奈良大好き主婦日記☕

奈良大好き主婦日記☕

鎌倉在住
子育て終了を機に大学院博士課程修了、研究員になりましたが、2025春、大学を離れました。
奈良ソムリエ検定1級、飛鳥藤原検定中級、鎌倉検定2級
「はなこの仏像大好きブログ」もどうぞ http://naranouchi.blog.jp 

子育てと並行しながら、通信制奈良大、関西の通信制大学院修士課程・同大学院博士課程と進み、博士課程単位取得満期退学。その後2年ほど同大で研究員をしていましたが、2025年春大学を離れました。

これまで「定朝様」を中心とした平安後期の仏教美術をテーマとしていましたが、このテーマは、私にはとても難しく、限界を感じていました。
また、私は元来、奈良や飛鳥が大好きだったため、(それより後の時代である)平安時代について多くの時間を取られることにジレンマも感じていました。

そのため、2025年3月をもって研究員をやめました。今まで充分なフォローができなかった奈良についての情報をアップデートするために、飛鳥藤原検定初級(2024年12月)、奈良ソムリエ検定1級(2025年3月)を取得しました(ついでに言うと、鎌倉検定もずいぶん前に2級まで取っていますが、忘れてしまっているかも…)。飛鳥藤原検定、奈良ソムリエ検定のさらに上の級を目指すかどうかは未定です。

今後は、検定で得られた知識も活かし、自分自身のテーマを探してみたいと思っています。
 
 
前回のつづきです
 
今回は、韓国旅行2日目の午後に訪ねた、慶州の仏国寺・石窟庵についてです
今回も目次作っちゃいますね
 
~もくじ~
世界遺産 その2~「石窟庵と仏国寺」
①仏国寺(プルグクサ)
・歴史
・宗派・本尊・世界遺産
・一柱門
・天王門と四天王・邪鬼
・伽藍配置
・多宝塔と釈迦塔~『法華経』と伝説 など
 
②石窟庵(ソックラム)
 
 
では、行ってみよう!

 

世界遺産 その2~「石窟庵と仏国寺」

 

仏国寺・石窟庵地区の場所の確認をします

この日は、昼ごはんを食べたあと、

国立慶州博物館の前からタクシーに乗り小一時間ほどかけて仏国寺に行きました

(タクシー代金は日本に比べて割安感がありました)

 

 

 ①仏国寺(プルグクサ)

 

仏国寺は山の中

 

平坦な市内とは離れています

その「距離感」を奈良で例えると、「奈良市内」と「室生寺」くらいの感じかしら…(参考にしないでください)

 

 

タクシーを降りたのは、仏国寺の駐車場

駐車場内は満車で、道にも車があふれ、カオスでした

 

駐車場から寺に向います

青空、木の緑、瓦の灰色、柱の朱色、提灯のとりどりの色と、山の中のお寺はとても華やか

 

ここで、お寺の歴史などの情報をざっと見てみたいと思います(情報は主にwikiから取りました)

 

私はちょっと驚きましたよポーン

 

 

・歴史 Σ( ̄□ ̄|||)汗汗汗

①創建

仏国寺は、統一新羅の慶徳王10年(751)に宰相金大成の発願で開かれました

日本でいうと、東大寺大仏開眼供養の前の年ですね…ふむふむ( ˘ω˘ )

 

その規模は現在の仏国寺の10倍だったそうです

 

 

②日本との関りは…(-_-;)

時間は800年程飛びまして

1593年、仏国寺は文禄・慶長の役で焼失しました(;''∀'')

 

つまり、秀吉の朝鮮出兵です

 

私はこれを知った時、

「秀吉はこんな山の中にまで、来たんかーい?( ゚Д゚)」

とまず驚き、燃やしたという事実に

「……なんか、すみません(-_-;)汗

という気持ちになりました

(もっとも、実際に火をつけたのは加藤清正なんだそうですが)

 

③再建と廃寺の繰り返し

焼失した寺は、

17世紀初めから何度も再建工事がすすめられ、

1765年には、仏国寺大雄殿が再建されました

 

ですが、その後再び廃寺となり、石窟庵と共に放置汗

 

④日本の朝鮮総督府による再建

20世紀前半には、朝鮮総督府により主要構造が再建されました

(また、日本が絡んでいる…)

 

⑤戦後の再建

戦後1973年には、無説殿、観音殿などが再建されました

 

⑥日本の仏師による仏像制作

比較的最近のことですが、

2010年、日本の仏師福井照明が四天王像など12体の仏像を寄贈

(この四天王像が、この後画像に出てくる天王門にある四天王なのか、それとも別の場所にあるのか、わからない)

 

…と終始、日本とご縁があり続けるお寺のようでした

 

・宗派・本尊・世界遺産

①当初は華厳宗、本尊は廬舎那仏

このような経歴を持つ仏国寺ですが、

創建当初は華厳宗

本尊は廬舎那仏でした

 

②最近になり、禅宗系の寺となり、本尊が移動

1970年代再建の仏国寺は禅宗系曹渓宗

本尊は本殿にある釈迦三尊仏(釈迦、文殊、普賢)となりました

 

前の本尊、廬舎那仏は現在は毘盧殿におられます

 

③世界遺産と国宝指定

1995年、世界文化遺産「石窟庵と仏国寺」に指定されました

 

また、新羅時代の釈迦塔は 国宝第21号に指定されました

塔の中央部からは最古級木版印刷物「無垢浄光陀羅尼経」(これも国宝)が発見されています

 

 

では、ここからは私が撮った画像で具体的に見ていきましょう!

 

 

・一柱門

この画像は、先ほど載せたものと同じなのですが

なにかのお祭りでしょうか?華やかに彩られた提灯がお寺を飾っています

 

実はこの提灯、このお寺に限らず、慶州全体に限らず…

釜山市内にも飾られていました

もしかしたら、国中に飾られていたのかもしれません

(一体いくつ作ったんだ?)

 

提灯の一つを拡大してみると…

↓誕生釈迦仏と思われるカワイイ仏像が印刷されていました

 

この日は、5月5日

もしかすると、旧暦で釈迦の誕生日をお祝いしているのでしょうか?(知らんけど)

 

門を抜けて、長い道を歩きます

 

建物が見えてきました

 

・天王門と四天王・邪鬼

次は天王門です

 

この門の左右には、四天王像が向かい合っていました

(これが、日本の仏師福井照明の制作なのか、不明)

 

・左側の2体

向かって右が塔を持つので多聞天…とすると、向かって左が広目天(かしら)

←広目天     →多聞天(塔を持っている)

 

広目天は筆を持っていることが多いけど、こちらの方は何を握っているのでしょうか

 

 

・右側の二体↓

向かって左は持国天かと思われますが、琵琶を持っています

向かって右は増長天かと思われますが、長い剣のようなものを持っている

←持国天      増長天→   

 

 

・邪鬼も面白い

日本で見慣れた四天王の邪鬼は基本的に足で踏みつけられてヒドイ体勢をとっていることが多いのですが、

仏国寺の天王門の邪鬼はどうでしょう?

 

持国天の邪鬼

足元にいますが、割と自由にしていますね

 

増長天の邪鬼

なんだか動きがあって、生々しいな

 

広目天の邪鬼

目が逝っちゃってる!

 

多聞天の邪鬼

こちらに這い出して来そうでコワ~イガーン

 

 

4体の邪鬼、みんな異様な顔つきでコワイです

 

ふと奈良薬師寺の本尊薬師如来の台座の裏側に潜んでいる奴らにどことなく似ている気がしました

↓こいつら

 

 

 

・伽藍配置

このあと、仏国寺の核心部に入りますが、

その前に伽藍配置を確認しておきます

 

門が二つ、紫霞門安養門

回廊が巡り、

紫霞門の背後には、多宝塔・釈迦塔

回廊の内側に、大雄殿、無説殿

その背後には、観音殿毘盧殿

 

もう一つの門安楽門にも、回廊がまわり、

内部に極楽殿

山岳地形を利用した伽藍配置になっていました

 

 

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仏国寺 - Wikipedia

 

 

境内に入ります

 

 

見えてきたのは、

紫霞門(階段は青雲橋と白雲橋)と、安養門(階段は蓮華橋と七宝橋)

山の段差を利用した階段です

 

この階段を登ることはできないので、紫霞門の右手から回り込んで登ると回廊がありました

 

 

回廊をくぐると、

大雄殿、手前は多宝塔(タボタプ)

 

 

 

・多宝塔と釈迦塔~『法華経』と伝説

多宝塔(国宝第20号)

提灯でぐるぐる巻きにされているような多宝塔ですが、これは国宝第20号

 

購入した絵葉書に、全体像の写真がありました

 

この多宝塔と並んで立つのが

釈迦塔( 絵葉書)

 

この二つ、仲良く並んで立っていますが、何か関係があるかと思い調べてみました

 

→すると、少なくとも二つの切り口で関連性が見えました

一つは、『法華経』見宝塔品の記述との関連、

もう一つは双塔にまつわる伝説です

 

・『法華経』見宝塔品との関連

この二つの塔が並立するのは、『法華経』見宝塔品の記述によるものという考えがあります

 

『法華経』見宝塔品について、

AIが超ざっくりと要約してくれましたので、引用します

法華経が説かれるとき、必ず証明に現れると誓った過去仏・多宝如来が、 釈迦如来の前に七宝の宝塔となって出現し、 「この教えは真実である」と大音声で証言した

多宝如来は塔の中で禅定しながら、 釈迦如来を半座に迎え入れ、二仏が並んで座す(=二仏並座)

これは、 釈迦が説く法華経こそ、過去・現在・未来の仏が共に認める唯一の真実の教えである という象徴的場面

…というのがAIのざっくり要約

 

一言でいうと、

多宝如来が宝塔となって現れ、釈迦如来の説く法華経が真実であることを証明し、二仏が並んで座してその教えの絶対性を示した」

 

ここで大事なのは、「多宝如来」と「釈迦如来」が並んで坐した、というところ

 

この場面を具体的に表したのが

例えば奈良長谷寺銅板法華説法図

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長谷寺銅板法華説相図 - Wikipedia

 

向かって右下の欠損部(仁王像を木で補修)を除き、一枚の銅板に半肉彫りにされたものです

(詳しいことはリンクのwikiをご覧ください)

 

この銅板の真ん中あたりに一つの塔の中多宝・釈迦如来2体が並立している様子が表されています↓

 

これは日本の例ですが、

新羅の仏国寺では多宝塔と釈迦塔の双塔を並立させています

 

・『法華経』見宝塔品では「二つのが並立」と書いてあるのに、仏国寺では「二つのが並立」しているのはどうして?

 

これをまたAIに聞いてみました

→その答えは

①仏国寺はこの世に仏国土を表現する為の建築 

②二仏の並座→二塔の並立と象徴的に翻訳された 

③塔は仏像より普遍的な表現である 

④統一新羅は法華経信仰が強かった 

⑤仏国寺は創建当初華厳宗の寺だったが、華厳宗では法華経を最上位経典の一つとして尊重していた

…と、いうような答えが戻ってきました(ホンマかいな)

 

本当のことはよくわかりませんが、これ以上突っ込むのはやめておいて、

双塔の関連性を感じさせるもう一つの切り口、双塔にまつわる伝説を見てみます

 

・双塔にまつわる伝説~阿斯達(アサダル)と阿斯女(アサニョ)

この双塔に関しては、伝説も残っているようです

上にあげたwikiに伝説が書いてありますのでそのまま引用します

仏国寺には多宝塔と釈迦塔と呼ばれる2つの石塔があるが、これらに関する次のような伝説が存在する。

百済に阿斯達(アサダル)という石工がいた。彼は仏国寺の石塔を造るため、妻の阿斯女(アサニョ)を国に残して新羅に向かった。
3年後、夫を待ちきれなくなった阿斯女が仏国寺を訪れ、夫に逢わせてくれるよう僧侶にお願いした。しかし僧侶は2人が逢うことを許さず、代わりに「石塔が完成すれば影池に石塔の影が映るので、それまで待つように」と阿斯女に教えた。そこで阿斯女は毎日影池を眺めながら夫を待ち続けた。
ある月夜、影池に石塔の影が映った。阿斯女は喜び、石塔の影に抱きつこうとして影池に飛び込んでしまった。
翌朝、石塔を完成させた阿斯達が妻の待つ影池に向かうと、そこには冷たくなった阿斯女の亡骸があった。阿斯達は慟哭し、自らも影池に身を投げて妻の後を追ったという。

 

(・_・)へえ~

 

 

話が長くなりそうなので、次に行きます

 

 

・大雄殿

wikiによれば、仏国寺の本殿で、681年頃創建

現在の建物は1765年に再建されたもの

 

現地説明板↓(日本語がない!)

 

 

 

・無説殿

現地説明板↓(日本語あり)

現地説明板によれば、この建物は

・経典を講義し、勉学に励む場所

・言葉によって説法が行われる場所であるにもかかわらず「無説殿」つまり「説法のない場所」と名付けられた

・その理由は、真理は本質的に言葉では表現できない「言語道断」の境地にあるということを言い表す

・『仏国寺古今歴代記』によると、新羅の文武王10年(670)に初めて建立

・義湘大師(625~702)がここで『華厳経』について講義を行ったと記される

 

 

 

次に無説殿の背後にある観音堂へ向かいますが、
山の地形を利用しているため、急な石段を登らなければなりません

 

観音殿への石段

現地の階段は写真で見るより急だった気がします

 

・観音堂

 

お堂の前には、提灯がつるされて、華やかできれい

 

 

・毘盧殿

 

毘盧遮那仏が祀られています

創建当初は、毘盧遮那仏が本尊でしたが

宗派が変わった際に、毘盧殿に移されました

現在の仏像はそんなに古くはないと思います

 

・極楽殿
最後のお堂です
 
極楽殿の前庭にはイノシシの像がありました
みなさん、並んでかわるがわるイノシシを撫でていました 

 大神神社の「なでうさぎ」を思い出します

 

仏国寺は以上、この日の最後の目的地石窟庵に移動です

 

 

 ②石窟庵(ソックラム)

 

仏国寺前からバスに乗り、山の中のくねくね道を小一時間かけて

石窟庵に行きました

 

アクセスは決して良くありませんが、人気があるのか、山の中の道は途中から大渋滞

 

目的地近くでは、カーブした道の道端に路上駐車の車が列をつくっていました

 

拝観が終わって帰ろうとする路上駐車の車が、これから行こうとする車の列に割り込んで、車は全く動かない状況

 

大渋滞を抜け、バスもようなく駐車場に着きました

 

 駐車場からの見晴らし良し

どこがどこだか、全然わからん…

 

 

目指す石窟庵は、ここからまた20分くらい歩きます

 

 

説明板↓

石窟庵は、統一新羅時代の景徳王10年(751)に、宰相の金大城によって創建

当初は「石仏寺」と呼ばれる

 

平面構造は、前方が四角で、後方は丸くなっている

石窟内は本尊仏を中心に、その周囲には天部像、菩薩像、羅漢像、居士像、四天王像、仁王像、八部衆像などが彫刻されている

 

 

 

 歩道はとても整備されていて、歩きやすい

 

ぞろぞろ歩く

途中、リスがいて、子どもが喜んでいました

 

↓石窟庵が見えてきました!

同時に、とても長い行列も見えてきました

 

説明板などを眺めながら、根気よく並びます

 

石段で並んでいるときに、下を移すとまだまだ列ができています

 

 石窟庵の建物が目の前に!

 

 

もうすぐです

 

内部を見る前に石窟庵について簡単に説明します

 

石窟庵はもとは「石仏寺」と呼ばれていました

751年に建立が開始され、774年完成

1392年からの朝鮮時代は儒教が中心、仏教は弾圧されました

1703年と1758年には補修した記録

1733年までは記録が残るそうです

 

仏国寺が廃寺になった後、石窟庵も存在を忘れられてしまいました

 

1909年、郵便配達員が山の峠を越える時、突然豪雨に襲われて山の中の洞窟に逃げ込みました

 

その時偶然に仏像が発見されましたが、その有様は天井が抜け落ち、仏像に直接雨があたっていたそうです

仏像の配置も不明で、半分以上が土に埋もれていました

 

1913年~1915年の日本統治時代、日本により大規模な修復工事がおこなわれ、

日本の当時の最新技術であるセメントが使用されました

 

1961年~1963年にかけて、韓国文化財管理局指導のもと、補修工事が行われました

 

湿度の問題対策として、後部をさらにセメントで塞ぎ、全面ガラス張りにして人工的に除湿

 

仏像の配置は「日本がデタラメに並べた」として(その言い方よ)、経典に照らし合わせ独自に並べなおした

が、

補修後、発見当時の写真や事前調査の詳細な配置図が見つかり、日本が行った補修・配置が正しかったことが発覚した

 

 

そりゃ、仏国寺については秀吉が一度燃やしちゃったけど(スミマセン)、

石窟庵については日本が補修してあげたのに、つい最近までイチャモンつけられたりしているようです

これ以上書きたくないので、書きませんが、

気になる方は、こちらをお読みください

石窟庵 - Wikipedia

 

 

 

で、

 

 

日本が直してあげて、いろいろ言われたけど、結局正しかったというレイアウトが

これ↓(現地説明板による)

 

 断面

 

拝観者は、手前のガラス越しに見るだけでした

なので、真ん中の大きなご本尊と、一番手前の八部衆が見えた程度でした

 

それでも、行ってよかった!

 

 

現地で絵葉書を買いました(売店で日本語が通じました)ので、レイアウトの奥から順に載せてみます

 

 

ご本尊

 

拡大

きれいな石仏で、触地印を結んでいます

 

 

↓本尊の背後には十大弟子

十大弟子の上の方は壁が刳られて、何かの像がいますね

 

 

 

 

天井(天蓋?)

 

 

本尊の真後ろにあるので、どうやっても見えないはずの

十一面観音像

 

十大弟子①

 

十大弟子②

 

 

文殊・普賢菩薩

 

 

梵天・帝釈天

 

 

四天王

増長天・広目天

 

仁王

 

八部衆

 

 

白っぽい石に彫られた石仏たちはどれも美しい像でした

 

いつの時代のものなのか、よくわかりませんが、

現在は国宝第24号に指定されています

 

拝観を終えて、外に出ました

 

 

絵葉書(気づかなかったけど、ドームは外から見ると円墳みたいになっているらしい)

日本のセメント技術がどこに活かされているんでしょうね

 

お堂からは、下界まで良く見えています

 

 

 

 

これで、慶州の一日が終わりました

 

小康状態だった左膝がまた少し痛くなりました

 

 

石窟庵の駐車場でたまたまタクシーが拾えたので、そのままKTXの新慶州駅に戻りました

やはり小一時間くらいかかりました

(自力でバスで帰るとなると、どんだけ時間がかかっただろうかと思います)

 

 

新慶州駅

 

駅にあった壁画

 

 

 

釜山駅についてから、

駅の近くで食べた夕食(一応ガイドブックに掲載されていたお店)

 

 

 

 

今回の旅行で、慶州に行けたことはとても良い経験になりました

 

私がまだ大学生だったころでしょうか、

まだ現役だった父が、(何の用事か知りませんが)慶州に行ったことがありました

父は帰宅するなり、

「慶州は明日香村みたいだだから、行ったほうがいいぞ」

と私に言ったことを慶州旅行中に思い出しました

 

そんな父も、半年後には7回忌を迎えます

 

だが、父よ、

「慶州は明日香村よりも、さきたま古墳群に似てたよ!」

と私は天に向かって叫びたいのでした