俺のいいたいことは解ってくれたようだ。「女の子を泣かすな」と念を押すと、素直に「ご、ごめん……な……さい」口先を尖らせながらも、小さく呟く。
「俺に謝ってもしょうがないだろ? ほら、ちゃんとママ――じゃない。ええとアキさんに言わなくちゃ」
 アキさんは目の前で両手を広げると、慎之介は待っていたように「ごめんなさい」と泣きながらも抱きついた。アキさんも納得したのか、用意していたバスタオルで慎之介の身体を大事そうに抱きしめると、大泣きしていた慎之介は、恥ずかしそうにしながらも身を預けていた。
俺は二人の姿を見て、なんとなく胸の奥がくすぐったくなった。最後に母親に抱きしめられたのは、いつだっただろう。アキさんの姿に、自分の母親の姿を重ね合わせて、少し胸がじんとくる。
「うん。いいよ。それより寒いでしょ。早く部屋に戻ろう」
 落ちていたスリッパや新聞を拾い集め、アキさんは慎之介の背中を押しながら、俺に視線を送った。
「すいません。ご迷惑おかけしました」
 深々とアキさんは頭を下げ、慎之介と仲むつまじく部屋に入っていく。
 俺は二人の後ろ姿を見送りながら、早くも一人暮らしのわびしさを感じないわけにはいかなかった。俺は挨拶変わりのお茶を渡すのも忘れて、黙って二人が部屋に入るのを、頬を緩めて見守っていた。



to be  continued……