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それから二時間後。伊織は二日酔いの頭痛を我慢しながら、玄関ドアの鍵を閉めた。
隣の部屋を出たのは、つい先程のような気がする。あれから隣人がやって来たらどうしよう。と心配だったけれど、どうやら杞憂らしかった。
いつもより早い時間だが、部屋にいても隣人が気になってしかたがないのは確かだ。早く勤務しても、勤め先の大学では割増料金を支払われるわけではないのだけど、部屋にいるよりはマシだ。なるべく鉄骨階段を音をたてないように降り、階段下にあるポストの名前を確認した。
206のポストには、『山本薫』と名前があった。
そうか。彼は薫君というのか。
隣の苗字だけはうっすらと記憶にあったが、名前までは覚えていなかった。
年は間違いなく三十路前の伊織より若いだろう。
夕べは、酷く酔っていた。非常勤講師として勤めて約一年。民間企業からの転職は、安定しているし、楽だろうと一通り一年間過ごしてみたが、案外、そうでもなかった。
学生は真面目に提出物を出さないわ、上からは、評定の低迷者が多すぎると指導能力を疑われるわ。この辺りは、民間企業の中間管理職とさほど変わらないかもしれない。
伊織がここまで酔ったのは、日頃の鬱憤がたまっていた上に、亡くなった東海林教授が再婚していたというのを最近知ったからだ。
東海林教授は、学生時代から、憧れの教授だった。
民間企業からの転職先を、ここの大学にしたのは出身校だったからの理由だけではなかった。
ロマンスグレイの東海林教授に憧れてというのが、一番の理由だったからかもしれない。転職してみれば、東海林教授は半年ほど前に亡くなったと聞いたと聞き、がっくりとしたものだったが。
来月の誕生日がくれば、伊織はとうとう三十路になる。先日も母から「付き合っている彼がいないのなら、早くこっちに戻ってきなさい」と苦言を言われたばかりだ。
毎年届く年賀状の友人の苗字が変わるのが増えるのを、羨ましく思う。実家からの電話を、素直に喜べない。
大学の講師に転職したのも、元はと言えば、上司との不倫が奥さんにばれたからだ。
会社を追われ、自宅まで無言電話や、不幸の手紙紛いの郵便物が、毎日のように届く。一刻も早く上司とは縁を切りたかったし、違う生活を送りたかった。
たまたま行った同窓会で、出身大学で講師を募集していると聞き、よい機会だとすぐに応募した。結果は合格。一ヶ月後には採用され、これを期に人生をリセットするはずだったのに――。
もちろん、転職の理由は両親には内緒だった。最近では、電話がある度に、戻って来いだとか、早く孫の顔が見たいだとか。結婚の催促としか思えない意見ばかりを、遠回しに何度も話す。やっと再就職できたのに、今更辞めたいとは思わない。人生とは、上手くいかないものだ。とにかく、伊織は前途多難な人生を悲観していた。
転職二年目の春に、他の講師を迎えての歓迎会があったのは、伊織にとって「憂さ晴らししなさい」との、神からのお告げのように思えた。
普段、あまり人前では呑まないのだが、夕べは勧められるだけ呑んでいた。憂さ晴らしできたのはよかったけれど、帰るべき部屋を間違え、隣人の男と一夜を共にしてしまうとは。
今まで真面目で良い子として育ってきた伊織には、とても大きな過ちを犯した気になっていた。
とにかく、一刻も早く引っ越しをしよう。
疼く頭を押さえつつ、伊織は勤務先の大学へ足を向けた。
to be continued……