今日も定時ダッシュ -23ページ目

ソロモンの偽証 前編・事件

 宮部みゆきの現代小説に出てくる子供に違和感を持った方はいませんでしょうか?とても純粋で聡明さもあり、事件に対して懸命に対応していくその姿に、自分は「こんな子供いるかあ?」というひっかかりを持つこともしばしば。社会派と呼ばれるだけあって扱う事件が殺伐としたものが多いために、作中に登場するそういった真っ直ぐな子供達が余計にそぐわない感じがしてしまう。

 ただ、そういう面を子供に与えているのは、宮部みゆきの作家性の内に具わっているものなので、「宮部みゆきの小説は好きだけど出てくる子供が嘘くさい」というのは的外れな批難だとも思う。「ソロモンの偽証」は、原作は未読ですがサワリを見聞きすると、クラスメイトの自殺や事故死に中学生だけの裁判で立ち向かっていくという、これまで以上に真っ直ぐな子供達が大量に押し寄せるイメージで、手を付けあぐねていたところに上手い具合に映画化のニュースが。

 映画だとミステリというよりは青春モノとして捉えやすいためか、子供達はとても真っ直ぐではあるけれど嘘くさいとは全く感じず、スゴく面白かったです。早く後編が見たい。

 以下は印象に残った場面を適当に書いてしまいますが、太った女の子が土砂降りの中を大泣きしながら走るシーンがとても印象に残って、その後の大雨に打たれて赤い色が跳ね上がる様も衝撃的でした。

 衝撃的といえば市川実和子。もうこのヒトに何かの役をオファーするというのは、危険牌を振るようなドキドキ感をスタッフ側にもたらしているハズ。実際のところ市川実和子のシーンだけ完全にホラー。いいんだか悪いんだか。

 脅迫状を送った子の家が映画的に明らかにおかしな照明の暗さになっていて、これは物語としてはきっと父親の描いた絵を傷めないように部屋を暗くしてあるということなのだろうけれど、映画としては永作博美とニキビの女の子の顔を、ワープロの画面の光で不気味に浮かび上がらせる演出のための暗さのハズ。

 体育館の騒動のシーンが、生徒達の群衆全体にしっかりとした動きがあって、その中で主人公の女の子やガリ勉ぽい男の子の行動が自然に浮かび上がるような見せ方になっている。物凄くスカッとしたシーンでした。この騒動の後に、主人公の女の子が母親に「もう泣くな」みたいに言われたので、それまでは自分の後ろめたさから何度も泣いていたのに、きっと後編はこの子はどんなに泣きたくても絶対泣かない所が肝になるのだろうなーと思ったら、エンディング後の後編の予告で早速ダーダーと泣いていたのであった。

ポケとる

 現在スマホで主流のスタミナ課金型ゲームに対して任天堂が否を唱えているその足下で、(株)ポケモンがそーゆーゲームをサラリと出す。もともとこの会社は石原社長のポリシーなのか任天堂ハードに固執せずにスマホに秋波を送ってるところがあるけれど、それならこのゲームもスマホで出せばいいのにと思う。

 けれども、3DSで出たおかげで最先端からこぼれ落ちたワタクシも、現在主流のフリー・トゥー・プレイでスタミナ課金のナウなシーンにキャッチアップなトレンドヤングゼネレーション。これぞウィンウィン。いざダウンロードしませい。ポチッとな。

 ということで始めた「ポケとる」ですが、これか、コレがあのナウでヤングな・・はもういいとして、スマホで主流のプレイスタイルという奴か。以下はポケとるについての感想ですが、スマホの似たよなゲームもこんなんだろうなーと、テキトーに決めつけつつ書いてしまいます。

 そもそもポケモンのマッチングパズルといえば既に「ポケモントローゼ」や、それを発展させた「バトルトローゼ」があるというのに、何を似たようなモンでスタミナ課金なんぞと、ワタクシの「ポケトル」に対する心証は最悪だったのですが、トローゼとは違い、ポケとるは時間制ではないので、一手ごとに長考しつつ良い手を練ることができます。しかしこれは長考というよりは「ダラダラできる」という感覚で、自分も何となくHuluでドラマを見ながらその傍らでポケとる、という遊び方が定着してしまった。

 スタミナ課金につても、やってみるとこれが以外にクセモノで。タダで遊ばせてスタミナが切れたら時間で回復するという仕組みは、変な話、普通に金払って買うパッケージゲームよりも「今遊びたいのに」という思いが強くなる。ふしぎ!

 いや単に自分が貧乏性だからなのですが、スタミナが0になってしばらくすると「今頃スタミナ貯まってるから遊ばなきゃ」と思ってしまう。元々タダのクセに放っておくと損した気になってしまう。なんて性根の卑しい中年なのだと自分で自分が情けなくなるのだが、貧乏性ゆえにタダに惹かれ、貧乏性ゆえにスタミナ在庫が気になってしまう。こんな単純なスリーマッチごときに脳内をのさばらせている、ワタクシがポケとるをプレイするのか、ポケとるがワタクシにプレイさせているのか、これはもうホラーSFの域である。

 これまでゲームにハマったことのない人がスマホのパズルにハマり、パズドラのスタミナが無くなったらツムツムを、ツムツムが終わったらまた次を・・・と、懲りもせずダラダラやり続けて「でも無課金だから」というのを免罪符みたいに口にしていたが、あの時は「こいつ大丈夫やろか?」と心配になったが、なんとなく気持ちが分かりました。

 なんといいますか、「タダだから」「単なる暇つぶし」「無理にやりたくてやってる訳じゃない」でズルズルと浸ってしまうこの感覚。自分の経験からして、スマホゲーが無くたってそういうヒトに時間があっても大して有意義な過ごし方なんてしないだろうから別にいいようなものですが、個人的には世の中にはもっと面白いゲームがあるんだから、金払ってそっちを楽しんでいたほうが素直に「ゲーム大好き!」と思えて気分がラク。

 でもしらばくポケとるは遊んでしまうと思いマス!難しくなってタダでは進めなくなったら、それでも続けたかったら観念してサッサと金を払おうかと。

タッチ!カービィ セガールの反対て誰?

 豪華なグラフィック、リアルなキャラの挙動、シリアスなストーリーなどにより、プレーヤーをキャラクターと一体化させて「俺カッケー!」なフィーバー状態に導くのがセガール型ゲームならば、それとは逆のゲームを何と呼べばよいのか。逆のポジションの俳優が見当たらない。逆というとアクションを売りにしないアクション俳優という事なので、何だそれはと自分でも思う。セガール型ゲームという発想に酔ってウッカリつまらん事を書いてしまった。

 最近ではリーアム・ニーソンとか一昔前ではニコラス・ケイジとか、一見アクションに不似合いの俳優がアクション映画の主演をする例があるが、ああいうのも一見そうは見えないというだけでやってる事はセガール型。もっとこう、、ヒッチコックの「裏窓」みたいに主役は寝てるだけ、ヒロインは足手まとい、場面のほとんどは窓の向こうの住民のやりとりの覗きだけ、でもサスペンスは成立するんだよ!ということを言いたいのだけれど、じゃあそれを「ヒッチコック型」とか言ってしまうと自分にはビッグネーム過ぎて手に負えない。

 完全にセガールのネガという訳ではないのですが、ハリソン・フォードの映画は結構アンチセガール度が高いように思う。インディ・ジョーンズとかジャック・ライアンとか鉄板シリーズも持っている反面、「フランティック」では言葉の通じないフランスで右往左往、「刑事ジョン・ブック」ではアーミッシュの村で右往左往、「6デイズ/7ナイツ」では無人島で陽気に右往左往、「逃亡者」ではトミー・リー・ジョーンズに追われて右往左往、「ランダム・ハーツ」ではヒッチコック的サスペンスかと思いきや、まさかの寝取られラブロマンス、、、などなど、アクションっぽい映画が多いのに、なかなか単純に「俺カッケー!」には観客を導いてくれない俳優・・・ということにしてくれまいか。

 もうゲームとは全く関係なくなってしまいましたが、とりあえず据置ゲームのメインストリームである、マシンパワーでヒャッホー!ではないゲームを「ハリソン・フォード型」と呼びたいと思いマス。

タッチ!カービィ セガール型のゲームについて

 映画とゲームを無理矢理股にかけたよな強引なタイトルですが、本人至って(割と)真面目に書いております。

 WiiUの「タッチ!カービィ」を遊んでいて、つくづく任天堂のポリシーというか頑固さというのか、世の中のゲーム市場の半分がスマホに流れ、残りの大多数はPS4やXboxOneのゴージャスなゲームを支持するこのご時世にあって、自信満々に「キノピオ隊長」や「カービィ」を世に問うてしまう任天堂が・・・まあ大好きなのですが、やっぱりメインストリームからはズレてるんだろうなあとも思う。けれども任天堂って結局の所、売れていようが売れていなかろうが昔も今もずっとズレていたようにも思う。

 スマホとのズレについては自分はスマホのゲームを遊んでいないので置くとして、据置ゲームのズレについて考えてみたいと思います。

 前世代機から欧米のゲームが日本のゲームに取って代わり、据置ゲームのシェアを大きく占めるようになりました。理由はそれこそ色々あるのだろうけれど、個人的な感じだと、据置のスペックがPS3や360になって「リアリティのあるヒーローを動かせるようになった」からではないかと思う。

 アンチャーテッドやバットマンやアサシンクリードなどなど、ゲームのジャンル関係なく驚異的な能力を持った主人公を操作してプレーヤーがスリルと万能感に浸れるだけのリアリティを持ったゲームが一気に登場して、欧米のゲーマーに圧倒的に受け入れられた。そもそもゲームはそれこそファミコンの時代からスリルを超えて達成感や万能感を味わうメディアなのだが、マリオのようなコミカルなテイストやデビル・メイ・クライのようなアニメ的なカッコ良さではなく、PS3では写実的な世界で力を振るうヒーローを破綻なく表現できるようになり、よりストレートにパワーを表現できるようになった。

 これは映画に例えるならば、スティーブン・セガールのアクション映画を見て、セガールと自分を同一視してカタルシスを得ることと同じで、シリアスな世界観の中で破壊や殺戮の限りを尽くすデザインのゲームが、AIやグラフィックの進化によって「本当らしく」遊べるようになった。

 ゲームが持つ、緊張感やスリルを超えた達成感を味わうという特徴を考えるならば、そもそもゲームというのはセガールのアクション映画のような万能感こそが本流である。そのためには今後もっとマシンのスペックが上がって、よりゴージャスなグラフィックや洗練された敵のAIなどなど、進化の余地はいくらでもある。日本では意気消沈気味でも欧米で据置機が多いに売れているのは、マシンスペックが上がった分に見合うリアルなセガール的ゲームを製作者もユーザーも支持しているからである。

 全然「タッチ!カービィ」とは関係なくなってしまいましたが、ひとまず続きます。

フォックスキャッチャー

 1996年に起こった事件の映画化で、当時の自分は今は無き写真週刊誌のフォーカスで記事を読んだ記憶がある。写真は、デュポン氏をとりかこむように屈強なレスラーが侍っているもので、どうみてもホモのハーレム。記事もそんなようなような論調だったような。

 しかし自分は「誰が誰を殺したか?」という肝心の事件の内容はスッカリ忘れていたので、映画を見ている最中はてっきりレスラー弟がデュポンかレスラー兄を殺す話かと思って観ていたのだった。なのでラストはそっちかー!という感じ。ワタクシは独り相撲的に騙されていたのであった。

 しかしこの映画、偏執的なまでにデュポンとレスラー兄弟の性格を描写している。説明的なセリフ一切無しで監督の理解した3人の人格を観客に全部見せようとしている。デュポンの顎を持ち上げて他人を見下す姿勢や半開きの目、母親の前でこれみよがしにレスリングのコーチをする姿、レスラー弟の無骨な感じがデュポンから悪影響を受けて一気に髪型やファッションがゲイチックになってしまうくだり、レスラー兄の社交的ではあるけれど世慣れすぎてもおらず、口と腹が一緒で大スポンサーのデュポンより家族サービスを当然のように優先させてしまうところ、レスラー兄の妻やデュポンの母親など、映画全部がキャラクターの描写だけで進んでいった印象がある。

 なので、クライマックスの事件も衝撃的というよりは起こるべき事が起こってしまったのだ、という感じ。この映画は決して「なぜ殺人は起こってしまったか?」を紐解く映画ではなく、デュポンの生い立ちや人格から監督が感じた特異さを、ただそのまま表現したかったように見え、映画にとってあの殺人事件は単にその結果でしかないのではないかと思う。

 そしてこのレスリングという競技。そのケはない(と思っている)40半ばのオッサンである自分すら、チャニング・テイタムのレスラースーツ(というのか?)姿の分厚い胸板の乳首に見入ってしまったことをここに告白。この映画のレスリング自体、単なるスポーツというよりデュポン氏の脳内の一部であるかのような異質さがある。例えるならトップレス姿の檀蜜が自分と二人きりの試着室でスーツの採寸をしてくれているかのような・・・ね、あるよね!とこの比喩に同意を求めるワタクシ。