ヘルタースケルター | 今日も定時ダッシュ

ヘルタースケルター

 岡崎京子氏の原作はかなり以前に読んだ。wikiを見ると2003年とのことだが、連載は1996年とのこと。岡崎氏が交通事故に遭ってしまったため、単行本化に際してかなりの間が空いてしまった。

 ヘルタースケルターとからめて1996年がどんな頃だったかと思い出すと、これまで後ろ暗いイメージだった整形が表に出て来た頃だったのではないかと思う。当時、モーニング娘。が登場した浅草橋ヤング洋品店(asayanと言うべきか?)で、整形をした女の子が、ビデオ撮りした整形前の自分と語り合うというSFみたいな企画があった。岡崎氏は、当時の整形のイメージが変わるとともに噴き出てきた、女性の「もっと奇麗になりたい」という欲望と危うさを感じ取って作品にしたのではないかと思う。

 なので、単行本で読んだ時に、整形と女の欲望というテーマに若干の古さを感じたのを覚えている。今ではさらに整形にまつわるタブーな感じも薄れて、例えば芸能人が整形していたところで、特に話題になるようなインパクトも無くなった。昔は松田聖子が二重にしただけで大騒動だったものよ。ただし、整形に対するオープンなイメージと比例して、「かわいくなりたい」「奇麗であらねば」という女性の欲望というか、「かわいくなりなさい」「奇麗でいなさい」というマスコミのメッセージは、当時と比べてものすごく強く発せられるようになってきた。痩せなさい、このメイクをしなさい、付けまつげをつけなさい、四十代でも若々しくいなさい、などなど、女達は休む間もなく追い立てられている。最近は男も・・それも結構なオッサンでも追い立てられるようになってきた。

 整形に失敗して全身が崩れる話としては今更な感じがありつつ、奇麗でいなければいけないという強迫観念の強さは年を追うごとに生々しくなっている。そういう意味で、「ヘルタースケルター」は今日語られるべきテーマを備えていると思う。

 沢尻エリカは二十歳あたりの可愛らしさは神がかっていて、自分は「sinobi」や「間宮兄弟」を見て彼女に吸い込まれるように魅入られていたのだが、歌を歌い出した頃から「ああ、このヒトは平凡な男の望む通りに愛想を振りまくようなタマではない」と感じ、彼女に対する熱は一気に冷めた。かわいらしさを差っ引いても同世代の中では演技が上手く、彼女に興味を失ったとはいえ、ある意味彼女のポテンシャルを高く買っていたのだが、3DOでクソゲーを連発していた高城剛とデキていた、という時点で彼女の底の浅さも知れたような気がした。

 それでも「ヘルタースケルター」での沢尻エリカはスゴかった。ここ数年のゴタゴタの原因の何割かは彼女自信に因るものなのだろうが、りりこを通して、彼女自信のままならなさもオーバーラップしていそうで。ヌードシーンも含めて、人間が精神的に壊れていくという役を凄まじい迫力で演じられたのは、やっぱり彼女に上等な役者魂が備わっているからだと思う。どうもこのヒトは系統的にカツシンやショーケンに連なる役者バカなのではないかと思う。こういうヒトは往々にして芸よりも私生活のほうが面白かったりするのだ。先達にならってジリエリとか呼ばれないだろうか。

 彼女がここまで根性を見せて、他の役者もキッチリ良い仕事をしているのに、蜷川実花監督が役者の見せ場を次々に潰している。なんだこれは?よく言われるようにムービーではなくフォトで撮っていると言われれば確かにその通りなのだが、なんかもっと根源的な問題なような気がする。モデルがライトを浴びて様々な表情を作るシーンはこの手のシーンの定石的な撮り方で、ありていに言えば通俗的である。渋谷駅前の交差点の早回しって、いつの時代のセンスよコレ。沢尻エリカが表紙を飾った雑誌をスクリーンいっぱいに敷き詰めるシーンも、ニュースやバラエティならOKだが映画としてどうなのか。まあこのシーンは自分が撮った写真を見せたかったのかもしれんが。あと、なんじゃあの大森南朋の臭いセリフのオンパレードは。コーヒー飲んで「漆黒の深淵が・・・(←詳しいセリフは忘れた)」などとホザく男にマトモな仕事ができるものか。

 ただし、蜷川実花でなかったら、男の監督がこの映画を撮ったとしたら、沢尻エリカが景気良く脱がなかったかもしれず。まあ沢尻エリカを堪能する意味ではこのヒトが監督で良かったのかもしれない。