今日も定時ダッシュ -105ページ目

ラブリーボーン

 ピーター・ジャクソンが監督し、スピルバーグがプロデュースというコンビは、広範囲な世代に「なんだかスゴそう」と期待させる布陣で、どっちもど真ん中の自分は大いに期待したのだけれど、まさかピージャックといっても「乙女の祈り」に連なる乙女チックで繊細な特殊効果と、まさかスピルバーグといってもドリームワークス製作ってだけのつながり(実際は知らんが)だったとは。

 天国とこの世との派境のビジュアルは確かに印象的だけれど、その辺りから予想したものとは違うぞ?と感じ、それじゃあ一体自分は何を期待していたのかというと、要は「ゴースト」なのだということに気付いて、「20年も経ってゴーストのパクリはサスガにやらないだろう」と思い至りました。

 この映画のように、理不尽に襲われた不幸な出来事に対して、単純に復讐することだけが道なのではないという映画がこれまでにも無い訳ではなかったが、それを子供の目線で語る切り口が「ラブリーボーン」が独特な点ではないかと思う。そういう意味でこの映画は従来のハリウッド映画のパターンから色々逸脱しているのだが、それならそれでもっと殺された少女がどんな形で救済されるのかというポイントをストレートに観客に見せたほうが良かったように思う。この映画は従来のハリウッド的展開をするように見せてサラリとかわすミスリードが多過ぎて、「この映画はゴーストではない」と弁えていたつもりだったのに、自分は最後までこの映画が観客の溜飲を下げるような復讐譚であることを期待してしまった。

 特に最期の金庫の扱いは気を持たせすぎて、もう一方のスーザンがやり残したことを成し遂げるシーンが観ていてイライラするだけだったのはマズいんじゃないだろうか。

 霊的な存在が見える女の子は(「ゴースト」でウーピー・ゴールドバーグが演じた)オダ・メイのような活躍をしないし、トウモロコシ畑が舞台といっても、そこは「フィールド・オブ・ドリームス」のような感傷的な場では全くない。この映画は、ファンタジー的な描写を除くと恐ろしく殺伐とした物語であり、そしてそれこそが現実でもある。今更ながら自分が生きている場所が先の全く見えない恐ろしい場所でるかを思い知らされたような映画でした。

こんな人にオススメ:なんだかモヤモヤとしたい人へ

栗のマドレーヌ

 DSのレシピソフトの中から実際に作ってみるシリーズ。今回は「お菓子ナビDS」からマドレーヌを作りました。栗は渋皮煮にして保存してあるものを使っています。

 お菓子ナビDSを話のマクラに持ってきたものの、実際は小林カツ代の「ケーキ&パイの基本」というレシピ本にならっています。この本は「料理はともかくケーキは作業が細かそうで絶対ムリ」と思っていた自分にとって、「ああ、ケーキ作るのも案外簡単そう」と思わせてくれたありがたい本です。そもそもカツ代のレシピ本はどれもとても敷居が低くて、その中に非常にわかりやすい料理のコツを入れてくれるので、料理研究家界も世代交代していく中でもこの人のレシピ本を使うことが一番多い。現在病気療養中とのことですが、またご活躍される日を心待ちにしており候。

 普通マドレーヌというとシェル型の容器で作るものだけれど、チマチマ作るのがめんどくさいのでリング型に流し込んでドカンと作ります。シェル型も家にあるのだけれど、おそらく嫁入り道具として持ち込んだ嫁がこの型を使う姿を一度も見ていない。

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ドカンと栗を投入

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ドカンと焼き上げる

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食べる時はチマチマ

 「果たしてこの巨大なドーナツみたいなのをマドレーヌと呼んでいいのか?」と引け目を感じていた時代もありましたが、デパートでバラ売りしているマドレーヌを買い込んで食べ比べてみたところ、自分が作ったのが一番ウマいやないかという結論に至り、結局どうでもよくなってしまいました。生地にアーモンドプードルを混ぜるとハッキリとおいしくなります。

サロゲート

 近未来SFというのは、現在の社会のある兆候を捉えて、それが社会的に拡大していった先の状態を舞台にした物語であるので、特にディストピアものと言われるタイプのものは、フィクションではあるけれど現代社会を射影したようなスタイルのものが多い。子供が生まれなくなった社会の閉塞感を見事に描いた「トゥモロー・ワールド」や、ヒトゲノムが全て解明されて遺伝子情報の優劣で人生が決まってしまう硬質な社会を描いた「ガタカ」など、それはフィクションであることを理解しつつも、将来そういう社会に変わって行くのだろうという説得力も感じる。これはホラーに分類されるのだろうが、「盗まれた街」は映画化されるたびにアメリカの人種間の対立だったり共産主義との対立だったりと、その時代の孕む社会不安を巧みに表現してきた。

 「サロゲート」は脳波を使って様々な機械を制御できる技術が長じて、人々は自分が部屋で引きこもった状態でロボットを脳波で操作して労働や娯楽といった社会的活動を行わせることが当たり前となった社会の物語です。しばらく前にNHKのクローズアップ現代で、脳波を使ったおもちゃや車椅子の操作といった技術の紹介をしており、今後脳波を使ったデバイスの研究がますます盛んになっていくことが示唆されました。

 この技術の行き着く先が医療や軍事ではなく「自分の理想の姿をロボットにして、そちらを本物の自分として生活していく」というエゴイスティックな社会であるという着眼点が面白い。ダッチワイフかスクウェア制作のゲームかという感じのピカピカの美男美女ばかりが溢れる町を、シワ深く無精髭で頭のハゲたブルース・ウィルスが一人躍起になって事件を追う姿は、この社会の歪さをとても上手く表している。

 そうは言っても明朗快活さがウリのジョナサン・モストウ監督であるので、「サロゲート」で現代社会を風刺しようという姿勢はあまり感じない。それよりも日常生活を送る姿(=ロボット)と生身との違いに着眼したトリック的な人間の入れ替わりや、ブルース・ウィルスが町中でロボットを追いかける最中に、巻き添えをくらった他のロボットがキョトンとした顔でボンネットに乗り上げている姿のおかしさなど、映画の中で色々なネタとして消化しております。

 という訳で「サロゲート」は現代社会への警鐘なんて大層なものではなく、力を抜いて楽しめるエンターテイメントなのですが、映画のストーリーを追うのが結構大変で、冒頭の事件の犯人が**で、コイツが裏で***と繋がってて、それを知った被害者の**が***を使って***して・・・と、実際にセリフでハッキリ語られるにも関わらず内容を整理して理解できたのが、もう映画も終わろうとしている頃。自分にとって「G.I.ジョー」とかこういう映画のほうが「パルナサスの鏡」よりも余程理解するのが大変なのだが、世間じゃ逆なのが不思議であります。

こんな人にオススメ:ツルツルしたマット肌の美男美女フェチ(なんだそれ)ならば。

Dr.パルナサスの鏡

 自分はテリー・ギリアムの「バロン」こそこれまで観た中で一番面白い映画だと思っているので、「ドン・キホーテ」の失敗でギリアムの去就を真剣に心配したクチであります。それが「ブラザーズ・グリム」で見事復活し(内容はともかく)、「ローズ・イン・タイドランド」で映画自体もかつてのギリアムの面白さを取り戻しているようで胸を撫で下ろしていたらば、まさかこの映画の撮影中にヒース・レジャーが死んでしまうという、なんでまたギリアム映画ってこうも撮影中の大トラブルが多いんだろうと天を仰いでしまった。

 しかし自分が極めてフリーク度の高いギリアムに心酔しているかというとそうでもなく、モンティ・パイソンは一つも観ていなし、「未来世紀ブラジル」は何度観てもラストあたりで寝てしまうという、その筋のファンからすると非常に不心得者であります。ギリアムの映画は総じて好きなことは確かですが、自分にとって「バロン」は特別な物になってしまっているようで。

 そんな自分であるので、今では何でもCGで表現できるようになった分、全て特撮だった「バロン」の持つ、胡乱で、蠱惑的で、味のあるビジュアルには及ばなかったのは残念でしたが、しかしそんな無い物ねだりをしてもしょうがない。自分のこだわりに目をつぶれば、「Dr.パルナサスの鏡」だって独特のビジュアルを持った非常に面白い映画だったのだ。

 中盤のショッピングモールのハイソなオバさんが鏡をくぐる場面まで、映画がなかなか進まずにもどかしい感じがしていたのだが、そのシーン以降の急展開というか大崩壊というのか、とにかく物凄い勢いで映画の様々な面が現れてきて、面白いというよりもスッゲエ楽しいという感覚がピッタリくる。初めはパルナサス博士は傍観者といった存在で、鏡をくぐる人間たちに焦点を当てたドラマかと思っていたら、次第に幻想の世界を仕掛ける側の存在にもどんどん影響を及ぼしだして、パルナサス博士もヒース・レジャー演じるトニーも、自分の暗黒面を露呈させてしまう。

 トニーが幻想の世界では、ジョニー・デップ、ジュード・ロウ、コリン・ファレルという豪華な面々によって演じられる。これはヒース・レジャーの急死という痛手をカバーしてこの映画のウリにもなってしまったのだが、この配役が話題先行なだけでなくストーリーに即した絶妙な配置で、徐々にトニーの化けの皮が剥がれて行く様を3人の役者を使って上手く表現している。現実世界では如才のないハンサム男が、だんだんと欲望を剥き出しにして本性を現して行く過程はとても演技のしがいのあるパートだろうから、いくら豪華俳優が共演しようともやっぱりヒース・レジャーで観たかったと思ってしまうのだが、これまた今更無いものねだりをしてもしょうがない。

 この映画でヒロインを演じるリリー・コールは御年19才のスーパーモデルだそうで、スラリと伸びた足やなめらかなウェストの曲線や仰向けに寝転んでも崩れない絶品のバストが、彼女を全く知らない自分の目から観てもただ者でなさを物語っていた。彼女はあらゆる面で成功したデヴォン青木という感じ。演技のキャリアはそれ程無いとのことだけれど、クセモノぞろいの男連中を向こうに回して全くひけを取らない存在感であります。これは身体的な魅力もさることながら、彼女の雰囲気がこの映画の世界にピタリとハマっているからだと思う。

 「ローズ・イン・タイドランド」でヒロインを演じたジョデル・フェルランドといい、古くは「バロン」のサラ・ポーリーやユマ・サーマンといい、ギリアム映画はどれも女優が素晴らしく撮られていますな。

 パルナサス博士と賭けをするのが悪魔という設定なのだけれど、パルナサス自身も悪魔の奸計で死ねない体になってしまったのだから、「Dr.パルナサスの鏡」の本来の姿は、この悪魔を中心にして登場人物がその周りを衛星のようにグルグル回りつつ、意思の弱いものが悪魔の手に落ちてしまうという構造になっている。ただ従来のイメージの悪魔とはかなり違って悪の部分が非常に分かりづらく、悪魔というよりも神とか創造主とか、そっちのほうの印象を持ちました。

 最後のほうで悪魔が二人の修道尼にリンゴを渡すシーンは旧約聖書でヘビがイブに知恵の実を食べさせるくだりをなぞったものかとも思うのだが、そもそもこの映画が善悪二言論では全く語られていないので、想像の世界で選択を迫られる二つの道について、どっちが善でどっちが悪だかハッキリしない。ギリアムの映画が難解だと言われてしまうのは表現が難しいからではなく、ストーリーの中に答えが用意されていないからだと思う。自分がテリー・ギリアムの映画が好きなのは「難しいことは置いといてアッと驚くビジュアルが観たい」という嗜好にピッタリだからかもしれない。

こんな人にオススメ:宣伝ほどジョニー・デップの出番がほとんどないので、ファンの人はご用心

(500)日のサマー

 この映画でヒロインを演じるズーイー・デシャネルは、「イエスマン」や「ハプニング」など、このところ地味に活躍しておりますが、この映画で一発大当たりを出したという感じです。変則的な恋愛モノである「(500)日のサマー」は、変則的とはいっても要は恋愛映画のバリエーションの一つなのだけれど、この映画の魅力は何といっても彼女が演じるサマーの魅力に尽きる。

 ブルーアイに合わせて終始彼女は青い服を着ており、青のアーガイルのニットや黄色の入った薄いブルーのパーティー・ドレスや青い花の刺繍をあしらったブラウスなどなど、彼女は青がもたらす透明感を存分に醸している。部屋の壁紙や部屋飾りに使っている盆栽に吊るした折り鶴も青で(鶴は赤いのも混じっていたが)、映画の中の彼女は明らかに青が自分のイメージカラーだという思いを持っている。その透明感は、魅力であると同時に男から見て掴み所の無いパーソナリティということでもあるのだけれど。

 このあたり、例えば「ベティ・サイズモア」のレニー・ゼルヴィガーの分かりやすさに比べて非常にクセモノな感じを漂わせている。そんなサマーに男はのぼせ上がって振り回されて終いにゃポイ捨てされて、という恋愛のフルコースを味わう羽目になるのだが、もうそういう色恋はとっくに上がった自分のようなオッサンからすると、平穏なだけで何にも無い人生より1億倍マシじゃない、と思うのである。サマーとの恋愛を上手く終わらせることができたから、主人公は一つ大人になって新たな相手と巡り会えたのだから。

 結局、この映画におけるサマーの魅力というのは、もうこういう女に振り回される事も無いであろう男共が、自分を安全な場所に置いてようやく存分に愛でられるものかもしれない。

こんな人にオススメ:若いうちは映画よりも自分の色恋にウツツを抜かすべきなので、30代あたりの男女が観るのが一番面白いのではないかと。