川上操六その②
陸海軍14将という書物から川上操六の項を抜き出し。
陸軍大将子爵川上操六
出生と幼児の学問
大将は鹿児島の藩士で、弘化4年11月11日に生まれ、幼名を宋之丞と呼ばれたが12歳の頃、吉野村の小学校
に入っていたとき、偶々、藩主島津斉彬公が同校へ参られた。そこで教師は優等生幾名かを選び、御前でそ
の学芸を試すことになる。大将もその一人に選ばれて、孟子の中の一章を読んだ。ところが、その読み方とい
い、講義といい、かへって大人も及ばぬ程の出来であったから、藩公も大いにその才を称し給い、年々凛米若干
を賜る上、なお15歳に達したならば、更に聖堂に入って学門せよとの命まで下さった。これが即ち大将が出世の
糸口であった。
そこで大将は15歳になると、聖堂へ入学されたが、その学力というたら非常なもので、年々、長足の進歩をした
故、何時しかそのことが藩公のお耳に達し、更にまた、若干の増賜にあやかった。そして、ここに2年程居られた
うちに、頭一つ抜きんでられて、句読師助役となったとは、さてもまあえらいことではないか。
身を兵籍に入る
その後慶応の3年になると、藩では英国式の軍隊を組織することになり、大将もまたその中の一人となって、歩
兵第十番小隊に属し、京都を差して上られたが、これがそもそも大将の軍隊に入った初めである。次いで明治元
年の正月には、分隊長となって、鳥羽、伏見に転戦し、進んで越後口より出羽の庄内まで追撃し、戦が終わって
後、帰藩された。
越えて明治2年、藩兵第四大隊第六番小隊の分隊長に転じ、その五月斥候として函館へ出張され、翌月命に依
って、上京し、復命を終わってまた帰藩された。それから明治4年の4月、再び召しに応じて上京し、御親兵付とな
り、なおその年の11月23日、特別の抜擢に預かり、中尉から大尉に昇った。
続く