今日も定時ダッシュ -64ページ目

タイムトラベラーズ 2周目

 つつがなくエンディングを迎るも、振り返って物語を反芻すると色々辻褄の合わないところもありました。それらの気になるポイントはおそらく製作者側はテキトーに場面を用意したのではなく、一見矛盾しているように見せかけて実は緻密な構成の元に、プレーヤーを引っ掛けるために用意したと思われる。そうでなければ何のタイムトラベル物であろうか。

 特にオープニングの、2013年のシリンダーラボの事故のシーンから引っ掛けが施されており、エンディングを終えると「なぜあの時点でアイツとアイツがこうなってんだ?」と俄然気になってきた。ただ、オープニングはチャートには含まれていないので、これを見るためには新しくゲームを始めなければいけない。タイムトラベラーズは2つセーブが持てるので別に問題はないのだが、うっかりクリアデータに新規セーブを上書きしてしまいましたーーー(笑)。

 ということで、現在2周目でございます。細かい伏線をしっかり把握するには、チャートを流して見るよりも一からやり直したほうが理解しやすいので、まあいいのですが(負け惜しみ)。

 ただまあ・・・物語を一からやり直してみたところで、やっぱり謎は謎のままなので、そのあたりをツラツラ書いていこうかと思います。

タイムトラベラーズ

 5人の人物のそれぞれの物語がいつしか一つになり、東京消滅の危機に命をかけて立ち向かう。「街」「428」に続く、石井次郎氏がディレクションを務めた群像アドベンチャーゲームです。

 「428」をプレイしてとても面白かった記憶があったので「タイムトラベラーズ」にも期待していたのだが、中盤あたりまでストーリーに乗れず、なんとなくアテが外れたような感じでした。それで「428」について色々思い出したのだが、そういえばアレも中盤あたりまでは結構ダレていた。それが、着ぐるみのタマの正体が分かった辺りで俄然ストーリーに引き込まれだしたことを思い出した。

 これらのゲームのフォーマットは、一本のストーリーを複数の主人公で追いかけるという性質上、どうしても序盤は各キャラの紹介だったり、何が起こっているのか良くわからない中で、ただただストーリーを眺めているという感じになってしまう。「タイムトラベラーズ」も、中盤に起こる事件で登場人物がシリンダーラボに集まりだすまでは、いまひとつ乗れない中でひたすらストーリーを進めていくような感じでしたが、そこから先の怒濤の展開はとても面白かったです。

 公式サイトには、このゲームを「プレイングシネマ」と銘打ってあります。がしかし、おそらく誰も気にしちゃいないだろうがどうしても自分は気になってしまうので難癖的に書いてしまうのだが、シネマとドラマは違うよ!「タイムトラベラーズ」はとても優れたドラマだと思うので、なおさら映画に模せずとも堂々とドラマを名乗れば良いのにと思ってしまう。

 ドラマを盛り上げるという意味では、どうしても「428」の実写のほうが登場人物の表情も豊かだしリアリズムも生まれやすいのだが、今作のCGも、CGなりに人物の表情がとても良かった。一番効果的だったのがマンガ的に表情にメリハリがつけられるルサンチ☆マンだったのは仕方ないが、他のキャラもストーリーに合わせてしっかりと表情を含めた演技をしています。ただし、性格設定が既に無表情というキャラも多いので、そこはちょっとCG製作上の都合かもしれない。

 「タイムトラベラーズ」というタイトルは、30年以上前のSFブームの時ならいざ知らず、今の世の中に出すゲームのタイトルとしては野暮ったさすら感じてしまう。ただ、その野暮ったさこそ自分が一番惹かれた部分でもあり、ラストの展開はタイムトラベル物の王道中の王道だったので、やっぱりこれは狙った上でのタイトルなのだろう。SFというと理論で固めたロジカル的なイメージがあるけれど、SFの詩人たるレイ・ブラッドベリの名前を出すまでもなく、優れたSFは理論で固めた上で感情に訴えるようなリリカルな作品が多い。「タイムトラベラーズ」も、そんなSFの流れの中の一遍として、是非味わって欲しい物語だと思いました。

劇場版ポケットモンスター ベストウィッシュ キュレムVS聖剣士ケルディオ

 今回も長いタイトルだ。

 言わずと知れたポケモン映画の最新作。今年の夏も、ブラック・ホワイトの続編や幻ポケモンのダウンロードを引っさげてやってきました。今年で映画15周年ということで、今回はそれを記念とする大作だそうです。しかしどこらへんが15周年を意識したかは不明。

 結論から先に申しますと、これまでのシリーズを全て観た訳ではないが、個人的にはこれまでで一番面白かったポケモン映画でした。もちろん、この映画を面白がるためにはゲームをプレイしていることは必須なのですが、その上で映画を観ると、モブシーン的に出て来るポケモンたちの生き生きとした動きに感涙モノです。

 そして何より素晴らしいのは、ストーリーをスッパリと捨てたことだ。映画としてストーリーを語るならば、ケルディオが聖剣士の見習いとなるシーンが最初にあって、ケルディオが修行する中でキュレムの存在が少しずつ明らかになるという流れになると思う。しかし映画ではそれをせずに、キュレムの圧倒的な強さに怖じ気づいて逃げ出してしまうケルディオの姿をオープニングに描いており、映画の構成としては、起承転結の転→結だけで成り立っている。そもそも何故ケルディオがキュレムに戦いを挑んだのか、どうしてキュレムに聖剣士の挑戦を受ける必要があるのか、最後までハッキリと示されない。

 そのかわり、見所となるポケモンのバトルシーンは余さず描いている。自分が映画の大スクリーンで観たいのはまさにソレで、見せ場のための理由付けのストーリーの善し悪しではないのだ。こうして、今回の映画はまさに「最初から最後までクライマックス」的な面白さになっていました。

 ケルディオ役の中川翔子が、しっかり男の子の声で役をあてていて良かった。「塔の上のラプンツェル」のお姫様役も上手かったが、なかなか芸達者な人であります。

 ポケモン映画は、まかりまちがってもクレヨンしんちゃんの「オトナ帝国の逆襲」のような、本来の観客を超えて一般の大人の心に刺さるような映画は出てこないだろうと思う。でもまあ、それでいいのだ。ポケモンは子供達と一部の大きなお友達のためのもので、映画もその枠の中にある。今回のような思い切った構成は二度とないかもしれないが、そういう意味での15周年記念だったのかもしれない。

 そして・・・ゲノセクトさんはケルディオに15周年の花を持たせるために、自ら犠牲になったのだw

ヘルタースケルター

 岡崎京子氏の原作はかなり以前に読んだ。wikiを見ると2003年とのことだが、連載は1996年とのこと。岡崎氏が交通事故に遭ってしまったため、単行本化に際してかなりの間が空いてしまった。

 ヘルタースケルターとからめて1996年がどんな頃だったかと思い出すと、これまで後ろ暗いイメージだった整形が表に出て来た頃だったのではないかと思う。当時、モーニング娘。が登場した浅草橋ヤング洋品店(asayanと言うべきか?)で、整形をした女の子が、ビデオ撮りした整形前の自分と語り合うというSFみたいな企画があった。岡崎氏は、当時の整形のイメージが変わるとともに噴き出てきた、女性の「もっと奇麗になりたい」という欲望と危うさを感じ取って作品にしたのではないかと思う。

 なので、単行本で読んだ時に、整形と女の欲望というテーマに若干の古さを感じたのを覚えている。今ではさらに整形にまつわるタブーな感じも薄れて、例えば芸能人が整形していたところで、特に話題になるようなインパクトも無くなった。昔は松田聖子が二重にしただけで大騒動だったものよ。ただし、整形に対するオープンなイメージと比例して、「かわいくなりたい」「奇麗であらねば」という女性の欲望というか、「かわいくなりなさい」「奇麗でいなさい」というマスコミのメッセージは、当時と比べてものすごく強く発せられるようになってきた。痩せなさい、このメイクをしなさい、付けまつげをつけなさい、四十代でも若々しくいなさい、などなど、女達は休む間もなく追い立てられている。最近は男も・・それも結構なオッサンでも追い立てられるようになってきた。

 整形に失敗して全身が崩れる話としては今更な感じがありつつ、奇麗でいなければいけないという強迫観念の強さは年を追うごとに生々しくなっている。そういう意味で、「ヘルタースケルター」は今日語られるべきテーマを備えていると思う。

 沢尻エリカは二十歳あたりの可愛らしさは神がかっていて、自分は「sinobi」や「間宮兄弟」を見て彼女に吸い込まれるように魅入られていたのだが、歌を歌い出した頃から「ああ、このヒトは平凡な男の望む通りに愛想を振りまくようなタマではない」と感じ、彼女に対する熱は一気に冷めた。かわいらしさを差っ引いても同世代の中では演技が上手く、彼女に興味を失ったとはいえ、ある意味彼女のポテンシャルを高く買っていたのだが、3DOでクソゲーを連発していた高城剛とデキていた、という時点で彼女の底の浅さも知れたような気がした。

 それでも「ヘルタースケルター」での沢尻エリカはスゴかった。ここ数年のゴタゴタの原因の何割かは彼女自信に因るものなのだろうが、りりこを通して、彼女自信のままならなさもオーバーラップしていそうで。ヌードシーンも含めて、人間が精神的に壊れていくという役を凄まじい迫力で演じられたのは、やっぱり彼女に上等な役者魂が備わっているからだと思う。どうもこのヒトは系統的にカツシンやショーケンに連なる役者バカなのではないかと思う。こういうヒトは往々にして芸よりも私生活のほうが面白かったりするのだ。先達にならってジリエリとか呼ばれないだろうか。

 彼女がここまで根性を見せて、他の役者もキッチリ良い仕事をしているのに、蜷川実花監督が役者の見せ場を次々に潰している。なんだこれは?よく言われるようにムービーではなくフォトで撮っていると言われれば確かにその通りなのだが、なんかもっと根源的な問題なような気がする。モデルがライトを浴びて様々な表情を作るシーンはこの手のシーンの定石的な撮り方で、ありていに言えば通俗的である。渋谷駅前の交差点の早回しって、いつの時代のセンスよコレ。沢尻エリカが表紙を飾った雑誌をスクリーンいっぱいに敷き詰めるシーンも、ニュースやバラエティならOKだが映画としてどうなのか。まあこのシーンは自分が撮った写真を見せたかったのかもしれんが。あと、なんじゃあの大森南朋の臭いセリフのオンパレードは。コーヒー飲んで「漆黒の深淵が・・・(←詳しいセリフは忘れた)」などとホザく男にマトモな仕事ができるものか。

 ただし、蜷川実花でなかったら、男の監督がこの映画を撮ったとしたら、沢尻エリカが景気良く脱がなかったかもしれず。まあ沢尻エリカを堪能する意味ではこのヒトが監督で良かったのかもしれない。


グスコーブドリの伝記

 杉井ギサブロー監督の、「銀河鉄道の夜」に続く宮沢賢治原作の映画化第二弾!!といっても第一弾が1985年のことなので、今更シリーズって言ってもねえ・・・。しかし当時自分は15歳だったのだなあ・・・ああ(詠嘆)

 ちなみに、この映画版「銀河鉄道の夜」のインパクトが強過ぎて、自分の宮沢賢治観は「二本足の猫が出て来る話を書く人」という完全に誤った認識の上に成り立っている。これはもう、「グラン・トリノ」を劇場で見ていてもクリント・イーストウッドの声が山田康雄で再生されてしまうのと同じくらい、間違いに基づいた確固たる感性の発露というやつである。

 そしてこの30年ぶりのますむらひろしキャラによる宮沢賢治作品の映画化ですが・・・、個人的には全編がグスコーブドリの視線や空想に寄り添った映像は大当たりでした。が、宮沢賢治の原作を結構変えていて、ストーリーを手がかりに映画を見てしまうとラストがワケわからん、と言い出す人も結構いるだろうと思う。普段は「ストーリー追うよりも目の穴かっぽじいて映像を見るべし」と主張する自分も、この映画に限り原作との違いを嘆く人の気持ちも分かる。

 しかしそれよりもキャラクターの動作の細かさ、背景の美しさや幻想的なイメージなどの丁寧なアニメ描写だけで満足でありました。小栗旬の声優ぶりも良かったです。

 しかし不満が一点。ラストで火山が噴火するシーンのアレは一体なんだったんだ?素人目にはあの唐突さは編集ミスのように見えるのだが・・・。マジで上映事故だと思ってしまった。