THE OUTSIDER 第13戦を見に行く
とりあえず見にいってきたので感想を書きます。
横浜文化体育館に行く前に九段下の靖国神社を訪問
日米対抗戦まで随分とつまらない試合が多かった。
つまらないということは、選手が総合格闘技のセオリー通り闘っているということで
出場選手のレベルがあがっているということなんだろうけど
見ているわたしはとてもつまらなかった。
アマチュア選手に過度の期待は酷なのでそれはそれでしょうがないかなとも思う。
日米対抗戦の演出は素晴らしかった。
試合の中で印象に残ってるのはビースト選手とライオン選手。あの二人はモノが違った感じで
たぶんプロリングで見るとそれなりのセンセーションを巻き起こせるスペックがあるかもしれない。
ZSTとの対抗戦
わたしはきっと全敗するだろうと思い、靖国神社でアウトサイダーの選手が重度な怪我をしないことをお願いした
ぐらいであったので、予想以上の善戦で選手の意地に少なからず感動した。
アパッチ小次郎vs島村裕の試合では
ある種の奇跡を目撃しているような不思議な感覚で
似た感覚があるとすれば子供の頃初めてロッキー1の映画を見た時のような
所英男が小ノゲイラに勝った時みたいな感覚で
それ以来なので痛く感動した。
奇跡は諦めない奴の頭上にしか降りて来ない!
アパッチ選手は引退されるということらしいので
いままでお疲れ様でした。
でも
引退試合はあってもいいと思う。
野村選手とやってください。
6時間興行でかなり疲れてしまったが
12月も暇だったら見に行くことにする。
終わり
ぬん
日明兄さんが出馬を取りやめたようで
残念でしかたない。
日本において近年調整型の政治家が評価が高く、
彼方此方の話を聞き利益誘導できる者が政治家の資質がある政治家であると
変な勘違いとしている輩が多いですが
そもそも
日本において政治的に評価の高い
その政治家達が日本をこのような国にしたわけであって
その面からいえば
政治家としては糞みたいな輩である。
今、日本において求められるべき政治家は
考え方はおいておいて
原理主義的な思想を持つ人間であると
小生は
思っているので
ひとつでも納得できない政策があれば出馬を取りやめるという日明兄さんは
やっぱり
小生の思う理想の政治家で
いまの現職議員より
その資質は多分にあると
思っていて、
とにかく
残念でなりませんね。
少なくとも今回の件で評価が下がる事もなく
逆に上がっているはずなので
次のチャンスを期待したいなと
考えております。
終わり。
川上操六その③
引き続き陸海軍14将という書物から川上操六の項を抜き出し。
西南の役に従う
明治7年、佐賀の乱が起こったので、大将も近衛歩兵第二連隊の第一大隊を率いて出征されたが、この時は既に少佐になられていた。そして、九州の野に賊を鎮定し、功をもって従六位に叙せられたのである。それから明治10年、西南の役に従い、第13連隊長心得として熊本の野に戦い、転々、皆功があったので、翌11年の1月、勲四等に叙し、年金135円を賜り、なおその年の11月、陸軍中佐に進まれ、明治13年の1月、正六位に叙し、5月大阪鎮台第八連隊長に補せられた。
明治14年1月、仙台鎮台参謀長に命ぜられ、翌15年の2月には、大佐に昇進して、近衛歩兵第一連隊長となり、その3月従五位に叙せられ、同17年の1月、大山陸軍卿に従って欧州各国の軍制を視察し、翌年の春帰朝せられた。
金はよいか、持たせたか
金ということに就いてお構いのない大将ゆえ、時に向島辺りへでも散歩に出かけることでもあると、会計は残らず、お供の書生が役、されば時に飛んだ質入があったらしいとは、口善悪なき近所の者の噂であった。
今日は大将が墨堤のお花見というので、お供をおうせつかった書生殿は、ただいま丁度仕度最中、そこへ御出でなされた夫人の方、
『チョイと高山さん、それでは壱円札が三枚と、十円が、もし何の切は後から持たせて上げますから』、
書生は紙入を受け取って、
『ハイ宜しゅうございます』、
主人の大将、その場へ出てきて、
『金は良いか、持たせたかな』、
夫人『持たせました』。
やがて書生一人を連れて出かけた大将、方々見物した末は、お定まりの某家へ登り、何でも出せ、誰でも呼べと、飲めや唄えの大騒ぎ、興了れば、飄然として帰途に就かれる。その磊落さ、ここらか即ち英雄が胸裏の広い、風向イ月とでもいうべき趣味ある所であるだろう。
続く
川上操六その②
陸海軍14将という書物から川上操六の項を抜き出し。
陸軍大将子爵川上操六
出生と幼児の学問
大将は鹿児島の藩士で、弘化4年11月11日に生まれ、幼名を宋之丞と呼ばれたが12歳の頃、吉野村の小学校
に入っていたとき、偶々、藩主島津斉彬公が同校へ参られた。そこで教師は優等生幾名かを選び、御前でそ
の学芸を試すことになる。大将もその一人に選ばれて、孟子の中の一章を読んだ。ところが、その読み方とい
い、講義といい、かへって大人も及ばぬ程の出来であったから、藩公も大いにその才を称し給い、年々凛米若干
を賜る上、なお15歳に達したならば、更に聖堂に入って学門せよとの命まで下さった。これが即ち大将が出世の
糸口であった。
そこで大将は15歳になると、聖堂へ入学されたが、その学力というたら非常なもので、年々、長足の進歩をした
故、何時しかそのことが藩公のお耳に達し、更にまた、若干の増賜にあやかった。そして、ここに2年程居られた
うちに、頭一つ抜きんでられて、句読師助役となったとは、さてもまあえらいことではないか。
身を兵籍に入る
その後慶応の3年になると、藩では英国式の軍隊を組織することになり、大将もまたその中の一人となって、歩
兵第十番小隊に属し、京都を差して上られたが、これがそもそも大将の軍隊に入った初めである。次いで明治元
年の正月には、分隊長となって、鳥羽、伏見に転戦し、進んで越後口より出羽の庄内まで追撃し、戦が終わって
後、帰藩された。
越えて明治2年、藩兵第四大隊第六番小隊の分隊長に転じ、その五月斥候として函館へ出張され、翌月命に依
って、上京し、復命を終わってまた帰藩された。それから明治4年の4月、再び召しに応じて上京し、御親兵付とな
り、なおその年の11月23日、特別の抜擢に預かり、中尉から大尉に昇った。
続く
川上操六その①
えー今回からネットに川上操六の情報をネット上に残す事を目的とし数回川上操六シリーズをネットに上げることにした。
もちろん他人の褌であげていく。
<クイズ『坂の上の雲』>日本史上の最高の軍人は一体誰でしょうかー「秋山真之ではない。参謀総長だった川上操六じゃよ、ホント」①
まさに明治陸軍の空前絶後の稀代の名将とは、この川上操六である
前坂 俊之
(戦史研究家)
明治維新によってアジアの端っこに大陸とは海をへだてて誕生した「まことにまことにちっぽけな貧乏小国」の日本が「富国強兵政策」(これはいまだに論争になっているが・・)によって、軍事・経済大国にのし上がっていった、最も大きな要因は何と言っても軍人の力じゃ。
いいも悪いも、これが結局、日本の現実、歴史で今の姿をつくったのじゃ。有能、無能な国家公務員としての旧軍人たちが(今の国家公務員たちの姿と同じ、当時では軍人政治家といってよい)国を興し、国を滅ぼすことにもなったのですね。
その軍人(国家公務員)の中で最も知謀にすぐれていたものは、「坂の上の主人公」・秋山真之、東郷平八郎か、それでは山本権兵衛じゃろう、いや、陸軍の100年に1度の参謀と言われた児玉源太郎か、大山厳、「陸軍の父」山県有朋、西郷従道・・・・違うんだね。忘れ去られた川上操六こそ正解なのじゃ。
これから、おいおい川上のことを、その親友・徳富蘇峰の口を借りて、語り継いで明治の日本国家の興亡をみていきたいのじゃね
川上操六の登場
明治初期の日本軍の編成はどうだったかというと、鎮台(ちんだい)という名前のしめす通り、国内の内乱を鎮めるのが主目的だった。
しかし萩、佐賀、熊本の乱、西南戦争(明治10年)を最後に内乱はなくなった。逆に大陸に出兵させる危機は年ごとに増大、ロシアは虎視眈眈(こしたんたん)と満州、朝鮮を狙っている。朝鮮が脅かされれば日本の横腹にドスをつきつけられた形となり、鎮台から機動本位の師団編制が急務となった。
陸軍は幕府以来のフランスの陸軍将校を顧問として、着々兵制の建設を行なってきたが、明治16年(1883)にドイツ式に切り替えた。
ここで、登場するのが川上操六である。「川上の作戦能力は絶大で、兵站総督をもかね、日清戦争を連戦連勝でもって終結させた。川上は空前絶後の陸軍名参謀総長であった」と日本軍事史の権威・松下芳男は『日本軍閥の興亡』芙蓉書房(昭和50年刊)で折り紙をつけているが、陸軍大改革のキーマンであった。
明治大正昭和三代60年以上にわたり日本の国家指導者のリーダーパワーを一番身近に知っていた徳富蘇峰は「世の中で大きなことに気づく人は小さなことに気づかない。小さなことに気づく人は大きなことに気づかない。ところが将軍は細大漏らさず、万遍なく気がついた。私は長い間あらゆる人と接したが将軍ほど適材適所で、人使いがうまく、よく気のつく人をみたことがない」〈「蘇翁感銘録」宝雲舎、昭和19年〉と5つ星の最高評価なのである。
つまり、川上こそ陸軍参謀本部を創った父であり、日清、日露戦争での最大の功労者なのだが、汗牛充棟(かんぎゅうじゅうとう)の日露戦争本や軍人の伝記をみても、川上参謀総長について頁を割いているものは意外に少ない。
川上の伝記にいたっては没後百年以上経つ現在に至るまで徳富蘇峰「陸軍大将川上操六」第一公論社(昭和17年刊)の1冊のみである。しかも、この本の前書きで蘇峰は「陸軍軍医・石黒 忠悳(いしぐろ ただのり)から川上は死後、すぐに忘れ去られた存在となっており、ぜひ君に伝記を執筆してほしいと依頼された」と書いているように、川上研究はこの100年前からほとんど進んでいないのである。川上参謀総長の実像を追ってみた。
以下は島貫重節「戦略日露戦争」(原書房、一九八〇年)より、「稀代の名将、川上操六大将」の一節である。
まさに明治陸軍の空前絶後の稀代の名将とは、この川上操六である
まさに明治陸軍の空前絶後の稀代の名将とは、この川上操六大将のことをいうと、いか程の賛辞を呈しても何人も異存はあるまいと思う。
当時は明治新政府創設の頃であり、西郷隆盛の反乱に例を見るまでもなく、明治以前よりの封建的思想から脱却し切れないものが多かった。
また薩長両藩の主導権抗争や、政府(特に伊藤博文首相)と軍部(特に山県大将)の対立等の見苦しい内部の島国根性的縄張り争いがあったけれども、実に超然としてこれに拘わることを一切拒否したことは、まことに透徹した眼識の将軍といわざるを得ない。
恩師の西郷隆盛の帰郷に絶対の反対を表明し、山県大将が軍部の統領格であっても、日清戦争では彼の第一軍司令官の職を解任させたあたりに、川上操六の面目躍如たるものがある。彼の公正にして近代的な眼識には、政府、軍の長老たちも一目おいていたといわれている。
川上操六の政戦両略に関する卓越した知識と技量も素晴しく、軍人として一切、政治に関与することなく、しかも国際政治、外交に関する研究深く、この点も畏敬の的となっていた重要な点であった。
(註)当時はもとよりシビリアンコントロールの時代ではなかったが、しかしこの川上将軍のような軍人が全軍を指挿しておれば、シビリアンコントロールの近代版型と全く同じ、否より以上の成果をあげていたように思える。
そうだとすれば、組織制度もさることながら、まず要は人物であり、人物養成が先かも知れないことを、この川上参謀総長の例は証明しているといえよう。
川上操六大将の略歴
川上操六は鹿児島県吉野町の出身、明治元年二十歳の時、西郷隆盛の指揮下に鳥羽伏見の戦闘に初陣を飾り、ついで越後の戦、奥羽の戦に従軍し、最後は明治二年二月の箱館(函館)戦争にも参加して功を立てた。
明治四年四月、明治陸軍創設のいわゆる御親兵の編成に際しては、陸軍中尉となり西郷隆盛の配下で薩摩より上京、同年十二月大尉に任官して小隊長となる。当時の仲間に別府晋介、辺見十郎太の両大尉がおり、これらの人々とおおむね同じ地位にあった。
明治六年十月、西郷隆盛の辞職帰郷に際しては絶対に反対の立場を取り、遂に西郷と別れるに至る。かくして明治十年西南戦争においては、熊本城の龍城戦から城山の攻略戦に至るまで、終始第一線で活躍した。
明治十一年、陸軍中佐、歩兵第十三連隊長(熊本)に抜擢される。時に三十一歳であった。
次で明治十四年仙台鎮台の参謀長、明治十五年には陸軍大佐、近衛歩兵第一連隊長となり、明治十八年に陸軍少将、参謀本部次長となる(年齢三十八歳)。
明治十九年欧州留学を命ぜられ、主としてドイツに留学、帰国後から本格的な近代陸軍の編成、連用、作戦、訓練、教育等の広範な大改正とこれに伴う教範、勤務令等の絹集に従事する。明治二十二年より三十一年までの十年間の参謀次長時代の活躍は、まことに卓越しており、特にこの間の日清戦争においては大本営の作戦統帥の中核幕僚として、水際立った鮮やかな戦略指導に貢献した偉功については、この人の右に出る者がない。
この殊勲が認められて功二級の外に一躍して子爵を授けられたことが、如実にこれを物語っている。
明治三十一年一月参謀総長に就任し、同年九月陸軍大将に任ぜられたが、翌三十二年五月、五十一歳の若さで卒然として逝去。まことに哀惜の極みであった。
川上将軍は、日清戦争というわが国として初めての外征作戦の企画指導に全力を挙げた。続いて三国干渉という悲運に対処し、ただちに次期作戦準備は対ロシャ作戦にありと判断して、自ら参謀本部の人事強化と陸軍大学以下の将校教育充実を図り、陣頭に立って渾身の努力を続けた。
また戦略情報収集には特に意を用いて、福島大佐の亜欧視察を命ずる外、各地に参謀を派遣し、自身もまた挺身して、ハバロフスクのロシャの総督府に乗り込んで視察するなど、その東奔西走の活躍振りは畏敬の的であった。
しかしこの過度の激職が、あたら五十一歳の若き名将の命を奪うことになろうとは当時誰しも予想できないことだった。
http://maesaka-toshiyuki.com/detail?id=273
その他
別の他人の褌
川上操六
1894年(明治27年)6月4日、後の男爵近藤廉平が川上操六将軍と軍事上の機密を守って固い約束をしたという逸話があります。
日清の国交漸く風雲急を告げ、朝鮮の警備の急務を感じた参謀本部では、時の参謀次長川上操六中将が、御用船の事に就いて密かに日本郵船会社副社長近藤廉平を訪ねます。
当時、清国の提督葉志超及び総兵聶士成とは2400名の兵と8門の砲を率いて、太沽、山海関の両地から軍艦平遠護衛の下に3艘の運送船を以て、6月6日牙山湾に向って出発するという謀報が入ったので、その対策として我国から混成一個師団を急派し、清兵を牙山方面に喰止めようという方略が樹てられたので、極秘の裡に急ぎ御用船を命ずることとなりました。
これが即ち川上操六、近藤廉平両氏の会見であります。
川上操六は御用船を命じた上で、更に言葉を改め
「この事は国家の一大事であるが、君も男として必ず秘密を守って呉れるでしょう」
と念を押した。すると近藤は、
近藤廉平
「私も日本に生まれた男子です。国家を思うの赤誠は断じて閣下に譲りはしません。此の秘密は閣下と私と二人しか知らぬ事ですから、若し萬一外に洩れたとすれば、その場合失礼ながら閣下と共に割腹して果てましょう」
と冷然と言い放ちました。川上中将も、その決然たる態度に初めて笑を見せ、
「近藤君、有難う、それでこそ私も安心だ。何分よろしく頼みますぞ」
「御国の為めです、立派にやってのけますから御安心下さい」
と両人は固い握手を交わしたのでした。
それから間もなく同社の船舶10艘が極秘の裡に宇品に急行、所定の任務を果した事は言うまでもありません。
次いで、日露戦争の直前にも、彼に対し極秘のうちに、御用船が命じられたのが、1904年(明治37年)1月5日の事でありました。
近藤廉平は、こうした隠れた功績に依り、男爵を授けられたのでした。
気になること
昨年末の坂の上の雲を見て川上操六が凄く気になっている。
川上操六が気になったというより國村隼さんが大好きという影響が大のような気もするが、
それはそれいろいろ調べて見たら、
陸軍の至宝といわれた川上操六の書物が少ない。近年まったく発売されてない。アマゾンで検索したら一冊だけでてきてそれが一冊4万円ぐらいする。
無理無理。
ということでwikiに載ってた
近代デジタルライブラリー
http://kindai.ndl.go.jp/
で川上操六と検索したら
1. 印度支那視察大要 / 川上操六著,〔出版者不明〕, 1897序
2. 京浜所在銅像写真. 第1輯 / 人見幾三郎編,諏訪堂, 明43.5
3. 健児社 / 高橋立吉(淡水)著,磯部甲陽堂, 明43.12
4. 東西名士発奮之動機,実業之日本社, 1910.12
5. 当世活人画 / 佐瀬得三(儘世)著,春陽堂, 明32-33
6. 当世策士伝 / 鵜崎鷺城著,東亜堂書房, 大正3. - (縮刷名著叢書 ; 第4編)
7. 日清韓三国英名伝 / 東洲山人編,魚住嘉三郎, 明27.9
8. 百雄魂 / 血達磨著. - 2版,大雅堂, 明38.11
9. 明治天皇御一代 / 明治天皇欽仰会編,明治天皇欽仰会, 大正15
10. 明治百傑伝 / 干河岸貫一編,青木嵩山堂, 明35.3
11. 陸海軍十四大将 / 岩崎徂堂著,大学館, 明35.10
とでてきた。
印刷フリーなので
ある程度は保存したが、読めるかどうかわからん。
それだけです。
きっと
國村隼さんは日本演劇界の至宝
終わり
土佐藩と陽明学のアレ
先日、坂本龍馬が王陽明の事を語っていたので
土佐藩と陽明学の関わりを調べてみた。
初回の龍馬伝でベンガル演じる岡本先生が亡くなりましたが
岡本先生は陽明学の学者さんだったんですね。
↓下は高知の郷土史家のブログ
長州に吉田松陰の松下村塾があったように,
土佐に岡本寧甫の塾がありました.松下村塾の末裔たちは権力を握り,今や憲法を変えて,とてもとても美しい国を造ると言っています.
これに対し土佐の岡本塾の流れはやがて自由民権運動の大きな流れになりました.その精神は敗戦によって米国から「押し付け」られた日本国憲法において実現されました.
(引用はじめ)
岡本寧甫は1794年生まれ。京と江戸で儒学を学び陽明学者となります。
新堀川東側に岡本寧甫塾を開きました。門弟は約1000人。おもな塾生は、清岡道之助、河田小龍、奥宮慥斎、岩崎弥太郎、などです。
寧甫と親交した武市瑞山が近くに剣術の道場(新堀川横堀公園側)を開き、塾生の清岡道之助たちと土佐勤王党を作ります。
塾生の河田小龍(生家は土佐橋のたもと)はジョン万次郎の話を聴き、自ら挿絵付きの本「漂巽紀略」をまとめました。その本が幕府に届けられ、当時の米国に関する貴重な情報となりました。その知識を坂本龍馬に授け、龍馬は亀山社中を創設してゆきます。
塾生の奥宮慥斎(生家は布師田)は陽明学者となり、土佐勤王党の理論的指導者となります。河田小龍や中江兆民にも陽明学を教え、のちに日本国憲法の原案となった明治憲法草案を作った、植木枝盛(生家は旭町)とも陽明学の勉強会を持ちました。
その兆民(生家は新堀川のすぐ西側)は長崎留学中に龍馬に学び、その後東京に出てフランスに留学、ルソーの著書「社会契約論」(民約論)に出会い、日本に帰ると私塾を開き、「民約論」を講義して、自由民権運動の理論的指導者となりました。兆民最後の弟子が幸徳秋水(生家は中村)でした。
寧穂の塾から育った人材が土佐勤皇党を結成し、幕末に活躍し、龍馬は彼の孫弟子です。その龍馬から兆民が学び、兆民は秋水を育てます。寧甫はまさに松下村塾を主宰した長州の吉田松蔭と比肩される人物です。輩出した人材を見ると彼の偉大さがよくわかります。
岡本寧甫が講義した陽明学思想は、中江兆民の自由民権思想から幸徳秋水の社会主義思想へと発展していきます。
(引用おわり)
http://blog.livedoor.jp/uradowan/archives/50596009.html
岡本寧甫塾には中岡真太郎も通ってたといいますし、
http://www.bakusin.com/nakaoka.html
陽明学が根底にあれば、土佐勤皇党の破滅へ向かう一直線さをやっと理解できたような気もします。
勝海舟も佐久間象山から朱子学や陽明学を学んでたとも言われていますし
なかなかというか
幕末の陽明学の系譜は
かなり面白いですね。
朱子学の普遍的秩序志向は体制を形作る統治者側の人間に好まれたんですが、
陽明学は個人道徳の問題に偏重する傾向があって、反体制的な考え方に陥る傾向が高いんです。
なので
この学問を好む人間には反体制というか気性が激しい性質の人が多かった。
薩摩、長州、土佐に思想的共通点があるとすれば陽明学ではあるけれど
他にも何かありそうでなさそうで
なんか歯がゆい感じもします。
終わり
坂本龍馬の裏名言集
福山雅治さんの龍馬伝という大河ドラマが始まって
小生のブログにも飛んで来る人がいるようで
検索ワードは
坂本龍馬 虚像
これがトップですね。
坂本龍馬の虚像
http://ameblo.jp/nankaihorks/entry-10406933572.html
↑これを見に来てるようですね。
ということでその人たちの為に
坂本龍馬裏名言集を調べたので書いておきます。
人に益を与へて後に策を廻らせば、中人以下は陥るもの也。
義理などは夢にも思ふ事勿れ。身を縛らるゝもの也。
予に随ふ者は生捕同然、予に不随者は皆讐敵と見て、心をゆるす事なかれ。
親子兄弟と雖も唯執着の私なれば、蠢虫(うじむし)同様の者にして、愛するにも足らぬ活物也。況や夷人をや。
人の家に入れば、兵器は何所に在ると、先づ目を付くべし。其次は財宝の類は何に入れ置くと考ふれば、家の部分(ぶわ)けせるが如し。
人を一人殺せば、其魂我に乗りうつりて、智もふえ、命も延るものと心得べし。兼て工夫満つれば戦場面白きもの也。
薄情の道、不人情の道、忘るゝ事勿れ。是を却而(かえつて)人の悦ぶ様にするを大智といふ。
鳥獣といへども、己を殺さんといふを知れば、身構えするもの也。如何なる馬鹿者にても打解けざる内は殼中に入れ難し。是を生捕り侯術他なし、食色の二つにあり。
王陽明曰、六経は心の註也。仏者曰、断見と。是は見処(みどころ)あり。
これらの発言が坂本龍馬の言葉か嘘か知りませんが
他の名言を見たい方は
http://www3.kitanet.ne.jp/~nihirata/20071104.html
で確認してみてください。
坂本龍馬の裏名言を見てて
坂本龍馬が王陽明勉強してたのには驚きました。
やっぱり
幕末の志士の間では陽明学ってトレンドだったんですね。
西郷隆盛と気が合うはずです。
西郷隆盛、大久保利通、河井継之助、高杉晋作、坂本龍馬
陽明学派の力は凄いです。
終わり
だいなまいとの感想
今年のテレビ東京の年末特番は面白くないですね。
せっかく今田、東野が司会してるのにもったいなさすぎます。
作家の人はちゃんと仕事しましょう。
芸人の下手な歌じゃ笑えませんぬ。
ダイナマイトの感想です。
印象に残ったのは一つだけ
いやー青木さん見直しました。
いままでずっと青木真也が大嫌いでしたが
ファンになりました。
アントニオ猪木とは違うキチガイさ
現世に蘇った三国志の呂布的なカリスマ性がでてきましたね。
関西人しかわからないニュアンスであれですが
関西から関東に行った芸人が
関東に媚を売り言葉のニュアンスが若干変わってしまう
太平シローやノンスタイル井上的なキモチの悪さ
隠そうとしてもどうしても漏れてしまうキショクの悪さ
そうゆう浅ましさ溢れる言動や雰囲気が
全て
今回の試合で腐食されたようなものです。
主催者が彼の行為をどう思うかしりませんが
あんな酷い事をして
彼氏の試合が来年地上波でみれるかどうかというね
試合後のコメントもイカシテいますね
ゆわれたからやりましたよ的な
自分のやった行為に対して
あらかじめ
逃げ道を用意してる
小ざかしさ、狡猾さ
笹原代表と青木真也選手はまるで
董卓と呂布の関係を思わせる。
年末に後味の悪い試合を見て
おおいにヒイテしまいましたが
やっと本性全開にしたなと
小生の感覚や感性は間違っていなかったのだと
ある種のカタルシスを感じました。
嫌われもの全開で今後の人生を突っ走って欲しいと思います。
終わり。