今日も定時ダッシュ -82ページ目

FF13 11章

 さあ、やってきました11章!これまでは数十時間のチュートリアル!!全キャラ全ロールが解放されてメンバー入れ替え放題オプティマ組み放題の酒池肉林(←?)!!!いくぜ!俺のFF13は今始まったばかりだオーイェー!!!!

 と、喜び勇んで大平原に突入したのですが。それこそキャラではなくプレーヤーのワタクシが鬨の声を上げんばかりの勢いで。

 けれども、大平原が広過ぎて、どこ行きゃいいか わ~か~ら~な~い~~~

 敵が全部強過ぎて どのモンスター相手にも戦闘が で~き~な~い~~

 結局ミッションいっこクリアしただけで、さっさと次の目的地に移動。いやー落ち着くわ、一本道。まあ自分のレベルが上げれば、きっとまた大平原に来る事になるのでしょう。

 それでも平原を(モンスターにビビりながらも)自由に歩いていると、ようやく長いトンネルを抜けた!という開放感が味わえて、これまでのゲーム性とは全く違うのが分かる。何よりも、空にはコクーンが月のように浮かんでいて、平原には定期的に霧につつまれて、大地には所々にかつて隆盛した文明の名残が朽ち果てている。そこを駆け回る沢山のモンスター達。そうそう。自分が前からFFには空が無いだのエデンが唐突にライトニングの頭上に現れたとかで難癖つけてたのは、11章みたいに世界を表現して欲しかったのよ。パルスからコクーンがああやって見えているのなら、コクーンからだってパルスがどう見えるか描写して欲しかったのよ。コクーンで足りないのは他にも山ほどあるんだけどさ。

 あくまで個人的な感想なのですが、「11章は神」という言葉の裏には、ゲームとして面白くなるというより、プレーヤーが期待していたファイナル・ファンタジーの世界の大きさがゲームからようやく感じられたことが大きいのではないかと思う。戦闘としてはむしろ逃げ回ってばっかりでストレスが貯まるったらありゃしない。

 そしてこれも個人的な感想なのだけれど、廃墟の中に現代の信号機があったということは、パルスとコクーンは未来の地球と月の姿ということなんでしょうか?なんとなく「猿の惑星」のオチのようで、それはそれで心躍る設定であります。

FF13 バルトアンデルス

 冬も終わろうというこの時点でインフルエンザを拾ってしまい、丸二日寝たきりになっておりました。熱に浮かされて朦朧とした意識の中、他にすることもないのでワタクシはえんえんと

 対バルトアンデルスのオプティマ編成を考えておりました・・・

 やっぱり今回のFFの戦闘は楽しい。4章あたりから難易度をイージーからノーマルに変えて遊んでいるのだが、戦況に合わせてオプティマを切り替える作業が思いのほか「ゲームを楽しんでいる感じ」を演出していて、HPがヤバいけどもうすぐブレイクしそうだから攻撃メインで行こう、とか、ロールを組み替えて新しいオプティマを試したら、苦戦していた的にアッサリ勝てたとか、雑魚との戦闘でも色々と頭を使う。

 9章の終わりのバルトアンデルス(とてもオストアンデルを思い出すオッサンなワタクシ)戦では、バトルメンバーを色々と変えながら、ということはオプティマもいちいち組み替えながら、なかなか倒せずに難儀しておりました(その最中にインフル罹患)が、寝ている最中に思いついた「ライトニング+ファング+ヴァニラの攻撃メインで邪魔少々」でどうだ!と試したところ、これがこれまでの苦労をぶっ飛ばすほど気持ちよくバルトアンデルスに刺さって快勝できました。ああ、スッキリ。

 しかし、この難易度では戦闘が難しくて挫折してしまったという人も多いのではないかと思う。FFというとムービーとシナリオというイメージがあって、それを揶揄して紙芝居とする表現もあるのだけれど、自分がプレイしてみる限りゲーム部分にもしっかりと歯ごたえがあって、殊FF13に限って言えば、これまでの紙芝居を予想すると返り討ちに会うだろうなーと思う。自分も前知識なく始めたら挫折していたかもしれない。

ヒア アフター

 今作に限らず、死んだらどうなる?という問いは古今東西、それこそ人類の歴史とともにあるものだけれど、死んでからどうなるかは死ねば分かる事なので、何も生きているうちに思い悩む事ではない、というのがワタクシの持論であります。

 宗教が宗教であるのは、死後の世界を想定している為だが、間違えてはいけないのは死後の世界を想定する目的は現世をまっとうに生きることにある。来世の幸福のために現世を否定する行為は、たとえそれが立派な宗教の教えであっても全部インチキと決めている。そう思っている自分にとって、死後の世界を扱いながらも、あくまで現世を精一杯生きて行こうとする人間を描いた「ヒア アフター」はとても真っ当な感性の映画だと思いました。

 映画が始まってすぐの津波のシーンが物凄い迫力で、その容赦ない水流の描写や、そこで一端死にかけた時のヒロインの表情、そして息を吹き返した向こうで船が炎上するカットまで流れるように畳み掛ける。視覚的に一番刺激的なシーンを初っ端に持ってきたのは、これはいわゆる「つかみ」ではなくイーストウッド流の「型破り」なのだと思う。例えば宮崎駿が「天空の城ラピュタ」で要塞の攻防を物語の中盤に持って来る感覚と近いのではないかと。

 この映画の中で、マット・デイモンは2通の手紙を書いている。1通目は兄に向けて、2通目は津波で奇跡的に生還したヒロインに宛てて。ここで重要なのは、1通目の手紙はマット・デイモンのモノローグによって内容が語られるが、2通目の内容は一切語られない事だ。演出として言わなくてもいい事を言わずに済ませたというのなら、この2通の手紙のどちらの内容を省けるかといったら明らかに1通目である。この映画のラストシーンで、自分は「え?そういう映画だったの?」と拍子抜けしたクチなのだが、その唐突さは2通目の手紙の内容を語らなかっからで、それは何故かと考えると、イーストウッドはこの時点でストーリーを言葉にする事を止めたからだと思う。

 マット・デイモンが2通目の手紙に何を書いたか、それはもう「全てを書いた」としか言いようが無い。あれほど人に触れることを避けたデイモンが全く躊躇わずに手袋を外して握手を交わしたのは、全てを知らせた上で現れたヒロインに隠す事など何もなかったからだ。そしてラストシーンでセリフがほとんど無くなってしまったのは言葉が邪魔だったからだ。おそらく、ストーリーに惑わされずに素直に映像を観てセリフを聞いていれば、このラストは至極当然の終わり方だと感じたのではないかと思う。

こんな人にオススメ:理解しようとするんじゃない、感じるんだ。

FF13 ストーリードリブンについて

 2010年のGDC(ゲーム開発者の講演会)にて、FF13でディレクターを務めた鳥山求氏が講演した内容につきまして。現世代のゲーム機において最高峰のムービーが期待されている中、どのようにFF13が作られたか、その手法の長所、短所について述べられてます。

 シナリオありきで作業することの是非はさておき、ゲームを作る上で、ものすごく高いハードルを設けていることは分かる。だが、その結果がFF13というのは、やっぱりどこか間違ってるんじゃないかと思う。

 ただいま9章をプレイ中ですが、これまでの感想は「思っていたよりもずっと面白い」という感じ。ムービーはPS3から質を落としたに違いないXbox360でも十分に美しく、オプティマを組むあたりから戦闘が俄然楽しくなってきたのも予想外で、シナリオについてはダメな部分は確かにダメだけど、キャラクターの心の動きを細やかに表現している点は、他のゲームにはない長所だと思う。ムービー良し、戦闘良し、シナリオ(まあまあ)良し、と要素ごとに分ければそれぞれ評価できる部分が多いのに、じゃあゲームとしてどうだと聞かれると素直に面白いと言いにくい。自分の感覚ではFF13は良い意味も含んでとても歪なゲームだ。

 FF13の最大の欠点と思えるのが、ゲームを構成する各要素が全然繋がっていない事で、ムービーは奇麗だけど表現している内容はキャラクターの会話シーンばかりで、雑魚との戦闘も楽しいのだが何故戦っているか、どこに向かっているかがプレーヤーとして実感できない。これはストーリードリブンの弊害ではなく、ゲーム制作の背骨としたシナリオ自体が不完全だったことが原因ではないかと思う。

 普通のゲーム制作ではトライ&リビルドで質を上げているところを、後戻りできない開発体制を取ったのなら、シナリオが完成した時点で、そのシナリオは一般的なシナリオ以上の、ゲームの全ての要素を盛り込んだものであるべきだ。今敏監督の言葉ではないが、シナリオが完成した時点で鳥山氏がゲームを作れなくなったとしても、自分の頭にある完成図と同じものが他のスタッフで作れるだけの設計図が出せたのか。

 このインタビューを読むと、ビジョンの非共有という言葉で各制作パートとの連携のマズさを振り返っているが、ビジョンの共有はシナリオでこそ成されなければいけなかった筈だ。しかもその共有化のムービーってのがこれまた雰囲気だけはたっぷりのアバウトな奴で、これじゃあ「予告編とシナリオは用意したから、あとはちゃんと完成させといて」ってどんな監督だコイツは。椎名桜子だってもうちょっとマシな仕事してたんじゃねーの?

 ストーリードリブンというからには、シナリオにないことはスタッフは一切制作できない。そんなことは自明の理であるのに、どうも鳥山氏はその覚悟がないというのか、FF13の出来栄えに「どうしてこうなった?」などと愚痴るあたり、もしかしてストーリードリブンと言いながら、各スタッフにはシナリオ以上の働きを要求していたフシがある。なんとまあ自分の責任を部下に押し付けようとド厚かましい。これらのインタビューは、自分の仕事の不備を「ボクの脳内に入ってこないスタッフが悪い」と言い訳しているように見える。
 

FF13 脚本について

 なんか偉そうなタイトルですが、監督のお仕事とは何ぞやという疑問と合わせて考えていたことにつきまして。

 監督の仕事が映画の目に見えない部分を受け持つものだとしたら、脚本は映画の目に見える部分を受け持つ最大の要素ではないかと思う。この場合の脚本はストーリーと置き換えてもいいのだけれど。

 観客は案外画面を観ていないもので、スクリーンに何が映ったかよりも、どのようなストーリーが流れていたかを耳で聞いたり字幕で読んだりしているほうが多いものだ。世にあるプロ・アマ問わず、どれほど多くの人達が映画の感想=ストーリーの善し悪ししか語っていない事か(ワタクシも人のことを言えた資格はありませんが)。で、そういう輩ってのはストーリーさえ好みならば全編バストショットによる会話シーンの切り返しだけの画面でも傑作と言って憚らないし、ストーリーが理解できないと他がどうあれ「意味わかんないクソ映画」と平気で言うのだ。

 ストーリーは映画の非常に重要な要素であるが、おそらく監督が実際にやっている事は、脚本をどう忠実に映像にするかではなく、自分が見せたい映像のためにどうやって脚本を端折るかではないかと思っている。

 映画のためにストーリーがあるのか、ストーリーのために映画があるのか。こう問われればほとんどの人が前者だと答えるだろうが案外後者の視点に立っていることが多いし、実際映画を映像や音声で解釈するのは、ストーリーを解釈するより遥かにリテラシーが必要な作業である。

 だから観客がスクリーンに映されたものをロクに見もせずに、ストーリーを評価して終わってしまうのはしょうがないけど(重ねて言いますが、ワタクシも人のことを言えた資格はありませんので)、それが製作側に起こってしまうとどんな悲劇が起こるかというのは、FF13はとてもそのサンプルに相応しいケースではないかと思う。