こんにちは!生チョコぽん酢です。
常識とは何なのでしょうね??
ここ数年はこんなことを漠然と考える機会が増えました。
私はあまり目立たず、常識人として普通に生きることを望んでいます。
しかしコロナ禍が始まり、常識人として普通に生きることがどれだけ難しいかを痛感させられる日々です。
ワクチン禍が始まった頃は「ワクチンを打つのが常識」となり、私は「そんな常識ならくそくらえ」となってしまいました。
私の中の常識では、全国民に、もっと言うと世界中の人々に接種するものであれば、安全性において慎重には慎重をきさなければならない。
その上で医療行為の強制はあってはならない。
というものでしたが、3年前から始まった新しい社会秩序では、今までの常識が非常識になるのでした。
先日ふれた遺伝子治療の話もそうですよね。
従来なら遺伝子に作用する可能性のある治療では、子供を作ることは諦めなければいけないという常識も、今では非常識。
こんなことを考えていると、ふと昔話を思い出すのでした。
私がやっている搬送事業(介護タクシーや民間救急や福祉タクシーといわれる仕事)はお葬式の仕事が時々あります。
あの日も「おふくろの葬式があるから施設から父親を葬儀場まで連れて来てほしい」みたいな依頼でした。
依頼通り斎場にお連れしたところ「人手がないから中まで付き添って欲しい」と言われまして。
時間的には問題なかったのですが、服装なのですよ。
当時の制服は上下白。
お葬式で着る喪服とは真逆にある存在です。
真っ白の服で真っ黒の集団の中を歩くと目立ってしまうし、常識的に考えて不謹慎ですよね。
だから私は「構いませんが、このような服装なので、失礼がないか住職に聞いてもらえませんか?」と言い、一緒に聞きに行きました。
そしたら
住職「問題ありませんよ。昔は皆さん喪服は白でしたから不謹慎ということもありません。」
私「・・・・え」
とりあえず仕事に集中しよう。
実際に真っ白な服で中を歩いていても、誰から怒られることもなければ、特に嫌な目を向けられることもありませんでした。
逆の立場で考えてみた場合でも、別に変な気はしませんし「あー、こういうものなのか」と気付きを得られたのを覚えています。
無事に仕事を終え、さっきの気になる言葉を調べてみました。
何、昔は白かったってw
で、その結果分かったことは次の通りです。
お葬式で着る服が黒くなったのは戦後ww
正確には戦中ですね。
そもそも日本の長い長い歴史において、お葬式には白い服を着るのが常識でした。
しかし明治維新後に欧米の文化が入ってきたことで、欧米かぶれの日本人がお葬式は黒いスーツでキメるように。
でも当時は少数派です。
傾向としては[偉い人が死んだ時には黒いスーツ]という感じだったみたいですね。
そりゃそうです。
明治維新後の偉い人って、あっち側の人じゃないですか(おっと)。
なのでそういう人が死んだ時だけ、黒いスーツ。
庶民は当然、白い喪服です。
そこから時は流れ、第二次世界大戦中。
戦死者がたくさん出て、お葬式が頻繁にひらかれるようになりました。
戦争で亡くなっ人=英霊
となるわけですが、当時の日本はかなり欧米化が進んでいましたから、上記のような[偉い人が死んだ時には黒いスーツ]というような流れになっていったようです。
もちろん黒いスーツの流れが進んだのには別の背景もあります。
先ほど説明したように、お葬式が頻繁に開かれることで、白い喪服を清潔に保つのが難しくなったのだとか。
当時は泥道も多く、雨の日なんかは裾が茶色くなってしまいますからね。
黒なら泥汚れも目立たないし、英霊のお葬式の服装としても相応しいし(戦前までは偉い人のお葬式=黒いスーツという印象だった為)で、最大限の敬意を示すことができたわけです。
なので第二次世界大戦中から徐々にお葬式の黒スーツ化が進んで、今に至る。
今では白喪服を着用する地域は本当に限定的で、ほぼ99%は黒喪服ですものね。
常識で語られるのは黒。
でも皆が知らないだけで、実は白も常識の範囲、というか白の方が歴史が長いわけです。
だから白喪服で行ったところで、誰から怒られることもなければ、分かる人には分かる。
第二次世界大戦が節目となり、本当に色々な物が変化しました。
言葉の意味も変わったし、一部の漢字も変わった。
今ではそれが常識。
私達が気付かないだけで、一体どれほどの常識が挿げ替えられてきたのだろうか。
考えれば考える程、悲しい気持ちになります。
いつかの記事でも書きましたが、二礼二拍一礼についても同様です。
今までの経験からも、段々と疑わしく思えてきています。
なんかこう、日本ぽくないというか。
こんなこと言ったら神社の人に怒られてしまいますよね。
とまぁここらへんで話をまとめます。
常識とはファッションと同じで、その時その時の流行です。
ファッションの流行はアパレル業界とマスメディアが作り上げるものだから「来年は〇〇が流行る」という予言ができます。
つまり常識とは世の中の一部の層とマスメディアが作り上げるものだから「来年は〇〇が流行る」という予言ができるわけです。
そしてその一部の層が作り出す流れに、日本は長い年月をかけて浸食されて行っています。
これは日本だけではなく世界でも同様です。
まるで世界がその1つの思想に収束しているかのようでもあり、なんとも不気味さを感じざるを得ません。
しかし、その一部の層は一定のルールに沿って進めていることもわかります。
それは我々庶民の無関心により、見落とされがちなだけ。
実際にそうした国民が増えすぎてしまったせいで、常識という上辺だけのことにとらわれ過ぎてしまい、
自称常識人とでも言いますか、本質が何も見えていない人間ばかりになってしまいました。
例えば上記の例だと、お葬式に白喪服を着てきた人に対して「お前なんだその恰好は!不謹慎だぞ!」みたいな。
ワクチンを打ってない人に「ワクチンを打たないなんて非常識だ!早く打ってきなさい!」とか。
マスクしてない人に「マスクをするのは常識だろ!馬鹿者が!」とか。
上辺だけの薄っぺらい常識に踊らされながら生きるのは、人というよりもノンプレイヤーキャラクターに近いですね。
同調圧力とは無知・無関心から派生する心理なのでしょう。
そういう人に振り回されるのも勿体ないことなので、我々は自分軸で、本質を見ながら正しく真ん中で生きていきましょうね。
おわり
(コミュニティやってます!)
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