一期一会 -9ページ目

一期一会

本も人の出会いも一期一会。時々読者、時々物書き。好きな本やコミック感想を中心に、日常のつれづれと共につぶやいていきます。

第一章 昔の男




 それからも、日向は連日、女を部屋に連れ込んだ。かまわず声を出させるつもりなら、ラブホテルに行くか、もっと防音性のあるマンションでも引っ越せばいいのに。
 自称かもしれないが、職業は? と訊かれて「AV男優です」と、即答できるくらいだ。 以前から絶倫男だとは思っていたけれど、職業となれば、それなりのトレーニングもあるのかもしれない。そう考えると、近所迷惑も甚だしいと思うが、文句も言いにくい。
 せいぜい、私にできる処置といえば、引っ越しで余っているダンボール箱を一○一号室との間の壁に置くとか、夜中にトイレの水をわざと流すとか、無言の抵抗をしてみるけれど、全部無駄だった。
 五月蠅いのは、女の喘ぎ声だけではない。キィキィといった機械音が聞こえてくる。
 音の原因は、日向がピストンのように腰を振ることにより、ベッドがきしむ音だと思うと、男と女の営みが妙にリアルに想像できて、独り身として、欲求不満になるのは時間の問題だった。
 ある休日の夕方。電気も付けず、薄暗い中、クローゼットを整理しようと開けっ放しで作業をしていると、クローゼットの奥から、わずかだか光が漏れていた。
 よく見ると、化粧ボート仕上げになっているクローゼットの内部は、ボード一枚で一○一号室と仕切られていて、ボードの繋ぎ目に隙間があるらしい。
 洋室の内装は、壁も天井もせっこうボードにクロス貼りの仕上げになっている。
 たとえせっこうボードとの間に隙間があったとしても、クロス貼りにする段階で、せっこうボードの隙間には下地のパテを二重、三重と塗り込み、その上 にクロスで覆うのだから隙間など存在しない。
 どういうわけか一○一号室と一○二号室のクローゼットの壁は、十二・五ミリの化粧ボード一枚で隔てられているらしかった。

 アパートやマンションなどの世帯の違う住居が隣接する場合、界壁という壁で天井裏まで仕切らなければならないが、この建物は違法建築だった。

おそらく素人職人が、手抜き工事をしたのだろう。設計の仕事をしているせいで、細かい職人の落ち度まで解るのが、自分でも嫌になる。
 好奇心で隙間から隣を覗くと、灯りをつけたまま、ベッドで日向が寝ていた。師走だというのに、Tシャツとボクサーパンツ姿だ。布団もなにもかけておらず、ボクサーパンツもだらしなく半分ほどずり下がった姿だった。
 さらに目を凝らすと、ずり下がったパンツの端から、青い入れ墨のような尻の蒙古斑が見えた。
 中年になっても蒙古斑があるなんて珍しい。それにしてもあの蒙古斑の形は、まるでハート形の一部みたいだ――。と、考えたところで、私ははっと気がついた。
 もしも、あの蒙古斑の形がハート形をしていたなら。私は該当する人間を知っているかもしれない。
 ふと、私は三浦君を思い出した。
 あれは中学二年生の頃。真面目であだ名が『委員長』と呼ばれていた私は、転校生である三浦君の案内係や世話を押しつけられた。
 三浦君の顔はぼんやりとしか覚えていない。なぜなら、彼は三ヶ月後にはまた転校して行ったからだ。
 三年になる前にいなくなったものだから、卒業アルバムにも載っていなかった。おそらく、同級生に彼のことを尋ねたとしても、覚えている友人は殆どいないと思う。
 私がなぜ三浦君を覚えているかというと、初体験の相手だったからだ。
 三浦君がインフルエンザで連日学校を休んだ後、帰宅する方向が同じで委員長をやっていた私に、三浦君宅までプリントを持って行くよう先生に言われた。
 面倒くさいと思いつつ、真面目な私は断ることなどできなかった。
 住所を教わり、地図を頼りに尋ねると、親は仕事で居なかったが、彼は病み上がりだというのに丁寧にお茶まで出してくれた。
 なんとなく話しているうちに、初体験の話になった。中学二年といえば、男子だけでなく、女子も男女交際に興味を示す頃だ。
 三浦君は、なんと小学六年生で初体験をしたらしい。それ以来、毎日オナニーを欠かさず行うのが日課になっていると言った。インフルエンザで寝ている間は、流石にオナニーする元気がなくて、病み上がりの今は、溜まっている状態だと。
 誘われて、好奇心旺盛だった私は、三浦君に抱かれた。
 正直、あまり気持ちいいとは思えなかったけれど、それでも三浦君は丁寧に私のことを抱いてくれた。異性に身体を触られるのは初めてだった。
 初めての感想は、とても痛かった。身体が裂けるかと思った。男の子の前で、身体をあんなに広げなければならないのかと思うと、恥ずかしくて、死んでしまいたくなった。
 けれど、場所によっては、ゾクゾクと身体に電流が走る部分があると訴えると、三浦君は「慣れれば、そこはひとみちゃんの気持ちイイとこになるよ」と教えてくれた。
 抱き合った後で、いろんな話をした。
 まだ大人になりきっていない私の身体は、胸も大きくなかったし、ウエストもくびれがなかった。おまけにへその横に、小さな赤い痣がある。
 自分はコンプレックスだらけの身体だと思っている私は、経験者の三浦君を満足させられたのかと、初めてのクセに心配して尋ねた。
「ねえ。コンプレックスだらけの身体でも、抱きたいと思う?」
 素直な私の気持ちだった。セックスの経験者の日向君から見れば、私以外に女の身体を知っているわけだし、同級生で聞きやすかったというのもある。
「心配しなくてもいいよ。ひとみちゃんは、十分魅力的や。コンプレックスはチャームポイントやろ。人はコンプレックスがあるから、誰かを好きになるんと違う?」
 三浦君が当たり前のように答えてくれた時には、随分大人なんだな。と、ひどく納得したものだった。
「俺だってコンプレックスだらけや。ほら、この通り」と、右尻の上にハート型の蒙古斑があるのを見せられた時には、なんだか三浦君が愛しくてたまらなくなり、私は何度もハート型の蒙古斑の上にキスをしたものだった。
 翌日、私は案の定、インフルエンザにかかった。一週間も学校を休み、久しぶりに学校に登校してみると、三浦君は転校していなかった。
 先生に引っ越し先を聞いたけれど、遠い地方への転校だったし、プライバシーの問題だとかで教えて貰えなかった。もっとも、連絡先を知ったとしても、当時中学生の私には、ぜいぜい手紙を書くくらいしかできなかっただろうけれど。
 私が三浦君について覚えているのは、右尻上にあるハート型をした蒙古斑と、抱き合った時にしきりに呼んでくれた「ひとみちゃん」という声。
 今にして思えば、あれが初恋だったのかもしれない――。 


to be  continued……



     3


引っ越しして、新生活にも慣れてきた頃だった。朝、私は寝不足の頭を抱えて、出社しようと部屋を出た。
「おはようございます」
 ふと声を掛けられて声の主を探すと、隣の男だった。男は泊まった女を見送った後のようで、まだ眠そうな顔だがにっこりと笑った。
 絶倫男は、コイツか――。
 まさか声を掛けられると思わなかった。
 私はお辞儀をしながら、まじまじと男の顔を見た。てっきり若い男だと思っていたのに、中年の男だった。年の頃は私と同じくらい。背が高く日焼けした顔は、年はとっているが、目尻の皺が良い具合に優しい印象を与える。鼻の上に皺を寄せながら笑う仕草を、どこかで見た記憶があった。
 あれ? この人。会ったことなかったっけ?
 どこかで会ったような既視感を抱きつつも、名前を思い出せなかった。おそらく、気のせいだ。だって、私の知り合いには、こんな絶倫男はいないはずだから。
 私は「おはようございます」と挨拶した後に、初対面なのを思い出し「あ、隣にお住まいの方ですか? はじめまして」と、付け加えた。
「初めて……?」
 隣の男は、不躾に私の身体を下から上まで、二度ほどゆっくりと舐めるように視線を投げかけた。
 なに? この人。第一印象は、悪くないと思っていたのに、初対面でジロジロ人を見るなんて。なんて失礼なヤツなのだろう。
 私はあからさまに時間がない振りを装い、腕時計を見た。
「ああ。時間がないので、ここで――」
 少しわざとらしかっただろうか。演技くさかったかもしれない。私が一○一号室の前を横切ると、腕をつかまれ声を掛けられた。
「俺、安元日向ちゅうんや。失礼やけど、名前は? これから仕事やの?」
 まさか腕を捕まれるとは思っていなかった。自己紹介されたのも意外だった。少し驚きながらも「ええ、私は関ひとみ。これから仕事です」と捕まれた腕を睨み付けた。
「ああ、ごめん。ごめん」
 日向は謝りながらも手を放そうとはしなかった。「仕事は何を?」と、矢継ぎに訊いてくる。
「会社員をやってます。仕事は、建築会社で設計をしてますけど?」
 私は答えながらも、初対面の男に正直に話している自分に驚いた。なぜかこの男にはすらすら言えてしまう。不可思議に思いながらも、私ばかり聞かれるのも癪だ。逆に質問してみた。
「失礼ですが、貴方のお仕事は?」
「AV男優や」
 日向が即座に答えたものだから、一瞬何を言われたか理解できなかった。初対面で職業を聞かれ、「会社員」や「自営業です」ならともかく、誰が「AV男優」と予想するだろう。
 頭の中で反芻して、ようやく何を言ったか理解できたが、こういう場合、どう反応していいものかわからなかった。
 私の今までの人生の中で、堂々とAV男優と名乗る男に会った経験もなかったし、知り合いにもいない。胸を張って即答するくらいだから、その業界では有名なのかもしれない。
 若い子なら笑って済ませるのかもしれないけれど、中年で、しかも離婚を前提に一人暮らしをしている身としては、いたたまれなかった。
 一Kのアパートに住んでいるというのは、間違いなく私は単身者として見られている。ハタから見れば、結婚もしていない、可哀想な中年女だ。実はAV男優というのは嘘で、独身の中年女がどう反応するのか、楽しんでいるのかもしれない。もし、そうだとしたらかなり意地悪な男だ。
「反応に困ったんと違う?」
 私が黙り込んでいると、日向は直ぐさま私の考えを読んだのだろう。
「嘘じゃないよ。ソッチ関係で困ったら、いつでも尋ねてきて。ひとみちゃんなら、いつでも即OKやから」
 日向はそれだけ言うと、掴んだ腕を放して「じゃあ、いってらっしゃい」と、部屋に入った。
 なに? ホントにAV男優なの? 今のは営業ってこと?
  日向の「ひとみちゃん」の口調に、聞き覚えがある気がするけれど――。
 バタンと玄関ドアが閉まる音で、私は我に返った。
 ああ。早く急がなきゃ遅刻する。
この年で初対面の男に名前で呼ばれるとは思わなかった。悪い気分ではないが、どうも変な男だ。それにしても、名前で呼ばれたのは何十年ぶりだろうかと考えつつ、私は先を急いだ。



to be  continued……




第一章 昔の男




あれから一ヶ月。私は一人で家を出た。十五年ぶりの一人暮らしの再開だった。
 実家に戻ろうかと思ったけれど、生憎、私は地方出身で、実家には両親の他に、兄夫婦と三人の子供が暮らしている。今更とても戻れる環境ではなかったし、これから一人で生きていくのなら、仕事は辞められない。一人暮らしをするしか、選択の余地はなかった。 せっかく一人暮らしを始めるのなら、おしゃれなマンションでも。と、考えたけれど、現実はそうはいかない。
 多少貯金はあったが、離婚が確定するまでできれば使いたくはないし、子供の将来だってある。仕事をしているので、一人で生きていくには困らないけれど、子供を引き取るには少しでもお金を残しておきたかった。
 あれこれ不動産をまわる時間も余裕もなかった。あの家には戻りたくないし、他の女を抱いた寝室で、一緒に夫と寝るなど、考えたくもない。
 私の選んだ住まいは、駅からそう遠くない古びた木造アパートだった。
 古い割にはリフォームしてあり、綺麗だった。何しろ家賃が安い。永住の地とは思っていないので、離婚が成立するまでの仮住まいと思えば、少々狭くても我慢できる。場所も駅近くで、母校の大学も近所にある。土地勘もあるし、私はそれなりに気に入っていたが、我慢できないことが一つだけあった。
 とにかく、隣室との壁が薄いのだ。
 普通、アパートや長屋、共同住宅といった建物は、世帯ごとに《界壁》といって、小屋裏まで分厚い壁と断熱材を達して作ることが建築基準法で決まっている。けれど、借りた部屋は、元2DKだったのを、無理矢理1Kに区切った違法建築らしく、片方の部屋の音だけ、やたらと音が響く。
 私の借りた部屋は一○二号室。隣の一○一号室との間には、界壁は存在しないのだろう。反対側の一○三号室からの音も聞こえるけれど、一○一号室との音量と比べたら、雲泥の差だった。
 最悪なのは、一○一号室の隣人は、やたらと女を部屋に連れ込む。連日、夜になると、アノ声が響いてくるのは勘弁して欲しい。
 引っ越しした日に挨拶に行ったけれど、留守だった。きっと仕事で日中は居ないのだろう。日を改めて。と思っていたけれど、引っ越しして一ヶ月になるが、聞こえてくるのは女の喘ぎ声ばかりで、本人とは会っていない。
 ポストの表札を見ると、安西日向と名前があった。おそらく若い男性だろう。本人と会えなくても、困りはしなかった。ここは仮住まいの地。離婚が決まれば、私は此処を出ていくのだから。


to be  continued……



第一章 昔の男



*一部性的な表現があります。閲覧は、自己管理の上、お願いします。


 物音は、二階からだった。いつもなら、今は会社で仕事をしている時間。だが、知人の訃報を受け、私は会社を早退して礼服を取りに自宅へ戻った。
 ……もしかして、息子たちだろうか?
 私には、中学三年生になる双子の息子たちがいる。いつもならば、今は学校にいっているはずだが、学校をサボっているのかもしれない。
 もし、そうなら苦言の一つでも言ってやらなければ。と、子供部屋を覗いたが、空だった。音は気のせいだったのだろう。
 私は気を取り直して、礼服を取りに行こうと寝室のドアを開けたが、そこには見たくもない光景が広がっていた。
 夫が靴下だけを身につけた恰好で、しきりに腰を振っていた。相手は知らない女だ。背中を向けているせいで、垂れ始めた夫の尻の肉が、腰を打ち付ける度にぷるぷると震える。わざとらしい女の喘ぎ声が聞こえた。
 間違えようもない浮気の現場を目撃して、私は発狂しそうになった。一瞬、かっと、身体の全ての毛穴から吹き出そうなくらい血液が沸騰した気がしたが、腰を振る度に遅れて揺れる夫の尻の肉を見て、一気に覚めた。
 あまりに情けない状況に声も出ない。いつ、私に気付くのかと黙って見ていると、夫は悦に入っていて、まったく気にも留まらない様子だ。
 昼間なのに、遮光カーテンを閉めているので、部屋は薄暗かった。
 私がドアを開けたせいで、微妙に部屋が明るくなったのだろう。明るさの変化に気付いた女の視線が、私を捕らえた。
 女は慌てて、夫にに向かって何か言いたげに起き上がろうとしたけれど、夫は気がつかず、間抜けな猿みたいに、延々と腰を打ち付けていた。夫に他の女がいるのは、薄々気付いていた。
 何度も尋ねてみようかと思ったが、今の生活ぶりを考えて、止めていた。
 私たち夫婦の間には、双子の息子たちがいる。来年は高校受験だ。
 子供が幼い時には、かわいさが先に立ってあまり現実味がなかったが、同時期に受験が重なるのは、精神的にも経済的にも、親としては辛いところだ。
 私も仕事をしていたが、進んでシングルマザーになるつもりはなかった。浮気には気がついていたけれど、夫との仲は悪くはなかったし、私さえ知らない振りをすれば、とりあえず家庭は円満に行く。今思えば、つまらない自己暗示だとも思えるが、私は本気でそう思っていた。
 それなのに、夫ときたら、まさか自宅でことに及ぶとは――。
 浮気がいいとはけして思わない。けれど、せめて外での逢瀬で終わらせてくれるのなら、私は目を瞑るつもりでいた。
 だが、目の前で繰り広げられている浮気の現場を目撃して、夫が許せなかった。我慢してきた私が、まるで間抜けに思える。
 ばっかじゃないの! 
 大声で自分に叫びたくなる。無償に腹が立ってきて、私は二人を無視して、わざと大きな音を立ててクローゼットのドアを開けてやった。
 バンと音がした後に、夫が振り振り向いた。
「お前、なんで……」
 夫は何か言いたげだったが、こんな状況を私に目撃されては、言い訳も何もできない。女から引き抜いた夫の茎はショックでみるみる間に萎えていった。夫は泣きそうな顔をして、服を身にまとう余裕もない。
 あの時の夫の顔ったら、おかしくて笑える。夫は「会社はどうした?」だとか「これは、訳があって……」だと、何か言いかけていたが、私は聞く耳をもたなかった。
 淡々と葬儀に使うスーツと小物だけを淡々とバッグに詰め込み、無言のまま部屋を後にした。 


to be  continued……



オリジナルミステリ小説を書きました。

僭越ながら、自費出版を考えています。

原稿用紙約500枚分。A5サイズ縦書き表紙オールカラー、カバー付
の装丁で、価格は1500円~2000円になると思います。
販売はアマゾンさんと、自サイトで販売予定。
お時間あれば、以下のアンケートにお願いします。



アンケートはサンプルページの最後にあります。

アンケート設置期間は9/15~9/18です。

短いですが、ご協力いただけると嬉しいです。

よろしくお願いします。


アンケートにご協力いただき、ありがとうございました。

販売の際には、後日アナウンスさせていただきます。

閲覧できなかった部分を他のサイトにあっぷしました。


隣人 -年下の男- 7話


文字をクリックしてください。

尚、閲覧はご自身の責任でお願いいたします。

ご迷惑おかけして、すいませんでした。

「隣人」-年下の男-の7話が、検閲ひひっかかり、現在閲覧できない状態です。

ご迷惑おかけして、すいません。

近日中に、他で閲覧できるようにします。

こちらでアナウンスさせて頂きすので、もうしばらくお待ち下さい。


                      管理人


想いが通じ合う者同士のセックスは、なんて後味のよいものだろう。結ばれて終えば、年齢だとか、学生だとかは関係がなかった。求められ、それに応える。

こんな簡単な関係に、伊織はずっと頭を悩ませてきた。即物的だが、頭で考えるより、真実はずっとシンプルなのかもしれない。


「やっと念願が叶いました――」


 伊織を腕枕したまま、薫は呟いた。念願がかなったというのは、どういうことだろう。薫に抱かれるのは初めてではないはずなのに。


「念願って?」


 伊織が訪ねると、薫は「本当に覚えていないんですね」と、あきれ顔しながらも話してくれた。


 伊織が酔った夜。同僚の講師と三次会として、薫がバイトしている店で呑んでいた。
 店が終わっても、伊織は一人で残って呑むと言い張り、同僚の職員は、薫が女性だと思って送っていくように頼んだ。一人残った伊織は、薫と意気投合。偶然、お互い同じアパートに住んでいるとわかると、一人で寝るのが寂しいと、伊織のほうから泊めてくれと迫ったという。
 一緒に寝ているうちに、寝ぼけた伊織から迫ってこられて、薫は我慢できずに――と、手を出そうとしたとこで、伊織が起きたらしい。薫は最初から伊織に一目惚れだったらしいが。
「じゃあ私達、これが初めて?」
 伊織が恥ずかしそうに訪ねると、薫は満足気に微笑んだ。
 年下の男も、案外悪くないかもしれない――。
 但し、伊織は結婚できるのはまだ当分先になるなと、諦めた。   了 




 それからも薫は、大学で顔を会わせると、いつものようにあれこれ誘ってきた。
伊織と薫は専攻している学部も違う。どうやら伊織と会うには、わざわざ探してやって来ているらしい。
 今日も講義が終わり、廊下に出たとたん、薫に捕まった。
「ビーフシチューをたくさん作ったんです。よかったら、うちに夕飯を食べに来ませんか?」
 いつもの調子で誘ってくる薫に、伊織は腹ただしさえ覚えた。なぜ彼女がいるのに、伊織をかまうのだろう。この場で問い質したかったが、人の目もある。伊織は咄嗟に「いいわよ」と返事をすると、次の瞬間、ぱっと薫の顔が明るくなった。
「ホントですか? じゃあ、今夜待ってます。絶対ですよ」
 薫は嬉しかったのか、笑顔を浮かべてその場を立ち去った。
 今まで何度も薫に誘われたが、OKしたのは初めてだ。実は承諾したのは、彼女が本当にいるか訊きたかったからというのは伏せておく。
 大学では立ち入った話はできないし、会う度に誘いを断るのも気が引ける。ここで彼女がいるとハッキリさせれば、今後薫からの誘いを断る理由にできるだろう。
 薫の女性関係を棚に上げて、自分の気持ちに白黒つけたかったのというのもある。もし、あの女が彼女だったのなら、会う度ににこやかな笑顔を向けて懐を抱いてくれる年下の男に、これ以上期待せずに済む。薫に惹かれているのを自覚した伊織は、諦めるきっかけが欲しかった。



「こんばんわ」
 薫と約束したとおり、薫が帰宅するのを見計らって、伊織は部屋を訪ねた。
 部屋に入るのは、これで二度目だ。薫に勧められ、畳半畳ほどのタイル貼りの三和土で靴を脱ぐ。当然だが、今日は女物のハイヒールの靴はなかった。
「どうぞ」
 先日は慌てて薫の部屋を飛び出したので、ゆっくり部屋を眺める暇はなかった。ただ、天井のクロスが同じだけれど、自分の部屋とは違うと認識しただけだった。
 まじまじと部屋を眺めると、フローリングの八畳ほどの部屋は片づいていた。もしかしたら、薫が今日のためにせっせと掃除したのかもしれないけれど、極端に物が少ない。  あるのはローテーブルと、部屋の片側に横向きに並べられたカラーボックスの上に鎮座した液晶TVと、ベッドぐらいなものだ。横向きにされたカラーボックスには、ぎっしりと本が並べられていた。殆どは工学書だったが、伊織の部屋にもある本を見つけた。
 伊織が学生時代ずっと片思いしていた東海林教授の本だ。伊織は頬を緩めた。
 薫と共通点がないと思っていたけれど、そうでもないらしい。好きな本が似ているというのは、自分と思考の共通点がある気がして、更に薫に対して興味が湧く。もっと話をしたら、気が合うのかもしれない。
 ふと視線をずらすと、綺麗にメイクされたベッドが目に入った。
 このベッドで薫に抱かれたのだと思うと、伊織は急に緊張してきた。
 誘われたからと言って、独身男性の部屋をのこのこ訪ねるのは、私を襲って下さい。と言っているようなものかもしれない。今更ながら、迂闊だったのかと反省していると、キッチンのほうから、美味しそうな匂いがしてくる。振り向くと、トレイに載せたビーフシチューとサラダを持った薫が、嬉しそうな顔で運んできた。
「お待たせ。これだけは自信があるんです」
 満面の笑みで言われると、疑うのが悪いように思える。まるでモテない女の独りよがりな妄想のような気さえした。
「手伝うわ」
 伊織が立ち上がって手伝おうとすると、トレイを持った薫とぶつかった。
「危ない!」
 その時だった。薫は迷わずトレイを放り投げ、ぶつかった勢いで倒れそうになった伊織の身体を抱きしめた。
 ガシャンと音がした時には、伊織の身体は、すっぽりと薫の身体に抱きしめられていた。皿が割れ、床に溢したビーフシチューの匂いが部屋中に立ちこめた。伊織は慌てて薫の身体から離れようとしたが、薫に抱えられた腕は、簡単に外れなかった。
「火傷、しませんでしたか?」
「大丈夫。それより放して」
「嫌です。ずっとこうしていたい」
 薫は更に力を込めて、伊織を抱きしめた。
「止めて。だって彼女に悪いわ」
 咄嗟に伊織が言い訳したけれど、薫は放さなかった。
「彼女なんていませんよ」
 もっと時間をかけて探るつもりでいたが、こうなったらしかたがない。伊織は思い切って問い質した。
「嘘。あれは彼女でしょ。朝早く薫君の部屋からゴミを出しに行ってたのを見たわよ。同棲するほどの彼女がいるんでしょ」
「もしかして、見てたんですか?」
 薫の腕が緩まるのがわかった。少なからず、動揺しているらしい。やはり、あれは彼女だったのだ。と、緩まる薫の腕から身体を外す刹那、伊織は胸がきゅんと痛くなるのを感じた。やはり、間違いない。あれは彼女だったんだ――。
 伊織は決定的に失恋したと自覚して部屋を出ようとすると、薫が後ろからすがりついてきた。薫の心臓の音がすぐ側に聞こえる。この期に及んで言い訳しても、伊織には関係ないと、心を閉ざそうとした。

 伊織が「放して」と拒絶するのと、薫が「話を聞いて」と声を出すのは同時だった。


to be  continued……