川上操六その③
引き続き陸海軍14将という書物から川上操六の項を抜き出し。
西南の役に従う
明治7年、佐賀の乱が起こったので、大将も近衛歩兵第二連隊の第一大隊を率いて出征されたが、この時は既に少佐になられていた。そして、九州の野に賊を鎮定し、功をもって従六位に叙せられたのである。それから明治10年、西南の役に従い、第13連隊長心得として熊本の野に戦い、転々、皆功があったので、翌11年の1月、勲四等に叙し、年金135円を賜り、なおその年の11月、陸軍中佐に進まれ、明治13年の1月、正六位に叙し、5月大阪鎮台第八連隊長に補せられた。
明治14年1月、仙台鎮台参謀長に命ぜられ、翌15年の2月には、大佐に昇進して、近衛歩兵第一連隊長となり、その3月従五位に叙せられ、同17年の1月、大山陸軍卿に従って欧州各国の軍制を視察し、翌年の春帰朝せられた。
金はよいか、持たせたか
金ということに就いてお構いのない大将ゆえ、時に向島辺りへでも散歩に出かけることでもあると、会計は残らず、お供の書生が役、されば時に飛んだ質入があったらしいとは、口善悪なき近所の者の噂であった。
今日は大将が墨堤のお花見というので、お供をおうせつかった書生殿は、ただいま丁度仕度最中、そこへ御出でなされた夫人の方、
『チョイと高山さん、それでは壱円札が三枚と、十円が、もし何の切は後から持たせて上げますから』、
書生は紙入を受け取って、
『ハイ宜しゅうございます』、
主人の大将、その場へ出てきて、
『金は良いか、持たせたかな』、
夫人『持たせました』。
やがて書生一人を連れて出かけた大将、方々見物した末は、お定まりの某家へ登り、何でも出せ、誰でも呼べと、飲めや唄えの大騒ぎ、興了れば、飄然として帰途に就かれる。その磊落さ、ここらか即ち英雄が胸裏の広い、風向イ月とでもいうべき趣味ある所であるだろう。
続く