「あとで少しいい?」

通りすがり際、背後からかけられた一言。
私の体を一瞬でフリーズさせ、
耳の奥でループし始める。



上司は視線をこちらに合わせることなく、
そのまま自分の席へと歩を進めていく。
いつもより低いトーンが、
深刻な何かを感じさせる。



気持ちを落ち着かせようと、
デスクの上のショートサイズの
マイボトルを開ける。
いつもなら、
心を静かに落ち着かせてくれる、
複雑で奥深い薫り。



けれど、今の私には何も感じない。
ボトルの金属の冷たさだけが、
妙に手のひらに残るだけだ。



画面を見つめたまま、キーボードを叩く。
後ろの席で電話で話す声が、
どこか別の国の言葉に聞こえる。

昨日のあのメールか?
先週、仕上げたあの重要案件の資料か?
あの数字に致命的なミスがあって、
上手くいきかけていた商談がダメに
なったのだろうか。

――いや、それとも、
ついに異動を告げられるのか?



「私の確認不足でした」
「すべて私の責任です」
私の脳内では、過去の失敗の記憶が、
最悪の結末に向かって猛スピードで
再生され続けていた。



午後1時。
いつもなら簡単に開くはずの扉が
さび付いたように重い。



会議室に入ると、上司は椅子に腰掛け、
手元の資料に目を落としていた。

「ああ、待ってたよ」

その声に、無意識に背筋が伸びる。
高鳴る心臓の音が、
静かな室内に響き渡りそうだった。



「申し訳ありま…」
口を開けかけたその時。

「これ、先週の資料のお礼。
おかげで向こうの役員会、
一発で通ったよ。
スムーズにいきすぎて拍子抜けした
くらいだ」

机の上に置かれたのは、小さな紙の袋。

「フロアで渡すと、
他のみんなに変に気遣わせちゃうからさ。
マイボトルから漂ってくる薫り、
ああ、こいつもかって思ってたんだ」



袋の隙間から、深く甘い焙煎香が
ふわりと鼻腔をくすぐった。
ラベルには、裏通りにある焙煎店の
ロゴが入っていた。

上司はいたずらが成功した
子供のような顔で笑った。



「あ……」

声にならなかった。
そこには叱責なんてなかった。
あったのは、
自分の仕事への感謝と、
ささやかな秘密の共有だけ。



抱えていた最悪のシナリオを、
そっとシュレッダーにかけるようにして
会議室を後にする。

手の中の紙袋の薫りに包まれながら。

37歳、男。
午前中の脳内裁判の判決は…



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