理想の男 第一章昔の男 3 | 一期一会

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本も人の出会いも一期一会。時々読者、時々物書き。好きな本やコミック感想を中心に、日常のつれづれと共につぶやいていきます。

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引っ越しして、新生活にも慣れてきた頃だった。朝、私は寝不足の頭を抱えて、出社しようと部屋を出た。
「おはようございます」
 ふと声を掛けられて声の主を探すと、隣の男だった。男は泊まった女を見送った後のようで、まだ眠そうな顔だがにっこりと笑った。
 絶倫男は、コイツか――。
 まさか声を掛けられると思わなかった。
 私はお辞儀をしながら、まじまじと男の顔を見た。てっきり若い男だと思っていたのに、中年の男だった。年の頃は私と同じくらい。背が高く日焼けした顔は、年はとっているが、目尻の皺が良い具合に優しい印象を与える。鼻の上に皺を寄せながら笑う仕草を、どこかで見た記憶があった。
 あれ? この人。会ったことなかったっけ?
 どこかで会ったような既視感を抱きつつも、名前を思い出せなかった。おそらく、気のせいだ。だって、私の知り合いには、こんな絶倫男はいないはずだから。
 私は「おはようございます」と挨拶した後に、初対面なのを思い出し「あ、隣にお住まいの方ですか? はじめまして」と、付け加えた。
「初めて……?」
 隣の男は、不躾に私の身体を下から上まで、二度ほどゆっくりと舐めるように視線を投げかけた。
 なに? この人。第一印象は、悪くないと思っていたのに、初対面でジロジロ人を見るなんて。なんて失礼なヤツなのだろう。
 私はあからさまに時間がない振りを装い、腕時計を見た。
「ああ。時間がないので、ここで――」
 少しわざとらしかっただろうか。演技くさかったかもしれない。私が一○一号室の前を横切ると、腕をつかまれ声を掛けられた。
「俺、安元日向ちゅうんや。失礼やけど、名前は? これから仕事やの?」
 まさか腕を捕まれるとは思っていなかった。自己紹介されたのも意外だった。少し驚きながらも「ええ、私は関ひとみ。これから仕事です」と捕まれた腕を睨み付けた。
「ああ、ごめん。ごめん」
 日向は謝りながらも手を放そうとはしなかった。「仕事は何を?」と、矢継ぎに訊いてくる。
「会社員をやってます。仕事は、建築会社で設計をしてますけど?」
 私は答えながらも、初対面の男に正直に話している自分に驚いた。なぜかこの男にはすらすら言えてしまう。不可思議に思いながらも、私ばかり聞かれるのも癪だ。逆に質問してみた。
「失礼ですが、貴方のお仕事は?」
「AV男優や」
 日向が即座に答えたものだから、一瞬何を言われたか理解できなかった。初対面で職業を聞かれ、「会社員」や「自営業です」ならともかく、誰が「AV男優」と予想するだろう。
 頭の中で反芻して、ようやく何を言ったか理解できたが、こういう場合、どう反応していいものかわからなかった。
 私の今までの人生の中で、堂々とAV男優と名乗る男に会った経験もなかったし、知り合いにもいない。胸を張って即答するくらいだから、その業界では有名なのかもしれない。
 若い子なら笑って済ませるのかもしれないけれど、中年で、しかも離婚を前提に一人暮らしをしている身としては、いたたまれなかった。
 一Kのアパートに住んでいるというのは、間違いなく私は単身者として見られている。ハタから見れば、結婚もしていない、可哀想な中年女だ。実はAV男優というのは嘘で、独身の中年女がどう反応するのか、楽しんでいるのかもしれない。もし、そうだとしたらかなり意地悪な男だ。
「反応に困ったんと違う?」
 私が黙り込んでいると、日向は直ぐさま私の考えを読んだのだろう。
「嘘じゃないよ。ソッチ関係で困ったら、いつでも尋ねてきて。ひとみちゃんなら、いつでも即OKやから」
 日向はそれだけ言うと、掴んだ腕を放して「じゃあ、いってらっしゃい」と、部屋に入った。
 なに? ホントにAV男優なの? 今のは営業ってこと?
  日向の「ひとみちゃん」の口調に、聞き覚えがある気がするけれど――。
 バタンと玄関ドアが閉まる音で、私は我に返った。
 ああ。早く急がなきゃ遅刻する。
この年で初対面の男に名前で呼ばれるとは思わなかった。悪い気分ではないが、どうも変な男だ。それにしても、名前で呼ばれたのは何十年ぶりだろうかと考えつつ、私は先を急いだ。



to be  continued……