今日も定時ダッシュ -83ページ目

ヌードの夜/愛は惜しみなく奪う

 去年の秋に公開された際に、観よう観ようと思いながら時間に余裕ができたのが日曜の午前中だったので、「朝から石井隆ってのはキツそう」とミックマックを観てしまったのだ。それきり「ヌードの夜」は終わってしまい、ワタクシは自分の迂闊さに涙したものでした。

 しかし神様はちゃーんと迷える子羊を見守ってくださり、救いの手をさしのべてくださるのであります。このたびディレクターズカット版が自分のために上映される運びとなり、ワタクシは万難を排して劇場に出かけることができたのでした。神様ありがとう僕にヌードの夜をくれて。

 で、感想ですが、この映画は何よりも佐藤寛子のボディのド迫力に尽きる。彼女自身のプロポーションの良さはもちろんのこと、石井監督は彼女のヌードに最大のインパクトを持たせるために「ヌードの夜」を作った筈。その他の要素、大竹しのぶや竹中直人の演技や夜の闇の色とそこに浮かぶネオンの不埒さは佐藤寛子の添え物でしかない。個人的には竹中直人が這いずりながら携帯電話を取り戻したその先に、人を殺したばかりの佐藤寛子のハイヒールを履いた脚だけ見えているシーンがゾクゾクするほど大好きなのだけれど、そういった演出的な効果も全部ヒロインの魅力にカウントして良いのだ。

 話は変わりますが、映画というのはテレビと違って、ヒロインの魅力一発で一本もってしまうことがある。原田知世の「時をかける少女」や田中麗奈の「がんばっていきまっしょい」や長澤まさみの「ロボコン」などなど。他にもいくらでもあるのだが、まだ世に出る前の魅力的な少女と、その少女の魅力を何が何でもスクリーンに映してやるんだというオッサンのスケベ心が反応し合ってヒロインのためだけに全てが存在する映画がたまに生まれる。石井隆監督の作品はもともと他の映画よりヒロインの存在感によって成立する特徴があるけれど、今回の佐藤寛子は自分としては前作(というのか?)の「ヌードの夜」の余貴美子に次ぐインパクトがありました。

 個人的にはオールヌードのシーンよりもポールダンスのシーンのほうが扇情的でございまし・・あ、竹中直人とのローションプレイは別格で。最後のほうはエロというよりひたすら壮絶で、薄幸そうな顔立ちと相まって彼女の姿に魅入られたようにスクリーンを凝視しておりました。観終わって目も肩もガチガチに疲れましたが、久々に映画をこれでもかと堪能できました。

こんな人にオススメ:とりあえず18歳以上の男は全員観るべきだと思うな。

洋菓子コアンドル

 この映画の予告編で聞き捨てならないセリフが。

 「元伝説のパティシエ」

 こう呼ばれているのは、かつて彼の作るケーキで誰もが幸せになると評判だった江口洋介演じる男なのだが、不幸な事故で心に傷を負って以来ケーキを作らなくなった。だから元伝説のパティシエとのことですが、、、これって昔の評判が今でも語られているということなので、ケーキを作らなくなってからの彼こそが「伝説のパティシエ」と呼べる状態であって、元伝説のパティシエと言うのなら、誰も彼の評判を口にしなくなって忘れ去られた状態を指すんじゃないかと思うのだが・・・違うのか?

 ファイナルファンタジー13の伝説の花火でも思ったのだが、いつから目の前にあるモノを伝説呼ばわりする世の中になったのだ。花火ならまだ罪はないが、第一線にいる腕のいい職人を前に伝説呼ばわりするのは失礼ではないのか、この映画の脚本は深川監督自身の手によるものだそうだが、この人は、例えば鈴木清順監督に向かって「あなたは伝説の監督です」などと暗にロートル扱いの言葉が平気で吐ける人なのか。そうかそうかそうですか。

 どーせこの程度の感覚だもん。内容も大したモンじゃねーよと思いつつ観たのだが、案に相違して割と面白かった。ヒロインがかなり癖のある性格で、蒼井優はこの癖のある役を変に口当たり良くせずに真正面から演じているので、女性の観客の中には反感を感じる人もいるかもしれない。ただ、こういう都会的でない直情径行さが周りを動かしていくというのも真理ではないかと思う。

 キッカケは彼氏を追いかけての上京だったが、そこでケーキに魅せられて職人の世界に飛び込むあたり、確かにそういう思い切りの良さが女にはある。祖母がヒロインに「居場所を見つけなさい」と言っていたが、確かに社会に出る目的というのは金より自己実現よりまずソレだよなあ、と深く納得できるお言葉でありました。

こんな人にオススメ:関係ないけど日本のケーキは世界一のレベルなんじゃないかと思うのですが。

FF13 監督について

 先ずはゲームを離れて映画について思っている事なぞを。

 映画における監督の役割とは何か?というのをかなり長い間考えていました。きっかけは椎名桜子が自著の映画を監督したという、自分にとってかなりショッキングな出来事があった頃からなので、かれこれ20年くらい前からであります。

 映画というものは、脚本、キャスト、カメラ、音楽、ライト、編集、衣装・・などなど、それはそれは色々な要素で構成されており、各要素にはプロとして才能のある人が携わっている。各人が十分に力を発揮したならば、何も監督がいなくたって映画は出来上がるんじゃないかと、そんなことをえんえんと考えておりました。監督と言ったところで役者より演技が上手い訳でなし、各パートのプロのフィールドにおいては彼らよりも大抵は劣るんでしょう?

 けれども、名匠による作品が必ず名作という訳ではないけれど、つまらない映画ばかり撮る監督の映画はやっぱりつまらない。ヤン・デ・ボン(スピード以外)とか堤幸彦(この人でなんか面白いのあった?)とか。

 映画の各要素にはそれぞれのプロがいるが、映画を映画たらしめているのは監督の力である。じゃあその力とは何ぞや、というのが見えたのは那須監督の「デビルマン」だった。

 あまりにも不評すぎて実はデビルマンを見ていないのだけれど、あの不評の嵐、それこそ原作ファンがデーモンと化したかのような非難囂々の中、当の那須監督が亡くなられるという事態に、「たとえ凄腕のスタッフを抱えていても、監督として自分の観るビジョンにスタッフを従えなければ宝の持ち腐れなのだ」と思い至った。当時の那須監督にとっては、映画をきっちりと造り上げる気力がなかったのではないかと思う。

 監督は映画を作る前からカメラマンよりも具体的な絵が見えているか、役者はどんな衣装を着て、どんな調子でセリフを喋るのか、その時の天気は晴れなのか雨なのか、どの時点で場面が切り替わるのか、BGMはどのタイミングで鳴るのか、映画の全編において全ての要素をイメージできないのなら、各パートのプロに向かって的確な指示は出せないだろう。

 そして、本当に惜しくも去年に亡くなられた今敏監督のブログを読んで、やっぱり映画は監督のものなのだと確信するに至った。今監督は次回作の行く末について、自分があらゆるイメージソースを抱えており、それを抱えたまま死んでいくことに対してスタッフに詫びている。所詮観客の一人にしか過ぎない私ですら、監督の無念に胸が締め付けられる思いだが、だが、だからこそ今敏は監督だったのだ。自分の志した映画は自分にしか見えない。映画に対して全てのイメージを見通しているなら、脚本やイメージイラスト程度で自分の思いの全てが伝わったなどと、口が裂けても言えないだろう。

 監督は監督の責任において、たとえそれがエゴであっても頭の中に存在する映画をスタッフに押し付けて、彼らを従える必要がある。それが出来ないのなら、例えば役者に対して「自由に演技してください」としか言えない者はそもそも監督である意味がないのだ。

 ということを思っている次第であります。

FF13に空が無い

 ほんとうの空は阿多多羅山の山の上に・・・はさておき。

 キャラの表情の緻密な動きと同じくらいチェックしているのがFF13の空。普段はキャラを微妙に見下ろすカメラなのでフレーム内に空はあまり入らないのだが、時折立ち止まってカメラをグリグリ動かしては、空の様子はどんなもんかと覗いてみる。

 ゲームプレイ開始から5章の現在、これまでずーーーーっとどんよりした雲に覆われているの巻。

 とにかくずっと薄汚い灰色の雲が空を覆っており、なぜか少しだけ星が透けて見えたりする。コクーンは楽園といいながら、えらいこと辛気くさい楽園だこと。

 夜には星空が、朝には朝日が、晴れも曇りもあるだろうコクーンが、なにゆえライトニング一行の行く先々では曇天ばかりなのか。それは何故かと尋ねたら、ディレクターの人は「こんな空を指定した覚えは無い」と言うかもしれない。けれどもグラフィッカーの人は「ストーリーには昼も夜も指定されてねーんだから描きようがねーじゃねーかボケ」とキレ気味に返してきそうな気がする。

 だんだんFF13に対する違和感が掴めて来たのだが、おそらくその大元にあるだろう、このゲームのディレクターがインタビューで言った「ストーリードリブン」なるものについて考えてみたいと思います。

FF13 一本道

 そもそもRPGってのは大概決められたシナリオ通りに決められた街や洞窟を行ったり来たりする一本道じゃーん。と思っていたのですが、これがシナリオの話ではなくホントに一筋の道をえんえんと進んでいくというマップだとは思わなかった。しかし、はじめは確かに面食らったものの、しばらくゲームを進めると「これもアリだわ」と思えてきた。

 これはまあ、自分がいい年こいたオッサンだというのもあるかもしれない。分かれ道でどちらか選んで、行き止まりだったら引き返すことも面倒だし、正解の道ならそれはそれで「もしかして別の道には貴重なアイテムがあるのでは?」と、結局全部回る羽目になるのもやっぱり面倒くさい。マップで遊ばせる気がないのなら、道一本というのも返って清々しい。後半で広い場所に出るみたいですが。

 ゲームプレイとしては特に文句はないのだけれど、それでもやっぱりRPGとしてFF13の一本道はダメだと思う。現在4章の途中ですが、それまで何か足りないと思いながらもその原因が分からなかったが、ライトニングさんが上空に浮かぶファルシ=エデンを見上げた時にようやく分かった。

 RPGを、そのゲームの世界をどう見せるかで二分すると、ドラクエのようにフィールドを鳥瞰させてプレーヤーが徐々にその世界の全てを取り込んで行くものと、ウィザードリィのように世界と切り離された状況で先に進むことだけを目的としたものとがある。これは、世界とつながる一体感を楽しませるか、世界と切り離される孤独感を楽しませるかの違いとも言える。FF13で感じたアンバランスさは、キャラクターのセリフは完全に世界観をプレーヤーと共有させようとしているのに、肝心のムービーやゲームプレイからはこの世界が一体どのように出来上がっているのかサッパリ分からないチグハグさが原因だと思う。

 FF13は、下界の上にコクーンがあり、その上にエデンが浮かんでいるという3層構造になっているハズ。セリフではやたらとパルスだファルシだ聖府だとスケールの大きい事を言っていてもビジュアルで世界を見せることを放棄している。コクーンは球体なのか円盤状なのか、エデンはコクーンのどこからでも見えるものなのか、一本道マップを選んだのなら代わりにそういう情報をビジュアルでキッチリ入れていかないと「俺今どこで何やってんの?」という状態になってしまう。

 そうはいってもまだ4章。今はまだ敢えて世界全体を見せていない可能性がある。いや、ワザと見せてないのだったら脚本もそれなりに専門用語を隠すだろうし、ライトニングさんが「エデンに行く!」というセリフに合わせて都合良くエデンが頭上を飛んでいるなんて不自然極まりない見せ方はしないだろう。これはきっとムービーや戦闘や脚本などの各パートをつなぐ役割の人間が全然仕事をしなかったのが原因だと思う。