今日も定時ダッシュ -22ページ目

ソロモンの偽証 後編・裁判

 前編の抜群のヒキで間を空けずに公開された後編にバトンタッチ。さあ物語の顛末やいかに?

 ・・・という観点で見てしまうと、ちょっと後編はパンチが弱いような気がする。この話は単純な「真犯人は誰だ!?」という類いのものではなく、事件に関わった登場人物一人一人の思いがストーリーの顛末を超えて読者の胸を打つという、そもそも宮部みゆきはそういう松本清張に似たタイプの作家であり、そういうものは映像よりも文章のほうがずっと伝わりやすい。

 しかも後編は裁判シーンが映画の殆どを占めていて、小説ならともかく、映画としては非常に動きの少ない、面白みの無い絵ヅラを余儀なくされる。そんな映画に向かない後編を、しかし成島監督は登場人物の心情描写の積み重ねで緊張感を維持したまま進めていく。必要以上に人物の単独のアップを撮らず、できるだけカメラを引いて舞台の全体を収めようとする。

 カメラが物語に依らず必要以上に切り替わらないので、会話のシーンでは一方の人物が終始スクリーンに背を向けているというカットがいくつかある。娘を庇う永作博美に主人公の少女が「二人で話したい」というシーン。保健室を追い出される永作博美は主人公に苦々しい表情を向けるのだが、永作博美は終始後ろを向いているので彼女の表情は観客にはハッキリとは示されない。そこで観客は、主人公の少女の思い詰めた顔を見ながら、永作博美が彼女を忌々し気に睨んでいる表情を脳内で補完する。

 裁判の最終日に、洗面台の前で佐々木蔵之介が娘に語りかけるシーンも同じ構造になっている。このシーンでは佐々木蔵之介はこちらを向いているのだけれどピンボケで終始その表情は分からず、洗面台に映るのは彼の後頭部である。ここでも鏡に映る主人公の少女が佐々木蔵之介の思いを受け止める形で映し出されており、観客は彼女の表情を観ながら佐々木蔵之介の心情にも注目する。

 こういう物語と映像のちょっとしたズレが映画全体に散らされていて、色々な人の思惑が一つのシーンから感じられる作りになっている。成島監督は宮部みゆきの持ち味をそういう形で映像にしている。

 物語としては、おそらくはこの事件は飛び降り自殺した少年の病んだ心を周りが受け止め損ねた末の顛末であり、これが大人による裁判だったら、もうこの死人の尊厳を踏みにじる更なる暴行を加え、いかにコイツが死んで当然だったのか、ということを証明してメデタシメデタシになるんじゃないかと思う。しかし彼らはまだ子供で、このガキから受けた傷を不当なものとせず、死んだ少年も邪悪な存在にせず、それでもこの先を強く生きていこうという大団円を迎える。宮部みゆきは、もしかして誰も裁かない裁判というものを描くために子供をメインに据えたのかもしれない。

横隔膜とエイジング

 姿勢が悪いのが日本社会を支えているという、かなりアサッテな方へ話が与太与太と流れて行きましたが、要は人間は正しい姿勢をキープするよりも目の前の仕事や雑事をこなすほうがずっと大切で、おそらく人体というのは姿勢が悪くなることの害を受容しても作業のための動作を優先させるのだろう、ということを言いたいのでありました。

 じゃあそれでいいじゃない、と思わないでもない。若くてエネルギッシュな頃にがんばって働いて、年とったら腰が曲がって体の無理が利かなくなって色々な体の不調を抱えながら死を迎える。別に姿勢が悪いだけが老いる原因ではないけれど、人間は太古の昔から世界中で、朝は四本足・昼は二本足・夕方は三本足で姿勢が悪くなることを当然として生きてきたのだ。

 けれども今の日本では、腰が痛いのは脊柱感狭窄、膝が痛いのは半月板損傷、尿の出が悪ければ利尿剤を、血圧が高ければ降圧剤を、と、老いの現象だったものが病気とみなされ「それなら何とかせねば」となってしまった。本人だって日常的に痛みを抱えるのは、それが命に関わるものではなくてもとても辛いことであります。しかも人生下り坂になってもまだまだ元気で働いていなくちゃいけないし、体がガタガタになったり鬱になって「こんな自分に誰がした」と言ったところで誰も貴方の言い分を聞いちゃあくれません。

 年老いて膝が痛くなっても「サプリ飲め」で済まされてしまうこんな世の中じゃ。姿勢が良い事は決して万能薬ではないけれど、結構色々な体の不都合を解消してくれるのも事実であります。特に認識しづらい横隔膜をいかに感じられるようになるか、というのは多分良い姿勢を築くためのラスボスではないかと思う。

横隔膜と日本社会

 肩こりや腰痛にくらべて、横隔膜の衰えはとても気付きにくい。猫背の構造というのは背中の筋肉が過度に伸びて肩が前方に突き出し、胸郭自体が前傾して横隔膜を押しつぶしている状態なのだから、肩こりの痛みと同様のダメージを横隔膜も受けているハズである。

 初老向けの健康情報誌などで「ふくらはぎは第二の心臓」というキャッチフレーズのもと、やれふくらはぎを揉みなさいだのかかとの上下運動(カーフレイズ)をしなさいだのとありますが、横隔膜も血液を心臓に戻す同様の機能があり、ポジション的に考えてふくらはぎよりも横隔膜のほうが遥かに重要だと思われるのに、あまり注目されていない気がする。

 そもそも姿勢というのは大抵の人が良くないことを自覚しつつ皆が問題視せずスルーしてしまう。なぜこうも軽んじてしまうのかというのをシロートの気安さで考えると、姿勢が悪くても横隔膜の衰えを自覚せずに済んでしまうからだというのが最大の原因なのだと思う。肩こりと同様の痛みが横隔膜にあり、睡眠時すら呼吸の度に鳩尾に激痛が走る様だったら、人類はとっくに滅亡しているんじゃないかと思う。手足の筋肉の衰えは中年になればほぼ全員が自覚するが、横隔膜の衰えはたいてい死ぬまで気付かない。

 この理由をツラツラ妄想してみると。

 横隔膜を含めた体幹が内臓を保持したり呼吸したりといった生命維持の役割を果たすのに対して、四肢の筋肉は走ったり物を持ったりといった作業を行うためのものである。それこそ狩猟採集の時代からスマホ必携の現代まで、人間の行動というのはその全てが目の前の対象物に対して手足を使って作用するというものであります。本来は体幹と四肢が協調して動くのだけれど、しかし人間の行動は往々にして体幹よりも四肢の動作を優先させてしまう。

 スマホでもゲームでも料理でも農作業でも、目の前のものに対して手を使って作業をすると、無意識に胸郭が前傾してしまう。それは少しずつ横隔膜を押しつぶすという事である。逆に言いますと、人間は体幹の衰えに無自覚でいられるからこそ、高度で巨大な文明を築く事ができたのだ。いや、ホントに真面目に言ってますよワタシは。

 今の社会がこのようにある中に姿勢の悪さが織り込まれている。トンデモ理論にもほどがあると思うでしょうが、今の日本は大人になったら自分の力を超えた無理をしてでも毎月稼いで、生命維持の力を犠牲にして鬱になってでも社会や家庭を維持しようとしてしまうのだ。社会で活躍する人は、往々にして体幹を犠牲にしてその力を四肢にまわす。おたくの会社の出来るサラリーマンが体調不良を自慢げに語る姿とダブりませんでしょうか?

横隔膜と見た目

 何年か前に、どこぞのwebサイトで健康チェックのトピックがあり、その中の1つに「思い切り息を吸い、その倍の時間で息が吐ける(と若い)」というのがありました。老いると呼吸が浅くなるそうな。

 試しにやってみると、5秒くらいで息を吸い、さあ10秒かけて吐きましょうか・・・と思っていたのに、もう2秒も保たずに息が切れて物凄くショックだった。自分の肺が気の抜けた風船みたいにシュンと縮まるような感じで、そもそも息を少しずつ吐き出すということができない。どれだけ深く息を吸ったつもりでも、吐くときは溜め息程度にチョロっと出る程度。

 この現象を横隔膜だけ捉えて考えると、そもそも息を吸う時は横隔膜が収縮し、吐く時は弛緩する。しかし猫背というのは横隔膜が弛緩したまま固定したような状態なので、日常生活の呼吸は誤摩化しつつ無事にできていても、意識して深く呼吸しようとすると途端に上手く吸ったり吐いたりできない感じになるらしい。

 そこで猫背につきまして。猫背で困ったことというと、たいていは首が痛い腰が痛い肩が凝るだのと、人体の後ろ側の不調だろうと思う。その次に下腹が出て格好悪いといった見た目の問題。猫背のせいで横隔膜にも支障が出ているなんて、ついぞ考えた事も無かったのだった。シロウト考えですが、内臓も横隔膜も人間の生死に関わるパーツなので、それこそ内臓脂肪を付けたり無意識に呼吸を調整してでも体を回し続けて不調でないフリをする。けれども背中側はそこまで重要ではないのでサッサと痛みを発するように出来ている、と推理してみる。

 横隔膜のあるあたりの見た目についても色々とサンプル体を観察したのですが、中年以降の胴体というのは若者に比べて骨格自体が太い。太いといってもスポーツ選手のような筋肉的なボリュームではないので、なんといいますか、食べ残した正月の雑煮が出汁を吸ってビローンと広がったような感じである。

 長年の猫背で胸郭が前傾しているため、肋骨の下あたりに真横に筋が入ったように皺のある人もいる。そして胸部全体が下に位置している。男でも中年太りでオッパイがついてそれが下に垂れた、というのではなく、痩せている人でも胸部自体が下にスライドしているように見える。若者に比べて乳首とヘソの距離が短くなったというのか。日本語は体に関する語彙は豊富だ思っていたのに、この状態を言い表す言葉が無くてもどかしすぎる。

 一見それほど猫背に見えない人でも多少は胸郭が前傾していて、それこそが上腹部の筋肉、主に横隔膜の衰えなのだろうと思う。明らかにジムで鍛えている胸筋がババーンと張ったた人でも横隔膜あたりが潰れていることもあるので、横隔膜というのは本当に意識の向かない部位なのだとつくづく思う。

 横隔膜の衰えは自覚しにくい。それこそがワタクシが声を大にして言いたい今回のメインテーマであります。肩こりや腹が出てきたことは直に気付いても、自分の横隔膜がどういう状態かなど、まず大抵の人は気にしない、というかそもそもワカラン

 息を長く吐けなくて驚いた時から数えて5年ほど経ち、「横隔膜て相当大事だよな」と思っているワタクシにしたところで自分の横隔膜がどういう状態かなんてサッパリ分からない。非常に重要なのに、手足の筋肉や腹の脂肪に比べて意識しづらいという事実。この、とても奥ゆかしい横隔膜について考えていると、いつしか「人間とは・・・」みたいな壮大な思想に繋がっていきそうな予感。


任天堂とDeNAが資本業務提携でどうのこうの

 以前に「スマホで何かやる」という話はしていたのだけれど、ほほー、DeNAと組むというのは結構ビックリ。しかしこのビックリには、ガチャで荒稼ぎしたガラケー時代の雄の片割れ、なにを今更?というガッカリ感も含んでいたりする。きっと任天堂も「庇を貸して母屋を取られる」みたいな事にならないためには今のDeNAなら御しやすいかも、というのはあったと思うな。

 今回の提携にはクラブニンテンドーの後継となるコミュニティの構築も含むとのことで、先日終了が発表されたクラブニンテンドーの、なんだか夜逃げっぽくも感じられる唐突な終了宣言からすると、今回の提携はかなり短期間で為されたのではないかと邪推いたします。

 2DSを出した時に、任天堂の思惑と実際とがズレてきていて、子供達がスマホで満足してニンテンドーをスキップする事態を一番恐れているんだろうなあということをブログに吐きましたが、実際にスマホにも手を出すからにはこれまで以上に奇天烈なことをやって欲しいと願う次第であります(奇天烈でないマトモな例:99セント多く払わせてマリオがより高くジャンプできる

 これまでの任天堂のゲームのキャラクターも使うということなので、スマホも含めてできたら面白そうというのを勝手に予測してみる。

 その1。ポケモンバトルがスマホでも出来る!

 さすがに2バージョンのうちの1つをスマホで展開!みたいなことはしないだろうと。けれどもポケバンクをスマホにも解放して通勤電車でも対戦できるように、というようなことは前にも書いた記憶が。駅に着いても途中で止められないのがタマにキズ。月額300円(税抜き)でどや!

 その2。どうぶつの森が本格的クロスプラットフォーム化

 どうぶつの森が今後もあるとしても、ハード変わるたびにイチからバイトして借金返してということを繰り返させるべきではないと思う。スマホと任天堂ハードで同じキャラが行き来しつつ、微妙にサーバー側にデータを移行させつつ、「でも任天堂ハードで遊ぶとこんな特別な衣装がもらえる」で差別化しつつスマホからの客を呼び込む。どうかアイテム課金とかやりませんように。

 その3。こする!メイドインワリオ

 3マッチパズル中毒の者共にトイレットペーパーを巻き取らせてやるがいいさ。