今日も定時ダッシュ -104ページ目

コララインとボタンの魔女

 「ナイトメア・ビフォア・クリスマス」のヘンリー・セリック監督が贈る最新ストップモーション・アニメーション、ナイトメアの監督はティム・バートンじゃないんだよー。

 この手の変則的なアニメは受けないとみなされているのか、ウォレスとグルミット然りチェブラーシカ然り、扱いが非常に小さいのが悲しい。「ナイトメア・ビフォア・クリスマス」だって公開当時は全く注目されず終いだったことを踏まえると、日本人のファンシー好きな国民性にも関わらず、わざわざ映画で堪能しようという層は非常に少ないのだろう。ただ、それゆえにオタクとしては「俺だけが知っている」的な特権に浸れることもあって、ナイトメア公開後は狂ったようにハスブロのグッズを買い漁ったのだが、女子供に人気が出だしたあたりで「ああ、いつまでもナイトメアをオタクの手垢にまみれさせてはアカン」と潔く身を引いた次第でございます。

 このように自分は「ナイトメア・ビフォア・クリスマス」を贔屓しているので、その後のセリックやバートンのストップモーションアニメも勿論劇場で見たのだが、たとえこの先、再びバートンとセリックがタッグを組んだとしても、 もうこのジャンルでナイトメアを超える映画は作れないんじゃないかという気がしている。「コラライン」だって魔女の独特のビジュアルにゾクゾクしたし、目玉がボタンというだけでこれほど薄気味悪いものなのかと思ったりしたのだが。

 しかし、この映画の何が不満かというと、ナゼわざわざ3Dにする必要がある?という疑問混じりの怒りに尽きる。もう「アバター」以降の3D映画は生半可なモノじゃ3Dなぞ全く売りにならないのだということを製作側はサッサと弁えて欲しい。しかもXpanDの3Dって、近眼でメガネを掛けている自分にとっては装着に多大な苦痛を強いるもので、あの重くてキツくてずり落ちるメガネを掛けさせた上に余計な料金もブン取ろうなんて、どこの社会主義の映画館よ?というくらい不自由かつ理不尽きわまりない。3Dだからって何でも有難がると思ったら大間違いである。

 いやまあ、「コラライン」が3Dなんて全く知らずに金曜日のレイトという一番疲れた状態で観てしまい、3Dメガネのせいで頭痛をもよおして寝てしまった不覚を八つ当たりしているだけなんだけどさ、そういう事情を抜きにしても、この映画は2Dのほうが絶対楽しめたと思うのだ。コララインや魔女をはじめ魅力的デザインをじっくり堪能する自由を奪われて、多少の遠近感なんぞあてがわれてもチットも楽しめません!プンプン。

こんな人にオススメ:2Dで字幕だったらねえ・・・

パレード

 実はこの映画で何を見たかったかというと、林遣都はスクリーンではどうなんだ?という点でございました。この人は「バッテリー」で登場してからこのかた、スポーツに燃えるキラキラした若者の役ばかりでどうにも自分の過去にケンカ売ってるようにしか思えず、僻み根性からそれらの映画に感動してしまっては自分の負けだと思い続けて全部パスしてきたのだ。「パレード」では男娼の役ということで、これくらい汚れていれば大丈夫だろうと安心して観に行ったのですが。

 しかし実際に目にした林クンは、ヌードになるシーンでのあまりのヒョロさに心配になってしまい、「若いウチはちゃんとゴハン食べなきゃ駄目よ~」というオバチャンみたいな心境になってしまった。事前に見知ったあらすじでは、それまで楽しい共同生活を送っていた4人の男女が、林遣都の闖入で上辺だけの生活の底にある恐ろしさを露呈してしまう、というようなものだったのだが、自分がオッサンで田舎者だからかなのか、最後まで見ても「だから何だ?」とピンと来ない感じでした。

 映画ではおそらく、真に心を通わすことをしない都会の若者の薄気味悪さを表現しようとしているんじゃないかと思ったが、ならばそもそも若い男女が一つ屋根の下でセックス抜きで暮らしているという設定自体が薄気味悪い。あのシチュエーションを成立させようとしたら、そりゃお互いに上辺だけの付き合いになるでしょうよ。闖入者が男娼だというのは、色欲を無いことにして韜晦している男女に対してのカウンターの意味だと勝手に思っていたのだが、この男も結局共同生活に馴染んじゃってるし、どうもそういう訳でもなさそうである。

 行定勲監督は1968年生まれとのことで、十分に大人であります。原作者の吉田修一氏も同年生まれで「パレード」を上梓したのが2002年なので、決して自身が若者側の人間ではない状況でこの小説を書いた訳だ。別に監督や原作者が若くないからこの映画に出て来る若者は嘘っぱちだとまでは思いませんが、どうも「都会で暮らすイマドキの若者は互いを理解しないまま凭れあって生きているに違いない」と決めつけているように思えてしまう。

 東京が生き辛いというのも何となく理解できるのだが、上辺だけの付き合いなんて、田舎モンだってオッサンだって当然のようにしていると思うのだけれどもねえ。

こんな人にオススメ:舞台となるアパートの間取りの不自然さに気付かなければ、きっとこの映画の違和感も薄いのではないかと。

キャピタリズム マネーは踊る

 マイケル・ムーアの映像作品というのは、つまるところたった一つのこと、「持てるものが持たざるものを搾取する構造」を暴き、これでは駄目だと言い続けてきた。そしてこの「キャピタリズム」は、これまでのテーマの奥に常に存在していた資本主義そのものをターゲットにしている。まあタイトルが「資本主義」なんだから、そりゃそうだわな。

 マイケル・ムーアは映像の力を非常に信じていた男なんだと思う。こういう根性をジャーナリズム精神と呼ぶのだろう。高校生が学校で銃を乱射した事件を、医者にかかれずに病を抱える市民達を、「お前らこの状況が狂ってることにサッサと気付け!」と全力で啓蒙してきた。しかしそれでどうなったかというと、結局事態はさほど変わりはしなかった。

 「華氏911」でジョージ・ブッシュをやり玉に挙げてもブッシュは結局は再選された。先の大統領選挙でオバマ政権が誕生したのは、マイケル・ムーアの主張が浸透したからではなくアメリカの経済状況が悪くなったからである。そのオバマ政権が取り組む国民皆保険制度は受益者たる当のアメリカ国民からも反発を浴びている。

 だから彼はこの映画の最後で「皆さん一緒に戦ってください」と穏やかに呼びかけ、そして「僕は少し休もうと思う」と力なく語っていた。マイケル・ムーアは権力者を攻撃することに疲れたのではなく、自分の投げた石に全く反応しない社会に落胆しているように思えた。

 どうも自分の中ではマイケル・ムーアとパゾリーニが重なって見えてしまう。パゾリーニの映画はいくつも見ていないのだが、どちらも映像の力を信じ、自分たちの主張に人々が啓蒙される時が来るのを信じて、そしてその思いに破れていった。「キャピタリズム」の次があるとしたら、これだけ搾取されてもまだ気付かないアメリカの一般市民を攻撃するような内容になってしまうように思う。パゾリーニの最後の映画「ソドムの市」は(見ていないが)、それまでの難解だったり牧歌的だったりといったクッションを取り去り、観客に直接投げ込んだウンコだったのではないかと想像する。

 マイケル・ムーアは一般市民にウンコを投げる直前で思い留まった。いつかまたアメリカ社会の歪みを俎上に乗せた映画を撮るのだろうが、これまでのようなユーモラスな搦め手は取らないだろうという感じがする。

こんな人にオススメ:自由って何だろうねえ。

ロフト.

 高級デザインマンションの最上階を共有する5人の男。彼らはそこを秘密の場所として、主に女とハメるために使っておりました。しかしある日、そこには手首を切って死んだ裸の女が横たわっていてサア大変!

 なんだか押尾学の事件を彷彿とさせますが、どこを切ってもショボイ現実のそちらとは違い、「ロフト.」はストーリーが二転三転する、なかなか見応えのあるサスペンスでした。ガチャガチャしたカメラワークは好きにはなれませんが、映画ではなく2時間もののサスペンスと考えれば飽きずに最後まで楽しめます。結構本格的なミステリ仕立てになっているので「誰が犯人か?」の謎を解く楽しみもあるのですが、しかしこの手のプロットの弊害としては登場人物が矢鱈と多くなってしまうことで、推理小説だと表紙をめくると登場人物の名前と略歴が書いてありますが、あれを頭に入れて読み進めるのが一苦労だったりします。外人の名前は余計に覚えづらいし。

 しかしその点この映画は非常にこなれていて、短いシーンでキャラクターを印象づけるのが上手かった。5人の男達や彼らの細君の微妙な性格の違いを顔の印象や端々のセリフで表現しており、さらにロフトに招き入れる愛人や一見無関係そうな権力者のオヤジ共など、大勢が入り乱れてスピーディーに展開する上に過去の回想が頻繁に入る中で、しっかりとストーリーが頭に入ってくるように作ってあります。

 ただなんちゅーかね・・・高級マンションのロフトが舞台な所とか、その他もデザイン建築ぽいロケがほとんどで、そこで裕福そうでも下品な中年オヤジ達が群れる様が非常にレオン的な感じがしてね、主人公はまさにちょい不良オヤジだし。しかもこの高級マンションのような物件を、これはレオンじゃなくて休刊したジーノだったかな?とにかくその手の雑誌の広告で「透け別宅」なんてトホホなネーミングで紹介していた記憶が蘇って白けてしまった。もうね、声に出して読んでみてよ透け別宅。こんなさもしいファンタジーじゃそりゃ雑誌もつぶれるわ、読んだ事ないけど。レオンのWEBサイト見たら未だにジローラモがちょい不良とかやってるし・・・もう痛々しい。

 という訳で、「ロフト.」には罪はないものの、今の日本じゃおもいっきりバカにされそうなアイテムばかりが集まった映画でございました。

こんな人にオススメ:レオン的なものに惹かれた中年諸子は自戒のつもりで。

抱擁のかけら

 この映画のペネロペ・クルスは、当初は大企業の秘書の役。それはいいとして、そのビジネスモードのペネロペの口角が明らかに弛んでいてギョッとする。ああ、こんな現実観たくない!と後ろ姿のパンと張ったヒップに注目してもボディコンのスーツから透ける背中の贅肉に頭を殴られたようなショックを受ける。もう衝撃のあまりヒーッ!ヒーッ!と過呼吸気味になりながらそれでも縋るようにペネロペを見つめ続けると、彼女のトレードマークたる仰向けでも見事なカービングを維持していたオッパイが、それはさながら寒々しい宇宙に浮かぶオアシスのごとき豊穣な丸みを持つ惑星のようなオッパイが、早い話がペネロペのコスミック・オッパイが、つぶれたミカンみたいに扁平になってるうううううう~~~~っっっっ!!!

 えーと、この映画は早速観なかったコトに・・・いえいえとんでもない!「抱擁のかけら」は素晴らしく面白い映画でした。これまでの作品にもあったアルモドバルの人間に対する様々なこだわり、男と女であったり、ホモとオカマとゲイであったり、情熱や妄執や嫉妬や献身といった様々な愛の形であったり、そしてこれはこの映画で初めて出てきたと思われる父と息子との間のエディプス的な確執だったりと、登場人物のどの二人を切り取っても非常に濃密な人間関係が立ち現れてきます。

 これほど濃密な物語は、本来テレビドラマでじっくり描き出すべきスケールかもしれないが、それを2時間でギッチリ収めてしまうのがアルモドバル流。この映画の中の映画を製作するシーンでかつてのアルモドバル作品である「神経衰弱ぎりぎりの女たち」の設定を借りたシーンがあったが、こちらの映画は自分がまだ小僧の頃に観たからか、いまひとつピンと来なかった記憶がある。登場人物のキャラ設定の独特さは同じだが、「抱擁のかけら」のほうがドラマを織りなす人間関係が非常に濃い・・・のは既に言ったのだが、それにも関わらずとても納得がいくものになっている。これはアルモドバルが分かりやすくなったのか、自分がオッサンになったのか変態になったのか、きっと全部なのだろう。

 ぶっちゃけこの映画は「アルモドバルにしか作れない」という但し書き付きではあるが平日の昼にやるようなメロドラマだと思う。会話のシーンが非常に多いが、それらの多くが話者が変わるたびにピントを変えたり、数泊遅れてカメラが話者にパンするといった見せ方をしていて、安直にカメラを切り替えるよりはマシとはいえ、どうしても映画が細切れにされたような気がしてしまう。

 隠せない加齢を感じてしまったペネロペ・クルスですが、それでも振り返って笑顔を見せるシーン(←口角が見事にあがっている)やヘプバーンやモンロー風のメイクで観客を見つめる姿はとても美しかった。上でああだこうだ言ってますが、ハリウッド女優のトウが立ったらポイと捨て去られる不遇に比べれば、アルモドバル監督作品での彼女は年をとってもオッパイが垂れても(泣)魅力的な役を演じていくだろうと思う。ペネロペ・クルスに限らずアルモドバル映画の中の女性は、とても自由でのびのびと存在しているように見える。

こんな人にオススメ:ペネロペ&アルモドバルなのに上映館数が少な過ぎる!ナゼ!?