『鎌倉殿の13人』の最近の数回の放送の中で、トキュ―サが「六波羅探題」ということばを発していました(泰時も、だったかな…?)
「六波羅探題」とはご存じのとおり、承久の乱の後、
京都の「六波羅」の地に設置された鎌倉幕府の機関で、泰時とトキュ―サがそれぞれ、六波羅探題の北殿、南殿に駐留したそうです
(『鎌倉殿の13人』の中では、承久の乱は15分くらいであっさり決着がついてましたね…😅)
そこで今回は、トキューサもいた京都「六波羅」の地を歩いてみました
すると「六波羅」(=六原)という地名が付いたものを3つ見つけました
それは…
➊六波羅蜜寺
❷六波羅探題の石碑(六波羅蜜寺内)
❸ハッピー六原(スーパー)
ん?
なんかちょっと、玉石混交の感が否めませんが、
まあそれはそれとして、
六波羅散策のスタートです
今回辿ったコースは、
松原通➡西福寺、六道の辻石柱(1)➡六波羅蜜寺(平清盛像、六波羅探題の石碑)➡三盛町(平家の居宅泉殿があった)➡池殿町(平家の居宅池殿、頼朝の居宅、六波羅探題があった)➡門脇町➡昭和小路➡(元に戻って)六道珍皇寺、六道の辻石柱(2)➡ハッピー六原
です
六波羅の地について
六波羅を訪ねるにあたり、
「六波羅」の歴史をザっと辿ってみます
↓現地の案内図(地図については、後で詳しく見てみます)
・葬送の地、鳥辺野への入り口
六波羅は古くより「六道の辻」とよばれ、葬送の地である鳥辺野の入り口に当たる場所です
鳥辺野は、「化野」「蓮台野(紫野)」とともに、京都の三大風装地として知られていますが、その範囲についての明確な定義はないようです
↓西福寺にある「六道の辻」の石柱⑴
↓六道珍皇寺前にある「六道の辻」の石柱⑵
・平家の邸宅が軒を連ねた
そんな鳥辺野の入り口、いわば「現世と来世の境の地」である六波羅は、同時に伊賀や伊勢に行くのに便利な「交通の要衝」でもありました
そこで、平氏はここに邸宅を構えました
まず、平清盛の祖父正盛が天仁3年(1110)に現在の六道珍皇寺のあたりに常光寺(正盛堂)を構え、子の忠盛、孫の清盛の代になると平氏一門の邸宅がこのあたり一帯に軒を連ねたそうです
しかし、「なぜ、平家がこの地を選んだのか?」私にはナゾです
たしかに、交通の便の良さは理由の一つではあるのでしょうが、
鳥辺野に隣接する土地というのは「縁起が悪い」土地とは考えなかったのでしょうか?
…厳島神社にある「平家納経」等の現存する平家の文化財を考えると、
平家が信仰心が薄いとは思われず、鳥辺野の入り口である六波羅の地に邸宅を構えた理由がよく理解できません…
(一説には、「場所柄」地価が安かったという話もありますが、平氏がそんな理由で土地を購入しますかねぇ?)
平家納経↓
わざわざ葬送の地の近くに一族の大邸宅を構えるのが不思議と思えるのは、あくまでも現代の感覚で、
当時の感覚では、逆に神聖な土地であったということでしょうか?
・頼朝が京都守護を設置し、居館を構えた
そんな平氏は、寿永2年(1183)、安徳天皇と三種の神器を奉じ、都落ちをしました
その際、六波羅邸には火が放たれ、全てが灰燼に帰しました
その後、頼朝にこの地が与えらえ、北条時政が頼朝の使者として上洛し京都守護が置かれ、頼朝の宿舎も建てられました
・承久の乱後、六波羅探題が設置された
1221年に起こった承久の乱の際、後鳥羽上皇は幕府側の六波羅の守護を滅ぼしました
しかし、承久の乱で勝利した鎌倉幕府軍はそのまま京都に滞在し、この場所に六波羅探題を設置しました
その六波羅探題は、北殿と南殿に分かれ、北殿には泰時、南殿にはトキュ―サが駐留し、西国御家人の監視・再編成、乱後の処理、朝廷の監視を行いました
ちなみに、泰時のいた北殿のほうがトキュ―サのいた南殿よりも上席だったそうです(どんまい、トキュ―サ)
参考
以上、ザックリと六波羅について、調べたことを頭に詰め込んで
松原通りから六波羅へ
話の起点を、私が歩いたコースに従い、
鴨川の西岸の松原橋から始めたいと思います
↓松原橋西岸
説明板があります
説明板には、松原橋が平安時代には五条大橋であったこと、
ところが、秀吉が方広寺大仏殿造営にあたって現在の五条通(当時の六条坊門小路)に架け替え、そちらを五条橋としたことが書かれています
つまり、↓こういうことです
現在の松原通=昔の五条通
現在の五条通=昔の六条坊門小路
あの有名な牛若丸と弁慶の出会うシーン、「今日の五条の橋の上♪」はこの松原橋で起こった出来事だったわけです(←これ、もっと宣伝したい)
松原橋から鴨川を渡り、松原通を清水寺方向へさらに歩いて行くと、やがて松原通と交差する形で新宮川通があります↓
ここは、京都の五花街の内の一つ「宮川町」です
風情のある街並みが展開します
寄り道したい気持ちをぐっとこらえて、
松原通をそのまま進みます
↓松原通にある愛宕念仏寺元地の石碑…現在嵯峨野にある念仏寺は大正11年まで、この松原通沿いにあったそうです(「葬送の地」繋がりでしょうか)
このあたりの地図↓
さらに東に進むと、ゆるい上り坂がやや左に曲がる
写真の「工事中」の看板のあるあたりで道がやや左に曲がってみえますが、
ここはT字路で、「六道の辻」の石柱⑴がある轆轤町です
「六道の辻」石柱⑴と轆轤町
T字路の右手前には西福寺があります
狭い境内には不動明王
お堂の中を覗くと、阿弥陀如来がいらっしゃいました
「六道の辻」と書かれた額が掛けられている
西福寺の角には(現在絶賛道路工事中でしたが)、「西福寺」と書かれた石柱が立っています
この石柱、角度を変えると「六道の辻」と書いてあります
この世とあの世の境目の場所です
↓六道の辻石柱⑴
西福寺の詳細については
こちら↓
↓「轆轤(ろくろ)町」の地名の表示
「轆轤町」の町名は、もともと「髑髏(どくろ)町」だったものを江戸時代に改名したそうです
髑髏は、葬送の地鳥辺野と関連がありそうですね
鳥辺野は「風葬」「鳥葬」の地だったわけですから、髑髏がゴロゴロしていたでしょうし、
鳥辺野という名前自体も、遺体をついばむために鳥が集まった様子を示している感じがするし…
(何故平家はこの地を選んだのだ?)
西福寺の向かい側、T字路の突き当りに当たる場所には、
幽霊子育飴のお店「みなとや」さんがあります
たしかハッカ味の飴だったと記憶しています
「幽霊子育飴」の由来等については
↓こちら
案内図で場所を確認します
拡大↓
現在地=(わかりにくいけど)T字路のところにいます→これから六波羅蜜寺方向に曲がります
六波羅蜜寺の前の道は「六原本通」というらしい
六波羅地区は通りの名前のネームプレートが設置されていてとても分かりやすいです
六波羅蜜寺の向かいの通りには「西轆轤町」の表示がある
こんな感じの街並みです
この轆轤町にある六波羅蜜寺に立ち寄ります
ここに「六波羅探題」の石碑があるからです
六波羅蜜寺と「六波羅探題」
こちらは六波羅蜜寺
六波羅蜜寺では、最近、仏像を収める収蔵庫が2階建ての新しい建物に変わりました
本堂には秘仏で平安時代の国宝十一面観音像がおられ、
収蔵庫には、定朝作と考えられる地蔵像(鬘掛地蔵)や口から南無阿弥陀仏を出す空也上人像、平清盛像、運慶作とされる夢見地蔵などなどたくさんの仏像があります
↓お寺のパンフ
六波羅蜜寺の仏像について書くと、話が大幅に脱線し戻って来ない危険性があるので、省略します
お寺の入り口付近に観音様の像があります(この観音は無指定です)
その観音像の横、↓ピンクのカバンを背負った女性のいる場所の脇の植え込みあたりに
↓「六波羅探題」があったことを示す石碑があります
この石碑、もともと近くの小学校にあったものを、六波羅蜜寺の境内に移したそうです
「此附近 平氏六波羅第 六波羅探題府」
今回の散策の一番大きな目的は、この石碑を見ることでした
また、境内には二つの石の塔がありますが
奥にあるものが、「平清盛公乃塚」です
平清盛がこの場所に住んでいたことが実感されます
↓平清盛像(やっぱり火野正平さんに見える)
以上、六波羅蜜寺で六波羅探題の石碑をみつけた話でした
引き続き、平清盛やその一族の居宅があり、次の時代には頼朝の居宅、六波羅探題が置かれた
六波羅の地の探索を行います
平安末期の平家邸宅、鎌倉時代の六波羅探題のあった場所
少し古い地図のようですが、町名がわかりやすく記載された地図を見つけましたので、参考に貼ります
現在のグーグルマップで再確認します↓
赤い四角が六波羅蜜寺、その境内の入り口に近いところ、黄色い楕円が六波羅探題跡の石碑でした
この後、六波羅蜜寺を出て南に進み、オレンジ色の楕円で囲った三盛町と池殿町に行ってみます
三盛町
三盛町は六波羅蜜寺のすぐ南にあります
平清盛の屋敷「泉殿」のあったところだそうです
このあたり、なぜか私は行く度に方向感覚を失うのですが
今回もいつもと同じように現地で混乱してクルクル回転してしまいました
今ブログで書きながら、また混乱しています(困った)
↓「三盛町」を示す地図
この地図は開晴小中学校のフェンスに貼られています
(このフェンスは三盛町なのですが、奥の校舎は多門町←またまた大混乱)
三盛町の街並み…平清盛の邸宅を連想するのは難しい
池殿町
上の三盛町の写真の突き当りの場所をアップしてみると、三角公園があります
↓三角公園…ここはもう、隣の池殿町
この公園の張り紙に「池殿町」と書いてあった↓
池殿町には、平清盛の父、平忠盛が晩年住んでいたそうです
忠盛死後は、忠盛の妻宗子(=池禅尼)が伝領しました
この池禅尼は、平頼盛の母です
平頼盛は、忠盛の五男で清盛の異母弟です
池禅尼の後、「池殿」は頼盛が引き継ぎ、御所として使用されたそうです
・平忠盛、清盛、池禅尼、平頼盛、源頼朝の関係↓(令和4年度永観堂特別寺宝展資料から)
池禅尼は、20代半ばで死去した子家盛に源頼朝が生き写しだったため、(敵方源氏の子であるにもかかわらず)頼朝の助命を嘆願した人です
頼朝は、この一族を厚遇し恩義に応えました
(同上)
池殿の規模は大きく、平清盛の娘、徳子(建礼門院)が安徳天皇を出産したのも、高倉天皇が崩御したのもこの池殿だそうです
平家滅亡後、源頼朝はこの池殿跡に邸を構え宿舎とし、のち、六波羅探題となっていったのです
池殿町の街並み↓(六波羅探題を想像するのは難しい…)
案内板
小さな通りにもネームプレートが貼られている
ここまで、三盛町➡池殿町と辿りましたが、
次は門脇町に足を踏み入れてみます
門脇町
門脇町は平清盛の弟平教盛の門脇殿のあった場所だそうです
すぐ南には五条通が通っています
↓こんな情緒たっぷりの街並みが続いていました
↓古い町名の表示板…仁丹の絵が昭和感たっぷり
通りの名は六原本通
門脇町を歩いていたら、五条通(旧六条坊門小路)に出ました↓
五条通は清水寺へ向かう広いバス通りです
五条通を清水寺方向(東方向)へ進み、次の角で左折します
すると、↓こんな素敵な雰囲気の小さな通りに入りました
昭和小路です
タイムスリップしたような情緒あふれる通りですが、観光のための通りではないようでした
小路はいつしかもと来た道にもどり、再び門脇町に入りました
ここから、六道珍皇寺に行くため、六波羅蜜寺方向に戻ります
六道珍皇寺
六波羅蜜寺の前を通り過ぎ、再び松原通のT字路まで戻り、東方向に進んでいくと、
六道珍皇寺の手前でハッピー六原の看板が見えてきます
↓ハッピー六原のハッピーな表示
買い物は最後にしたいので、ここはググっとこらえて、六道珍皇寺に向かいます
すぐに、六道珍皇寺に到着
小野篁があの世に通った井戸があることで有名なお寺です
小野篁↓
↓入口には、小野篁の名が!
↓その背後には、「六道の辻」の石柱⑵が!!
閻魔堂 向かって右側に小野篁、左側に閻魔王がいらっしゃいます
内部の像の撮影は禁止ですが
閻魔王のお顔は、真っ青になって怒っておられるポスターから窺うことが出来ます
↓六道珍皇寺の閻魔王
「酒の臭いがしておる 嘘つくな!」😱
そんな、青筋立てて怒らなくても…(ポスターが日焼けしただけです)
↓本堂の脇の階段を上り、扉ののぞき窓を覗くと
小野篁が冥界へ通った井戸が見えます
2023年1月14日(土)~16日(月)の期間に特別公開があるようですよ
このお寺、水占いもやってるみたいです…
ハッピー六原

さて、今回の締めくくりは
地元スーパー「ハッピー六原」です
(というか、実は今までの行程は買い物の寄り道だったわけです)
このスーパー、初めて入った時は、「よくある田舎のなんでもスーパー」だと思っていました
まあ、それは当たらずとも遠からず、というより、大当たりなわけですが
売られている商品を見ると、なかなかどうして、
そこらのスーパーとは一味違い、こだわりを感じさせられるお店なのです
内部の写真を撮るのは遠慮しましたが、
野菜、魚(海沿い鎌倉に住む私もちょっと驚く)、肉(特に鶏肉が好評らしい)など、独自の仕入れルートでもあるのかな?と思うくらい独自な感じがします
お惣菜も、「一人分」「中高年向き」なものが豊富にそろっていて
選ぶのが楽しいです
(中高年向きであり、中高生向きではないかも)
六波羅蜜寺からすぐ近くです
六波羅蜜寺、東山へおいでの際は、是非お立ち寄りを!(となんの利害関係もないのに宣伝させていただきます)
おわり
以上、トキューサと#俺たちの泰時が駐留した六波羅探題の地を訪ねた記録でした
それにしても、六波羅探題より前、
そもそも平家は何故、居宅を構えるのに六波羅を選んだのか?
交通の便の良さ=武力であり、葬送の地鳥辺野に隣接することは考えなかったのか、それとも、加持祈祷の類で不吉な面は凌駕することができると考えたのか、よくわかりません
続く鎌倉時代の頼朝や鎌倉幕府は、交通至便である平家の跡地を有効利用しただけということでしょうか
東国から入る場合に、一番先に到達する場所でもあるし…
で、やはり、頼朝も時政もトキュ―サも泰時も、「鳥辺野近く」ということは気にならなかったのでしょうか?
多少の自虐を込めて言うなら、東蝦夷はそもそも野蛮で、しかもトキューサ達にとっては、承久の乱の後のことだから、
「今更、何の縁起を担ぐのか?」って感じだったのかしら?
皆さん、どう思われますか?