FF13 オプティマ
昔からのスタイルのRPGは、レベルを上げていくことに醍醐味があるとはいえ、レベル上げの作業自体は敵とエンカウントしたら常にバトル。やってることは単にAボタンを連打するだけというゲームデザインでした。ドラクエなんて未だに律儀にこのスタイルを守っていて、いい加減ボタン連打でもあるまいにと思いながらも、ドラクエはそれこそ1作目から作風が変わっていないので、ゲームを作る側もモロモロの約束事の中に「通常の戦闘はプレーヤーにAボタンを連打させる」という不文律があるんじゃないかと思う。
しかしゲーム機の進化とともに新しい要素を取り入れて来たファイナル・ファンタジーが、一本道の道中で敵に会ってはAボタン連打を繰り返す単調な作業の繰り返しだったのは、いくらムービーを見せたいからってコレはないよなあ、とガッカリした。一応戦闘時にコマンドを選ぶことも出来るのだが、コマンド選択のエリアが画面に対して非常に狭く、見辛いったらありゃしない。あれこれ試行錯誤したものの、面倒くさくて結局はATBゲージが貯まってはAボタン連打と、ゲーム開始時にすでに倦怠感あふれる戦闘に慣れてしまった。
それが3章の終わりにオプティマを切り替えるという要素が入ってきて、ようやく少し戦闘が面白くなってきました。オプティマというのは、敵の強さや自分のHPを見ながら、攻撃重視や回復重視などの方針を適宜切り替えるもので、そうなると適度に緊張感を持った戦闘が楽しめる。
ただ、オプティマを切り替える必要のある戦闘がそれほど多くなく、Aボタン連打ばかりというのは相変わらずで、どうもFF13を作った側は、余程プレーヤーは戦闘をウザいと思っていると想定しているのではないだろうかと思えてくる。ウザいのは戦闘そのものではなく単調な作業なんだけどね。
しかしゲーム機の進化とともに新しい要素を取り入れて来たファイナル・ファンタジーが、一本道の道中で敵に会ってはAボタン連打を繰り返す単調な作業の繰り返しだったのは、いくらムービーを見せたいからってコレはないよなあ、とガッカリした。一応戦闘時にコマンドを選ぶことも出来るのだが、コマンド選択のエリアが画面に対して非常に狭く、見辛いったらありゃしない。あれこれ試行錯誤したものの、面倒くさくて結局はATBゲージが貯まってはAボタン連打と、ゲーム開始時にすでに倦怠感あふれる戦闘に慣れてしまった。
それが3章の終わりにオプティマを切り替えるという要素が入ってきて、ようやく少し戦闘が面白くなってきました。オプティマというのは、敵の強さや自分のHPを見ながら、攻撃重視や回復重視などの方針を適宜切り替えるもので、そうなると適度に緊張感を持った戦闘が楽しめる。
ただ、オプティマを切り替える必要のある戦闘がそれほど多くなく、Aボタン連打ばかりというのは相変わらずで、どうもFF13を作った側は、余程プレーヤーは戦闘をウザいと思っていると想定しているのではないだろうかと思えてくる。ウザいのは戦闘そのものではなく単調な作業なんだけどね。
FF13 伝説の花火
これさあ・・・色々と「伝説」の使い方がおかしいよな。
大体目の前にある事象を指して伝説ってどういう事よ。それが100年に1回ならまだしも、「来年も見に来よう」っていってるんだから、これはいわば年中行事。このゲームの脚本を書いた人のお宅では、「家族に福を呼ぶ伝説の豆まき」とか、春になったら「さあ、みんなで伝説の花見をしましょう」など、平気でこんなトンチンカンな言葉を使ってるのなら許す。でもこの違和感を5年にもおよぶ製作中に誰も突っ込まなかったのは問題だと思う。
それと、伝説であるのは花火そのものではなく、花火にまつわる昔話こそが伝説のハズである。それをすっ飛ばしてリゾート地で上がる花火を伝説呼ばわりされても、なんだか安い伝説やなあ、としか思えない。脚本家はこのシーンの元のイメージに「ときめきメモリアル~伝説の樹の下で~」あたりがあったのではなかろうか。だとしたらもうちょっとこう・・・スノウとセラの馴れ初めぐらいはプレーヤーに教えたほうが効果的だったろうと思う。
そうはいってもこの花火のシーンは美しい。FF7でも観覧車に乗って花火を見ながらデートをするシーンがあった(ような気がする)が、当時の技術の限界で、どうしても花火そのものはショボく見えた。それから十数年、花火へのこだわりの強い日本人も素直に美しいと思える花火がようやくCGで描けるようになったのだろう。縦横無尽に空を飛ぶバイクで花火の間を飛び抜けながら永遠の愛を誓う、自分のトシではこうやって書くだけでも気恥ずかしいが、その昔の花火大会に彼女と出かけた記憶を美化して思い出させてくれる、なかなかにロマンチックなシーンである。
大体目の前にある事象を指して伝説ってどういう事よ。それが100年に1回ならまだしも、「来年も見に来よう」っていってるんだから、これはいわば年中行事。このゲームの脚本を書いた人のお宅では、「家族に福を呼ぶ伝説の豆まき」とか、春になったら「さあ、みんなで伝説の花見をしましょう」など、平気でこんなトンチンカンな言葉を使ってるのなら許す。でもこの違和感を5年にもおよぶ製作中に誰も突っ込まなかったのは問題だと思う。
それと、伝説であるのは花火そのものではなく、花火にまつわる昔話こそが伝説のハズである。それをすっ飛ばしてリゾート地で上がる花火を伝説呼ばわりされても、なんだか安い伝説やなあ、としか思えない。脚本家はこのシーンの元のイメージに「ときめきメモリアル~伝説の樹の下で~」あたりがあったのではなかろうか。だとしたらもうちょっとこう・・・スノウとセラの馴れ初めぐらいはプレーヤーに教えたほうが効果的だったろうと思う。
そうはいってもこの花火のシーンは美しい。FF7でも観覧車に乗って花火を見ながらデートをするシーンがあった(ような気がする)が、当時の技術の限界で、どうしても花火そのものはショボく見えた。それから十数年、花火へのこだわりの強い日本人も素直に美しいと思える花火がようやくCGで描けるようになったのだろう。縦横無尽に空を飛ぶバイクで花火の間を飛び抜けながら永遠の愛を誓う、自分のトシではこうやって書くだけでも気恥ずかしいが、その昔の花火大会に彼女と出かけた記憶を美化して思い出させてくれる、なかなかにロマンチックなシーンである。
FF13 ファルシのルシが・・・
ラストストーリーを予約していることをスッカリ忘れ、ウッカリと360版のFF13を買ってしまい、とりあえずこっちを先に進めております。といってもまだ3章なのだけれど。
2ちゃんねるやゲーム関連のブログなどでさんざん揶揄されているFF13ですが、へそ曲がりなB型のワタクシとしましてはそれが逆に興味を惹いて、なんといいますか「今やらねばいつやる?」的な使命に燃えたのも事実。特に2ちゃんのFF13関連の発言については、そもそも2ちゃんには、こういうイジりがいのあるネタを言葉巧みにイジりまくるセンスのある人が多いので、さんざん笑わせてもらったという恩義(?)がある。そこで書かれている悪評も含めて元ネタを愛せそうな気が・・・気のせいかもしれませんが。
とにかく一切の先入観にどっぷり浸かった状態で、いざプレイ開始。
第一印象は、やっぱり「ムービーが凝っているなあ」というところ。冒頭のライトニングが目をしかめる場面で「おや?」と思い、それ以後も割と気にしているのだけれど、キャラクター達の表情の付け方が物凄い。CGなのにキャラの表情がごく自然に動き、顔の様子だけでもキチンと喜怒哀楽が伝わって来る。いまのところ表情に違和感があるのは歯を閉じた状態で笑っている顔くらい。ていうか、普通こんな笑い方はしないだろうと思うのだが、これはきっと口を開けて笑う、言い換えれば口腔内を違和感なく描くのが困難だったのだろうと推察いたします。ムービーゲーと言われているFFシリーズですが、ここまでキャラクターに演技させようと思ったら、そりゃプリレンダリングじゃなきゃ無理ですわな。
次に思ったのは、これもやっぱり「なんじゃこのプレーヤーおいてけぼりの展開」でありまして、パルスのファルシのルシがクリスタルになるかシ骸になるかの分かれ目、ファルシのビジョンからルシが自分の使命を理解して実行できたかどうかについて、パルスのファルシにルシにされたライトニングの妹のセラは無事使命を果たしてクリスタルになったワケですが。まだFF13を体験していない方は、この段落の文章でワタクシの感じた「おいてけぼり感」を感じていただけたらと。
で、この娘は一体何をしたの?
とりあえず今の時点で理解できるのは、セラの使命はライトニングとスノウにコクーンを守ると言わせることだった、ということなのだけれど、まさかね。まさかそんな伝言ゲームのためにバケモノにされてしまうなんて話を大の大人が大真面目に作る訳ないよね。それなら普通にライトニングやスノウを先にルシにするよね。きっとゲームを進めて行けば、セラが成し遂げた本当の使命ってやつが分かるんだよね。
2ちゃんねるやゲーム関連のブログなどでさんざん揶揄されているFF13ですが、へそ曲がりなB型のワタクシとしましてはそれが逆に興味を惹いて、なんといいますか「今やらねばいつやる?」的な使命に燃えたのも事実。特に2ちゃんのFF13関連の発言については、そもそも2ちゃんには、こういうイジりがいのあるネタを言葉巧みにイジりまくるセンスのある人が多いので、さんざん笑わせてもらったという恩義(?)がある。そこで書かれている悪評も含めて元ネタを愛せそうな気が・・・気のせいかもしれませんが。
とにかく一切の先入観にどっぷり浸かった状態で、いざプレイ開始。
第一印象は、やっぱり「ムービーが凝っているなあ」というところ。冒頭のライトニングが目をしかめる場面で「おや?」と思い、それ以後も割と気にしているのだけれど、キャラクター達の表情の付け方が物凄い。CGなのにキャラの表情がごく自然に動き、顔の様子だけでもキチンと喜怒哀楽が伝わって来る。いまのところ表情に違和感があるのは歯を閉じた状態で笑っている顔くらい。ていうか、普通こんな笑い方はしないだろうと思うのだが、これはきっと口を開けて笑う、言い換えれば口腔内を違和感なく描くのが困難だったのだろうと推察いたします。ムービーゲーと言われているFFシリーズですが、ここまでキャラクターに演技させようと思ったら、そりゃプリレンダリングじゃなきゃ無理ですわな。
次に思ったのは、これもやっぱり「なんじゃこのプレーヤーおいてけぼりの展開」でありまして、パルスのファルシのルシがクリスタルになるかシ骸になるかの分かれ目、ファルシのビジョンからルシが自分の使命を理解して実行できたかどうかについて、パルスのファルシにルシにされたライトニングの妹のセラは無事使命を果たしてクリスタルになったワケですが。まだFF13を体験していない方は、この段落の文章でワタクシの感じた「おいてけぼり感」を感じていただけたらと。
で、この娘は一体何をしたの?
とりあえず今の時点で理解できるのは、セラの使命はライトニングとスノウにコクーンを守ると言わせることだった、ということなのだけれど、まさかね。まさかそんな伝言ゲームのためにバケモノにされてしまうなんて話を大の大人が大真面目に作る訳ないよね。それなら普通にライトニングやスノウを先にルシにするよね。きっとゲームを進めて行けば、セラが成し遂げた本当の使命ってやつが分かるんだよね。
ソーシャル・ネットワーク
世界最大のSNSを立ち上げ、若くして億万長者となった主人公だが、実はそれらの名声はアイディアの剽窃と仲間への裏切りによって勝ち得たものだった。という事前に情報が入ってきたものだから、なんとなく清水一行の経済小説みたいな物を想像しておりました。などと言いながら清水氏の小説は一つも読んでいないのでアレですが、何となく野望に燃えた男が周囲を自分の踏み台にしてのし上がって行くというような。
「ソーシャル・ネットワーク」は事実に基づくと言いながらも登場人物の描き方などは多分にフィクションも含まれているだろうから、この映画をもってマーク・ザッカーバーグ氏本人をどうこう言うのは控えるべきなのだが、この映画で描かれた氏の解釈は確かに興味深かった。予想していたような野望を秘めた狡猾な男というよりは、自分を振った女の子を見返してやろうとか、ヤッピー的フラタニティに対する反発で行動するような感情主体の人物であり、そりゃまあ当時19歳という年齢を考えるとそうだろうなと思う。ハーバードからの親友を切り捨てる行為も、巨大な利益を産むフェイスブックが絡むからこそで、それさえなければ年相応のよくあるケンカで済んだのかもしれない。冒頭5分で示される主人公の鼻持ちならない人となりは、こういう性格だからこそ色々な慣習やしがらみを平気ですっ飛ばして突き進む力になっているのだと思う。
という感じで、一応はこの映画の意図を汲み取ったつもりなのですが・・・。すみません。以下ワルクチ入ります。
東海岸の学生エリート社会の描き方から、オシャレ(?)な和風レストランのバカ騒ぎから、なんか喧しいクラブっぽい場所での「世界を手に入れろ」的な会話から、女体盛りならぬ女体コカインまで、この映画に映る場面が全部嫌い。「ソーシャル・ネットワーク」に何かポジティブな物を感じた人は、ザッカーバーグとショーン・パーカーを折口雅博と中谷彰宏、もしくはホリエモンと村上ファンドでもいいけれど、この二人に置き換えて六本木ヒルズのバーで意気投合している場面を想像して欲しい。金を払ってまでそんな映像がホントに見たいのか。まあ人それぞれですが、やっぱり自分は「わざわざ映画で見せるなそんなもん」と思ってしまう。
映画の作りも、デビット・フィンチャーの暗いながらも澄んだ映像は健在だったが、常に画面に10人くらいひしめいていそうな絵作りが個人的にダメだった。しかも主人公のみならず全員が早口でまくしたてており、映画の進行がほとんどセリフまかせというのも辟易した。監督もスタッフも一流のプロのハズなのに、なぜこんな学芸会みたいな作りになってしまうのだろう。ものすごい評判のいい映画なのに、自分はその良さがサッパリわからなくてショボーン。
こんな人にオススメ:物語の情報量が非常に多いので、元気な時に見る事をオススメします。
「ソーシャル・ネットワーク」は事実に基づくと言いながらも登場人物の描き方などは多分にフィクションも含まれているだろうから、この映画をもってマーク・ザッカーバーグ氏本人をどうこう言うのは控えるべきなのだが、この映画で描かれた氏の解釈は確かに興味深かった。予想していたような野望を秘めた狡猾な男というよりは、自分を振った女の子を見返してやろうとか、ヤッピー的フラタニティに対する反発で行動するような感情主体の人物であり、そりゃまあ当時19歳という年齢を考えるとそうだろうなと思う。ハーバードからの親友を切り捨てる行為も、巨大な利益を産むフェイスブックが絡むからこそで、それさえなければ年相応のよくあるケンカで済んだのかもしれない。冒頭5分で示される主人公の鼻持ちならない人となりは、こういう性格だからこそ色々な慣習やしがらみを平気ですっ飛ばして突き進む力になっているのだと思う。
という感じで、一応はこの映画の意図を汲み取ったつもりなのですが・・・。すみません。以下ワルクチ入ります。
東海岸の学生エリート社会の描き方から、オシャレ(?)な和風レストランのバカ騒ぎから、なんか喧しいクラブっぽい場所での「世界を手に入れろ」的な会話から、女体盛りならぬ女体コカインまで、この映画に映る場面が全部嫌い。「ソーシャル・ネットワーク」に何かポジティブな物を感じた人は、ザッカーバーグとショーン・パーカーを折口雅博と中谷彰宏、もしくはホリエモンと村上ファンドでもいいけれど、この二人に置き換えて六本木ヒルズのバーで意気投合している場面を想像して欲しい。金を払ってまでそんな映像がホントに見たいのか。まあ人それぞれですが、やっぱり自分は「わざわざ映画で見せるなそんなもん」と思ってしまう。
映画の作りも、デビット・フィンチャーの暗いながらも澄んだ映像は健在だったが、常に画面に10人くらいひしめいていそうな絵作りが個人的にダメだった。しかも主人公のみならず全員が早口でまくしたてており、映画の進行がほとんどセリフまかせというのも辟易した。監督もスタッフも一流のプロのハズなのに、なぜこんな学芸会みたいな作りになってしまうのだろう。ものすごい評判のいい映画なのに、自分はその良さがサッパリわからなくてショボーン。
こんな人にオススメ:物語の情報量が非常に多いので、元気な時に見る事をオススメします。
ポケモン 育成論
ポケモンはストーリーをクリアしてからがポケモンです(謎)。
ポケモンの攻略サイトには、ポケモンごとの特徴を生かしてこうやって育てれば強くなるよ!的な育成論が数多くアップされていて、自分も参考にしようと色々目を通していたのだけれど、なんかゼノブレイドでも似たような事を書いた記憶があるのだけれど、、
何を言っているのかサッパリわからん\(^o^)/
ポケモン育成に関するテクニカルタームの羅列は新参者のオッサンの目を白黒させるには余りあるパワーで、何がどうなってどうして強いの?と徹頭徹尾意味がわからず、「めざパ氷」が「めざめるパワー氷」であることを理解したのは育成論を読み始めて3日後のこと。めざめるパワーってろくな威力のない技だという印象しかなかったけど、育成高レベルではかなり重要な技だったのね。
技の名前を短縮するのも門外漢には独特で、「蜻蛉」が「とんぼがえり」という技だと理解するのもしばらくかかりました。実は長いこと「かげろう」と勘違いしていて、はて?かげろうなんて技あったかいな?と不思議に思っていた次第。
見てギョッとしたのが「マッパで抜けます」というフレーズ。え?ポケモン厨の人がギャグだか大真面目だかで言う「ポケモンってむしろ大人向きのゲームだよね」ってそういう意味だったの??マッパがマッハパンチの略だと分かったのはいいのだが、「抜ける」というのがどういう状況のことなのかは未だに分からない。
分からないなりに何となく感じたのは、ポケモンの強化のバリエーションというのは文字通り無限にあって、育成の方法も、どんな相手を想定して育てるか、アタッカーや補助役など、どんな役割を持たせるかによって育て方も大きく変わり、そこを色々と考えるのが醍醐味だろうな。どの育成論も敵との読み合いの中でどうやって自分の愛着のあるポケモンを活躍させるか、それを考えるのが楽しくてしょうがないという思いが伝わってくる。
だがしかし・・・多くの育成論で書かれている「個体値6Vで計算しています」の意味を知った時のワタクシの衝撃は、これ以上ポケモンに深入りしてはいけないと思わせるのに十分だった。強さをある程度遺伝できるとはいえ、育成にハマる人ってホントにこんな宝くじで一等前後賞を当てるような確率に身を投じているのだろうか。
ポケモンの攻略サイトには、ポケモンごとの特徴を生かしてこうやって育てれば強くなるよ!的な育成論が数多くアップされていて、自分も参考にしようと色々目を通していたのだけれど、なんかゼノブレイドでも似たような事を書いた記憶があるのだけれど、、
何を言っているのかサッパリわからん\(^o^)/
ポケモン育成に関するテクニカルタームの羅列は新参者のオッサンの目を白黒させるには余りあるパワーで、何がどうなってどうして強いの?と徹頭徹尾意味がわからず、「めざパ氷」が「めざめるパワー氷」であることを理解したのは育成論を読み始めて3日後のこと。めざめるパワーってろくな威力のない技だという印象しかなかったけど、育成高レベルではかなり重要な技だったのね。
技の名前を短縮するのも門外漢には独特で、「蜻蛉」が「とんぼがえり」という技だと理解するのもしばらくかかりました。実は長いこと「かげろう」と勘違いしていて、はて?かげろうなんて技あったかいな?と不思議に思っていた次第。
見てギョッとしたのが「マッパで抜けます」というフレーズ。え?ポケモン厨の人がギャグだか大真面目だかで言う「ポケモンってむしろ大人向きのゲームだよね」ってそういう意味だったの??マッパがマッハパンチの略だと分かったのはいいのだが、「抜ける」というのがどういう状況のことなのかは未だに分からない。
分からないなりに何となく感じたのは、ポケモンの強化のバリエーションというのは文字通り無限にあって、育成の方法も、どんな相手を想定して育てるか、アタッカーや補助役など、どんな役割を持たせるかによって育て方も大きく変わり、そこを色々と考えるのが醍醐味だろうな。どの育成論も敵との読み合いの中でどうやって自分の愛着のあるポケモンを活躍させるか、それを考えるのが楽しくてしょうがないという思いが伝わってくる。
だがしかし・・・多くの育成論で書かれている「個体値6Vで計算しています」の意味を知った時のワタクシの衝撃は、これ以上ポケモンに深入りしてはいけないと思わせるのに十分だった。強さをある程度遺伝できるとはいえ、育成にハマる人ってホントにこんな宝くじで一等前後賞を当てるような確率に身を投じているのだろうか。