隣人 -人の女-  1 | 一期一会

一期一会

本も人の出会いも一期一会。時々読者、時々物書き。好きな本やコミック感想を中心に、日常のつれづれと共につぶやいていきます。

隣人


-人の女-




 白いクロス貼りの壁に、白いフローリング。引っ越し屋が忙しなく荷物を運び込む。床のフローリングは少々傷が入っていたけれど、綺麗にワックスがかかっていた。
「これで全部です」
 承認のサインをし、玄関ドアを締めたところで、俺、吉永光輝は、ようやくほっと息をついた。今日から俺は、念願の一人暮らしを始めるのだ。
 中古物件の木造アパート。間取りは1Kと、けして広くはないけれど、狭いながらも楽しい我が家になるのは間違いはないだろう。一階の俺の部屋の目の前には、小さいけれど庭もある。つい、嬉しくなってカーテンのついていない窓を開けると、花の匂いがした。
 沈丁花の匂いだろうか。控えめな匂いは、嫌いではなかった。
 時計を見ると、すでに夕方だった。とりあえず、アパートの両隣には挨拶をしておこうと、俺は母から無理矢理持たされた新茶の包みを持って、玄関を出た。
 先に右隣部屋のインターフォンを鳴らしたが、どうやら留守のようだった。後でもう一度訪問することにして、今度は右隣の部屋の前へ行く。インターフォンを鳴らそうと玄関ドアの前へ立ったとたん、バタンといきなり扉が開いた。
「ちょっと! 待ちなさい!」
 へ? 子供?
 見ると全裸の男の子が裸足で出てきた。歳は四、五歳ぐらいだろうか。
 春先と行っても、裸で外へ出るにはまだ寒い季節だ。まさか虐待されているのか――? と、部屋の中へ目を向けると、全裸の女の人が立っていた。
 歳は二十代前半くらい。部屋の電気はついていなかったが、薄暗い中でも白い肌がひときわ目立つ。豊満な乳房に濡れた髪の毛が張り付いていた。くびれたウエストに程良く張った腰は、今まで見たグラビアアイドルのどんな子よりも色っぽい。顔まではよくわからないけれど、綺麗な身体をしているな――。と、思わず下から上へ視線を上げたところで、女の人と目が合った気がした。
「きゃあ! 見ないで!」
 次の瞬間、手当たり次第、スリッパだの、新聞だの、物が飛んできたので、俺は思わず玄関の扉を閉めた。
 な、なんだ? 今のは。
 心臓がバクバクいっている。まさかこんなに間近で一糸まとわぬリアル女体を見るなんて。思わず下半身に血液が集中するのがわかり、少し前屈みになる。
 視線を足下に向けると、すぐ脇で男の子が裸で立ちすくんでいる姿が目に入った。
「お前、大丈夫か? 何かされたのか?」
 俺は膝をついて視線を合わせ、男の子に尋ねると、男の子は恥ずかりもせずにまっすぐに見上げた。
「お、お兄ちゃん、誰?」
 見ると歯をがくがく言わせていた。裸で寒いのだろう。俺は羽織っていたパーカーを脱ぎ、男の子にかけてやった。
「俺は吉永光輝。今日、隣に引っ越してきた。テルでいいぞ。それより、なんで裸なんだ? ママに怒られたのか?」
 初対面で、どこまで人の家庭に踏み込んで良いものかわからないけれど、裸で玄関から飛び出すなんて、ただごとではない。見たところ、母親はまだ若いようだったし、俺の頭の中では『幼児虐待』という文字が、浮かんでは消えていた。
「あれはママじゃないよ。アキだよ」
「アキ? ママの名前か?」
「そう。でも、ママじゃない」
 男の子の言う意味が、よくわからない。あれが母親でなければ、いったい誰なのか?
 不可解だな。と思っていると、玄関ドアが薄く開いた。先程の女性が隙間から顔を覗かせ、外の様子を窺っていた。
「あの……隣に引っ越してきた吉永です」
 俺は立ち上がり、先に挨拶をすると、ようやく玄関が開いて女性が出てきた。今度はちゃんとシャツとジーパンと服を着ている。男の子も気づいて、俺の陰に隠れると、小さな手でジーパンを握りしめていた。
「す、すいません。ご迷惑をおかけしました」
 ぺこりと頭を下げ、反動で顔を上げる。風呂にはいっていたからだろう。濡れ髪からは、ほんのりとシャンプーの匂いがする。身体も綺麗だったけれど、顔も綺麗だった。化粧していない肌は、全裸の時と同じように白かったし、ゴムで一纏めにして丸見えになった首筋は、細くてしなやかだった。
「あの……立ち入って申し訳ないんですが、まさか虐待ってわけじゃ――」
 迷いながらも言葉にしてみる。初対面で聞いていいものかわからないけれど、場合によっては、男の子を返すわけにはいかないと思った。俺が全部言い終わらないうちに、女性のほうから誤解だとばかり、顔の前で手を振った。
「違います! 違います! むしろ虐められていたのは、私のほうで……」
 女性は、うつむくと恥ずかしそうに下唇を噛みしめた。
 男の子が女性を虐めていたというのか? 意味がわからん。
 俺はジーパンを握りしめている男の子の顔を見つめた。
「お前、虐めたのか?」
「僕、あれくらいでアキが泣くとは思わなかったんだもん。虐めようと思ってやったわけじゃ……」
 じわりと男の子の顔が歪む。段々口がへの字に曲がっていく。
 泣くのをぐっと我慢している顔だ。それでも、男の子は俺に説明しようと、やっと口を開いた。
「だって、アキはショジョなんでしょ? だから僕の母親じゃないって」
「やめて!」
 男の子の声に被さるように、女性が大声を上げた。「二度と言わないで」と恥ずかしそうに顔を両手で覆う。
 ショジョ? 
 頭の中でカタカナを漢字に変換してみる。おっと。これは子供が簡単に口に出して良い言葉ではない。見たところ子供といっても、まだ四、五歳のはずだ。俺がこの子と同じくらいの年に、処女なんて言葉は、そもそも知らなかった。
 詳しいことはわからないけれど、見たところ男の子の身体に傷や火傷の跡はなかった。どうやら女性の言うことは正しいようだ。虐待したわけではないとわかると、少し俺も落ち着いてきた。
「お前、名前なんていうの?」
「慎之介」
「へえ。格好イイ名前だな」
 名前が格好イイと言われたのが誇らしいのか、慎之介は足下まであるパーカーを着たまま仁王立ちして元気に答えた。
「慎之介。初対面でこんなこと言いたくないけど、男の先輩として、言わせてもらう。女の子にそんなことを言っちゃダメだ」
「へ? そんなことって?」
「だから……その……処女だとかいうのは、いくらママでも失礼だぞ。ママでなくてもそうでなくても、男なら、女の子を泣かすな。ちゃんと謝れ」
 しどろもどろな言い分だったけれど、慎之介は俺のいいたいことは解ってくれたようだ。「女の子を泣かすな」と念を押すと、素直に「ご、ごめん……な……さい」口先を尖らせながらも、小さく呟く。
「俺に謝ってもしょうがないだろ? ほら、ちゃんとママ――じゃない。ええとアキさんに言わなくちゃ」
 アキさんは目の前で両手を広げると、慎之介は待っていたように「ごめんなさい」と泣きながらも抱きついた。アキさんも納得したのか、用意していたバスタオルで慎之介の身体を大事そうに抱きしめると、大泣きしていた慎之介は、恥ずかしそうにしながらも身を預けていた。
俺は二人の姿を見て、なんとなく胸の奥がくすぐったくなった。最後に母親に抱きしめられたのは、いつだっただろう。アキさんの姿に、自分の母親の姿を重ね合わせて、少し胸がじんとくる。
「うん。いいよ。それより寒いでしょ。早く部屋に戻ろう」
 落ちていたスリッパや新聞を拾い集め、アキさんは慎之介の背中を押しながら、俺に視線を送った。
「すいません。ご迷惑おかけしました」
 深々とアキさんは頭を下げ、慎之介と仲むつまじく部屋に入っていく。
 俺は二人の後ろ姿を見送りながら、早くも一人暮らしのわびしさを感じないわけにはいかなかった。俺は挨拶変わりのお茶を渡すのも忘れて、黙って二人が部屋に入るのを、頬を緩めて見守っていた。



to be  continued……