中杉弘の人間の探求

中杉弘の人間の探求

思想・哲学・歴史・宗教の宝庫!読めば読むほど面白い!鋭い切り口で一刀両断。中杉ワールドへようこそ。

◆2024年に出版された本の紹介◆

法華経と量子力学(新書)
2500年前にお釈迦様が見た、量子の世界を解き明かします!
定価1,800円(税別)

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■本の紹介
現代では、様々なユーチューバーが、「仏教と量子力学」について語っていますが、どれも核心を突いたものはありません。
 僕の『法華経と量子力学』の講義では、仏教と量子力学の関係を明らかにしていきたいと思います。実のところを言うと、それは「法華経から見た、量子力学」ということです。本講義により、2500年前にお釈迦様の見た、量子の世界をt解き説き明かしていきたいと思います。










乱世を生きる
法華経と量子力学の智慧
定価1,800円(税別)

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■本の紹介
今は乱世です。戦後、70年も経つと、社会が行き詰ってきます。
共産主義、自由主義などの理念が崩壊して、通用しなくなっています。
その中で我々は、「これから、どのように生きたらよいのか?」という指針が必要です。
それが、法華経の学びです。
最近、量子力学と仏教の関係を説いたYouTubeがさかんに出ています。
仏教と量子力学は、どのような関係にあるのでしょうか。
これからの乱世は、共産主義も、自由主義も通用しません。
「乱世を生きる」ということは、法華経と量子力学の智慧を学ぶことが大切です。
本書は、乱世を生きる皆さんに、法華経と量子力学の関係をわかりやすく説いています。
「法華経と量子力学」の始まりの書です。




池田大作の七つの大罪
創価学会の故・池田大作氏は、何をやってきたのでしょうか?
これを読むと、池田大作の七つの大罪がわかります!

定価1,500円(税別)
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■本の紹介
創価学会の池田大作氏(95歳)が、2023年11月15日にお亡くなりになりました。
池田大作氏は、創価学会で何をやってきたのでしょうか?
創価学会という宗教団体でありながら、公明党という政治団体をつくり、今では政権与党に入り、憲法改正を阻止しています。
創価学会の旗は、韓三色です。何故、韓国の旗を創価学会の旗にしたのでしょうか?
ここで池田大作の七つの大罪について、解き明かしていきたいと思います。
ご一読いただきましたら、幸いです。

人類を救う 100万人の法華経入門 『妙法蓮華経妙音菩薩品第二十四』について 15


 「是の妙音菩薩品を説きたもう時、妙音菩薩と倶に来れる者八万四千人、皆現一切色身三昧を得、此の娑婆世界の無量の菩薩、亦是の三昧、及び陀羅尼を得たり。」
 
是の妙音菩薩品を説きたもう時、妙音菩薩と倶に来れる者八万四千人、皆現一切色身三昧を得て、此の娑婆世界の無量の菩薩は、亦是の三昧、及び陀羅尼を得たのです。

陀羅尼とは、呪文です。呪文を唱えると仏になれるのです。呪文の始めは、インドのお坊さんが修行していると、毒蛇がでてきたのです。毒蛇が一番恐れるものがクジャクです。クジャクが羽をいっぱい広げて、「クエッ、クエッ」と鳴くと、蛇は恐れたのです。

クジャクの声の真似をして「クエッ、クエッ」と森の中に入ると、毒蛇が逃げたのです。クジャクは毒蛇を食べてしまうのです。

クジャクがでてくると毒蛇は恐れて逃げてしまうのです。修行者は、「言葉には、相手を制する力があるのではないか?」と考えたのです。そこで森に入るときには、「クエッ、クエッ」と、クジャクの鳴き声の真似をしたのです。

そして「もっと他の陀羅尼もあるのではないか?」と考えたのです。「羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶。(ガティーガティー パーラガティ パラサンガティ ボーディスバーハ-)」これも呪文の朱です。「これを唱えると、仏になれるのではないか?」と考えたのです。

そのような呪文だけを勉強することを陀羅尼といいます。法華経の教典では、呪文はサンスクリット語から、漢訳に訳しているのですが、それだけは訳せません。訳せるわけがありません。「ガティーガティー」など、どうやって訳するのでしょうか? そのような漢語に訳せない文章は、サンスクリット語の音をそのままとって、漢字に当てはめたのです。
 「爾の時に妙音菩薩摩訶薩、釈迦牟尼仏、及び多宝仏塔を供養し已って本土に還帰(げんき)す。」
 爾の時に妙音菩薩摩訶薩は、釈迦牟尼仏、及び多宝仏塔を供養し已って本土に帰ったのです。
 「所経の諸国六種に震動して、宝蓮華を雨らし、百千万億の種々の妓楽を作(な)す。」
 所経の諸国六種に震動して、宝蓮華を雨らし、百千万億の種々の妓楽を作(な)したのです。
 「既に本国に到って、八万四千の菩薩の圍繞せると、浄華宿王智仏の所に至って、仏に白して言さく、」
 既に本国に到って、八万四千の菩薩を囲んで、浄華宿王智仏の所に至って、仏に白して言さく、
 「世尊、我娑婆世界に到って衆生を饒益し、釈迦牟尼仏を見たてまつり、及び多宝仏塔を見たてまつりて礼拝供養し、又文殊師利法王子菩薩を見、及び薬王菩薩、得勤(とくごん)精進力菩薩、勇施(ゆぜ)菩薩等を見る。」
 世尊は、我娑婆世界に到って衆生に利益を与えてきました。釈迦牟尼仏を見たてまつり、及び多宝仏塔を見たてまつりて礼拝供養し、又文殊師利法王子菩薩を見、及び薬王菩薩、得勤(とくごん)精進力菩薩、勇施(ゆぜ)菩薩等を見ました。
 「亦(また)是の八万四千の菩薩をして、現一切色身三昧を得せしむ。」
 亦(また)是の八万四千の菩薩をして、現一切色身三昧を得せしめたのです。
 「是の妙音菩薩来往(らいおう)品を説きたもう時、四万二千の天子(てんし)無生法忍を得、華徳菩薩法華三昧を得たり。」

是の妙音菩薩は来往(らいおう)品を説きたもう時、四万二千の天子(てんし)無生法忍を得て、最終的には華徳菩薩は法華三昧を得たのです。

無生法忍とは、「生じることも滅することもない」という真理を認識することです。華徳菩薩は、無生法忍を得て、仏になったのです。


妙法蓮華経巻第七

 

 

『妙法蓮華経妙音菩薩品第二十四』

是の妙音菩薩品を説きたもう時、妙音菩薩と倶に来れる者八万四千人、皆現一切色身三昧を得、此の娑婆世界の無量の菩薩、亦是の三昧、及び陀羅尼を得たり。
「爾の時に妙音菩薩摩訶薩、釈迦牟尼仏、及び多宝仏塔を供養し已って本土に還帰(げんき)す。

所経の諸国六種に震動して、宝蓮華を雨らし、百千万億の種々の妓楽を作(な)す。

既に本国に到って、八万四千の菩薩の圍繞せると、浄華宿王智仏の所に至って、仏に白して言さく、

世尊、我娑婆世界に到って衆生を饒益し、釈迦牟尼仏を見たてまつり、及び多宝仏塔を見たてまつりて礼拝供養し、又文殊師利法王子菩薩を見、及び薬王菩薩、得勤(とくごん)精進力菩薩、勇施(ゆぜ)菩薩等を見る。
亦(また)是の八万四千の菩薩をして、現一切色身三昧を得せしむ。

是の妙音菩薩来往(らいおう)品を説きたもう時、四万二千の天子(てんし)無生法忍を得、華徳菩薩法華三昧を得たり。

 

妙法蓮華経巻第七

 

※次回は、『妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五』です。ご期待ください!

 

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人類を救う 100万人の法華経入門 『妙法蓮華経妙音菩薩品第二十四』について 14

 

「世尊、是の菩薩、何なる三昧に住して、能く是の如く在所に変現して衆生を度脱する。」(続き)

仏教は、繰り返し同じことを説いています。仏の命は、永遠です。それならば、我々の命も永遠です。永遠であることがわかれば、生死はなくなるのです。

「私の生死がなくなるのですか?」というと、その通りです。生命は、永遠に存在するので、生死、生死とめぐりゆくのです。ただし、生まれて死んで、また生まれるのです。生まれるたびに、様々な苦しみがあります。それは、もともとある本有の生死であるから、恐れることはありません。

生まれたのはいいけれども、永遠に年を取らない一歳の赤ん坊がいたら、おかしいでしょう。生まれたものは、どんどん成長していくのです。赤ちゃんは、子供になり、成人して、老人になり死んでいくのです。

その間に様々な苦しみがあります。それは、本有の生死です。このように思った瞬間に苦労はなくなるのです。苦労があったほうが面白いのです。何もなかったら、どうするのでしょうか? 

生まれたのはよいけれど、単調で何もない一日が過ぎて、明日も何もない人生を続けていたら、面白くもなんともありません。年頃になったら恋愛をして、結婚して、子供をつくるのです。子供をつくるとまた悩みもあります。それが、本有の生死です。

本有の生死とわかった人は、これしきのことで、へこたれたりしません。我々は、楽しみのために苦しみがでてきているのです。苦しみは楽しみです。苦しみがあるから、楽しみがあるのです。何も変化がなければ楽しみもありません。

これを知ることを、煩悩即菩提というのです。仏は常に少病少悩です。少しの病気をして、少しの悩みはあります。でも、煩悩があって、人生を楽しませてくれているのです。これが煩悩即菩提です。

悩みがあるから、我々は生きているのです。煩悩即菩提です。生死即涅槃です。貴方たちが生まれて、死んでいくという血脈の中に生死一大事の血脈があるのです。すると、最高に楽しい人生になってくるのです。

あの小さな家に生まれて貧乏だったけれども、最後は成功して何も困ることはありません。人生は変化をしているから面白いのです。「もう、そろそろご臨終です」と言われて、「ああ、そうですか。また、よろしくお願いいたします。では、さようなら」そのような軽い気持ちで旅立っていけるのです。

永遠の生命がわかった人は、何も困りません。また、生まれてくるのです。生死、生死と変化をしていくのです。これが、生死即涅槃です。
「仏、華徳菩薩に告げたまわく、」
 仏、華徳菩薩に告げたまわく、
 「善男子、其の三昧を、現一切色身と名づく。」
 善男子よ、其の三昧を、現一切色身と名づけます。

三昧とは、一心に修行をすることです。貴方は今、修行するために肉体を持っているのです。
 「妙音菩薩、是の三昧の中に住して、能く是の如く無量の衆生を饒益す。」
 妙音菩薩は、是の三昧の中に住して、能く是の如く無量の衆生に慈悲の心をもって利益を与えます。

妙音菩薩は、「生死即涅槃、煩悩即菩提、人生とはそのようなものだ」ということを知っているのです。それが妙音菩薩の三昧の修行の結果です。そうでないと人生が怖くなってしまうのです。病気も怖い、事故も怖い、戦争も怖い、嵐も怖い、・・・・。人生は怖いものだらけです。そんなもののために「助けてくれ」と叫んでも、仏様は助けてくれません。

仏様が助けてくれることは、「こんなことは、何でもないのだよ」と知ることです。人生の目的は、妙法蓮華経を生きているということを知ることです。よいことも、悪いことも、すべて自分がやってきたことです。それが原因になって現実がでてくるのです。

生命は生死、生死を永遠に繰り返していくのです。原因と結果がわかっていれば、その人生は楽しいのです。「俺は前世で人殺しをしたな。それが原因で俺は今、貧乏をやっているのだな」とわかってくるのです。

天下を取った秀吉は、「俺の政治力には誰も敵わない、恐れ入ったか!」となるのです。それで、また悪因を積むのです。悪因を積むから、また戦国時代に生まれるのです。「オギャー」と生まれたら、戦国時代です。

「嬉しいな~、また野山を駆けずり回って敵を殺して、天下を取るのだ。戦はいいな~」と思っているのです。そんなことを普通の人は思わないのです。

ヤクザのK会の会長も「闘争のない人生なんて、面白くもなんともない。人生は、殺し合いをやることが楽しいのだ。何もない平穏な人生なんて、俺はまっぴらごめんだね」ということを言ったのです。

そのような人は、修羅界の中に生まれてこないと、おちつかないのです。「暴れて殺し合っている世界こそが、私の世界だ」と言っているのです。

 

 

『妙法蓮華経妙音菩薩品第二十四』

世尊、是の菩薩、何なる三昧に住して、能く是の如く在所に変現して衆生を度脱する。(続き)

仏、華徳菩薩に告げたまわく、

善男子、其の三昧を、現一切色身と名づく。
妙音菩薩、是の三昧の中に住して、能く是の如く無量の衆生を饒益す。

 

 

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人類を救う 100万人の法華経入門 『妙法蓮華経妙音菩薩品第二十四』について 13

 

「世尊、是の菩薩、何なる三昧に住して、能く是の如く在所に変現して衆生を度脱する。」

仏の姿には、三つあります。それを法報応(ほっぽうおう)の三身といいます。三身とは、報身(ほうしん)如来、法身(ほっしん)如来、応身(おうじん)如来です。

法身如来とは、仏が覚った真実・真理です。

報身如来とは、最高の覚りの智慧をはじめ、仏と成った報いとして得た種々の優れた特性のことです。

応身如来とは、人々を苦悩から救うためにそれぞれに応じて現実に現した姿のことです。

例えば、「貴方は仏像を何のために造っているのですか?」と聞くと、「はい、私は応身如来様をつくろうとしています」と答えるのです。応身如来とは、仏様の姿形のことです。

経典を、論、釈で解釈しようと思っている人は、仏の智慧を勉強しているのです。それは、報身如来を勉強しているのです。

それから、仏のもっている生命力が法身如来です。この三つを法報応の三身といいます。命そのものが法身如来です。仏様の智慧は、報身如来です。仏様は姿をもっています。これを応身如来といいます。

貴方の前に出てきた仏様は、どんな智慧をもっているのでしょうか? お姿はどんな姿でしょうか? 仏様は、三十二相八十種好の立派な応身如来の姿をしています。このように見ていくのです。

仏というものは、法報応の三身如来です。仏を三つに分けてみていくのです。智慧、命そのもの、お姿に分けていくのです。これが整っているのです。バラバラの仏はあり得ません。

姿は仏だけれども、やっていることは下卑ています。これは、「ニセ仏」というのです。姿が仏様ならば、衆生を救おうとする智慧がいつも働いていらっしゃるのです。これは報身如来です。

「何のためにこのお姿で、この地上に出てきたのですか?」と聞くと、それが応身如来です。仏様の命そのものが法身如来です。仏はこの三つがそろっているのです。

この三つが整っていない人を「詐欺師」というのです。姿ばかり仏の真似をして、中身が何もありません。今の坊主がそうです。袈裟を着て、衣を着ていますが、中身は全然整っていません。

坊主は、衆生を救済する仏の法を求めていません。経典は何が書かれているのは、サッパリわからないので、お経だけを唱えているのです。

「爾時世尊 従三昧 安詳而起~」、「ポクポクポク」と木魚を叩いて、お経を唱えているのです。坊主の姿形は立派ですが、その中身は空っぽです。

仏道修行者は、仏のような立派な姿をつくらなければいけません。そうしなければ、民衆は仏様の説法を聞こうとは思いません。

仏の姿、智慧、命そのものの働きの三つである、法報応の三身が整って、初めて立派な仏です。また、これは修行の目的でもあります。

仏像ばかり拝んで、ペコペコしていたら、応身如来を拝んでいるのです。応身如来だけを拝んだら、仏教を悟ることはできません。「仏様の智慧を拝みたいから、智慧の姿を出してくださいませんか?」というのは、報身如来です。

「仏様はここにいついらして、またどこへいくのですか?」と見ていくと、仏の永遠の生命が見えてくるのです。仏の生命は、法身如来です。この三つを仏というのです。

仏は、法報応の三身如来ですから、神通力が身についてくるのです。「生命は永遠だ」ということを知らない人には、神通力などでません。「滅不滅の滅」です。我らが滅度することは、本物の滅度ではありません。「滅不滅」としての滅なのです。それがわかった人は、永遠の生命を見ることができるのです。(14に続く)

 

 

『妙法蓮華経妙音菩薩品第二十四』

世尊、是の菩薩、何なる三昧に住して、能く是の如く在所に変現して衆生を度脱する。

 

 

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人類を救う 100万人の法華経入門 『妙法蓮華経妙音菩薩品第二十四』について 12


 「乃至応に、滅度を以って得度すべき者には、滅度を示現(じげ)す。」(続き)

「どうしてこうなったのか?」全て因果があるのです。自分のつんだ因により花が開くことが人生です。貴方は、自分でそうは思えないでしょう。法華経は、そのように説いているのです。

因果倶時不思議の一法ですから、自分が積んだ因を自分で刈り取っているのです。だから、因果倶時です。因と果が同時です。因がない果もありません。自分でやったことを自分で刈り取っているのです。

だから、誰も恨むことはありません。自分でやってきたことを原因にして、今の結果があるのです。誰を恨むのでしょうか? 恨むことなどありません。人生とは、そのようなものだとわかって進んでいくのが人生です。それが自灯明です。

自灯明と、南無妙法蓮華経と、妙法蓮華経は、同じです。言葉で言うと違いますが、自灯明は中身がありません。「自ら明かりを灯して進みなさい」と言われているのです。

「では、どのように明かりを灯して進むのでしょうか?」ということは書いてありません。自灯明は究極的な教えではありません。「明かりを灯して進みなさい」と言われているのです。進んでいく形を表したのが、自灯明です。自灯明に教えはありません。「自分を妙法蓮華経と知って、全ての原因は自分にあるのだ」ということを知って、進んでいくのです。

仏道を得て、悟ることができれば最高の人生です。どんなにお金をもっても、どんな権力をもってもわびしいものです。仏道修行でつかんだものは消えません。もう自分の姿がわかっているのです。「私は南無妙法蓮華経だったのか」とわかるのです。それが自灯明です。

得度して、「仏道を学びたい」と言ってきた者に対しては、本当の姿を現じてもよいのです。「お前は、私がわかったのか。実は私は仏だったのです。今、本当の姿を現してあげましょう」と言うと、パッと金色の仏身に変わっているのです。三十二相八十種好相の姿に現じて、「貴方は、仏様だったのですか」とわかるのです。

水戸黄門もこれと似ています。「助さん、格さん、もういいでしょう」とご老公様が言うと、「静まれ~、静まれ~、この紋所が目に入らぬか。ここにおられるお方を誰だと心得る。先の副将軍、水戸光圀公なるぞ!」と決め台詞を言うのです。バ~ンと印籠を出すと悪代官も「はっはー」とひれ伏すのです。

妙音菩薩も同じです。法を説くときには、越後のちりめん問屋のご隠居の恰好をしないと、法は説けません。それまで一緒にやってきて、「法華経を求めよう」と思うまで一緒にやってくるのです。

法を説く段階で、壇の上に登って、「実は、私は法華経を長年説いてきました」と言うのです。すると、熊さん、八っつぁんが驚くのです。そのようなことです。
 「華徳、妙音菩薩摩訶薩、大神通智慧の力を成就せること、其の事是の如し。」
 華徳よ、妙音菩薩摩訶薩、大神通智慧の力を成就せること、其の事是の如し。
 「爾の時に華徳菩薩、仏に白して言さく、」
 爾の時に華徳菩薩は、仏に白して言さく、
 「世尊、是の妙音菩薩は、深く善根を種えたり。」
 世尊、是の妙音菩薩は、深く善根を種えています。
 「世尊、是の菩薩、何なる三昧に住して、能く是の如く在所に変現して衆生を度脱する。」
 世尊、是の菩薩、何なる三昧に住して、能く是の如く在所に変現して衆生を度脱してきたのです。

どうして、妙音菩薩はこんなことができるのでしょうか? いかなる三昧を修行してきたのでしょうか? それを教えていただきたいと思います。三昧に入っているから、どのような姿でも自由に生まれることができるのです。妙音菩薩は、自由自在に姿を変えることができるのです。(13に続く)

 

 

『妙法蓮華経妙音菩薩品第二十四』

乃至応に、滅度を以って得度すべき者には、滅度を示現(じげ)す。(続き)

華徳、妙音菩薩摩訶薩、大神通智慧の力を成就せること、其の事是の如し。
爾の時に華徳菩薩、仏に白して言さく、

世尊、是の妙音菩薩は、深く善根を種えたり。

世尊、是の菩薩、何なる三昧に住して、能く是の如く在所に変現して衆生を度脱する。

 

 

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人類を救う 100万人の法華経入門 『妙法蓮華経妙音菩薩品第二十四』について 11


 「若し応(まさ)に声聞の形を以って得度すべき者には、声聞の形を現じて為に法を説き、応に辟支仏の形を以って得度すべき者には、辟支仏の形を現じて為に法を説き、応に菩薩の形を以って得度すべき者には、菩薩の形を現じて為に法を説き、応に仏の形を以って得度すべき者には、即ち仏の形を現じて為に法を説く。」
 若し応(まさ)に声聞の形を以って得度すべき者には、声聞の形を現じて為に法を説き、応に辟支仏の形を以って得度すべき者には、辟支仏の形を現じて為に法を説き、応に菩薩の形を以って得度すべき者には、菩薩の形を現じて為に法を説き、応に仏の形を以って得度すべき者には、即ち仏の形を現じて為に法を説くのです。

声聞、縁覚、菩薩、仏界ですから、声聞も聖なる衆生に入っているのです。声聞でも、何も修行していない人よりもよいのです。地獄界の衆生とは、全然違います。声聞のために身を現じて、この法を説いてあげるのです。

辟支仏は、今でもいます。ガンジス川に入って修行をしたり、断食したりする修行者がいるのです。それらの修行者は、法がわかっても誰にも説きません。単己の菩薩(たんごのぼさつ)ともいいます。「もう私は悟りました。私は聖者です」と言うのですが、誰にも法は説きません。

私が修行して法がわかったのだから、わからない人間に法を説いてもわからないです。だから、「私は誰にも法は説きません」と言うのです。これが単己の菩薩であり、辟支仏です。

辟支仏は、仏の一種ですが人に法は説きません。小さい境涯の仏です。それを救うために自分もガンジス川に入り、断食行をして、同じことをやらないと、その人たちは救えません。

断食をやっている修行者をガンジス川の反対岸から眺めていて、「おーい、お前たち、そんなことをやっても救われないぞ。仏教は法華経だよ」と言っても、「何を言っているのだ、うるさい奴だな」くらいにしか思いません。修行者は、苦行をして自己満足をしているのですから、人の話を聞きません。

我々の日常生活においても同じことです。相手のことがわからないと、折伏はできません。相手の心がわからないと折伏などできません。相手の心がわかるということは、相手の話を親身になって聞いてあげるのです。

すると、同じ境涯に落ちているように見えるけれども、全然違うのです。こちらは、仏界の法をもっているのです。

法を教えるためには、相手と同じ境涯まで身を落として、「私も労働者ですよ。労働者は大変ですね」というように、相手と同じ立場に立って、法華経を広めていかないと、相手を救うことはできません。

高僧で高い場所にいて、すましていて、「えっへん、これから説法をするぞ。みんな集まれ!」などというものではありません。最初の修行は、同じ境涯に身を落として、説法をするのです。身は落としていても、心は落ちていません。

 「是の如く種々に、応に度すべき所の者に随って、為に形を現ず。」
 
是の如く種々に、応に姿形は、みんなと同じように落として、衆生を救うのです。
 「乃至応に、滅度を以って得度すべき者には、滅度を示現(じげ)す。」
 乃至応に、滅度を以って得度すべき者には、滅度を示現(じげ)す。

私が死んだ後に、修行するという者がいれば、私は今すぐに滅度します。仏様は「私は今日の12時に滅度します」と言ったのです。

「お釈迦様、滅度するのですか?」と弟子が聞くと、「そうだよ、私が滅度しないと、君たちはわからないでしょう」と言うのです。仏様が永遠に弟子たちの前にいて、永遠に法を説いてくださると思うと、人間は怠け心があるから、「いつでも仏様に聞ける」という気持ちになってしまうのです。

仏様が「滅度する」と言ってしまったら、もう法は聞くことはできません。だから、真剣になって聞くのです。

お釈迦様は、涅槃経の中でそのように言われたのです。弟子たちが泣いて、「滅度しないでください。我々は、お釈迦様が滅度された後に、どうやって修行をしたらよいのでしょうか?」と言ったのです。

すると、お釈迦様は、「自灯明だよ」と言われたのです。自ら明かりを灯して進むのです。それで気が付くでしょう。南無妙法蓮華経と、自灯明は同じです。我々が自ら明かりを灯して進むということは、南無妙法蓮華経に照らして、自分の人生を見ていくのです。(12に続く)

 

 

『妙法蓮華経妙音菩薩品第二十四』

若し応(まさ)に声聞の形を以って得度すべき者には、声聞の形を現じて為に法を説き、応に辟支仏の形を以って得度すべき者には、辟支仏の形を現じて為に法を説き、応に菩薩の形を以って得度すべき者には、菩薩の形を現じて為に法を説き、応に仏の形を以って得度すべき者には、即ち仏の形を現じて為に法を説く。
是の如く種々に、応に度すべき所の者に随って、為に形を現ず。
乃至応に、滅度を以って得度すべき者には、滅度を示現(じげ)す。

 

 

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人類を救う 100万人の法華経入門 『妙法蓮華経妙音菩薩品第二十四』について 10


 「諸有(しょう)の地獄、餓鬼、畜生及び衆の難処(なんじょ)、皆能く救済(くざい)す。」
 この経を聞くものは、地獄、餓鬼、畜生の中にいても、困難な場所にいても、皆助けます。
 「乃至(ないし)王の後宮(ごぐ)に於いては、変じて女身(にょしん)と為(な)って是の経を説く。」
 乃至(ないし)王宮の中においては、女官となってこの経を説くのです。
 「華徳、是の妙音菩薩は、能く娑婆世界の諸の衆生を救護する者なり。」
 華徳よ、是の妙音菩薩は、能く娑婆世界の諸の衆生を救護する者なり。
 「是の妙音菩薩、是の如く種々に変化し、身を現じて此の娑婆国土に在って、諸の衆生の為に是の経典を説く。」
 是の妙音菩薩は、是の如く種々に変化し、身を現じて此の娑婆国土に在って、諸の衆生の為に是の経典(法華経)を説く。
 「神通変化智慧に於いて、損減(そんげん)する所無し。」
 神通変化智慧に於いて、損減(そんげん)する所無し。

これを神通の力というのです。変化というのですから、変わるのです。龍神様、天、夜叉もでてきました。妙音菩薩は、変化するのです。同じ仏がでてくるのではありません。娑婆世界では形を変えて帝釈天や、梵天に形を変えるのです。妙音菩薩は、様々な形に変化する名人です。

海に行けば海の衆生のために、地獄へ行けば地獄の衆生のために法を説くのです。地獄へ逝った衆生は、いきなり仏界へは行けません。これは、有名な芥川龍之介の小説『蜘蛛の糸』に書いてあります。

地獄の衆生は地獄で苦しんでいます。仏様は「気の毒だな。みんなこの糸を登ってきなさい。そうすれば地獄から這い上がれますよ」と、クモの糸を垂らしたのです。

すると、一人、二人が登ってきたのです。それを見た他の連中が糸に飛びついて登ってくるのです。すると、糸がパッと切れて、衆生は地獄へ堕ちてしまったのです。誰も地獄から抜け出すことは、できなかったのです。ということは、地獄にいる人間を素晴らしい世界に連れていってあげようと思っても無理なのです。

むしろ、地獄の衆生に教える場合は、仏界から助けるのではなくて、自ら地獄の中に入って、「お前たち、いつまでも地獄界にいてはダメだよ」と言わなければわかりません。

看護師に身を現じて「法華経を信じていきましょうね」と言ったほうがよいのです。そのようなことを言っているのです。

地獄界の人と仏界の人は、境涯が違いすぎるのです。地獄界の衆生に「どのように法華経を信じ込ませていくのか?」ということが大事です。

地獄界の衆生を、怒らせないで、少しずつ境涯を上げていくのです。そのようなやり方をしていくのです。
 「是の菩薩は、若干の智慧を以って、明かに娑婆世界を照して、一切衆生をして各(おのおの)所知を得せしむ。」
 是の菩薩は、若干の智慧を以って、明かに娑婆世界を照して、一切衆生をして各(おのおの)所知を得せしめたのです。
 「十方恒河沙の世界の中に於いても、亦復是の如し。」
 十方恒河沙の世界の中に於いても、亦復是の如し。

妙音菩薩は、娑婆世界において、救おうと思う者の身を現じたのです。これが神通力です。人間は何か仕事をしていないといけません。何もしないで法華経の行者というわけにはいきません。仕事を通して、折伏を行じていくのです。

折伏とは、創価学会のように会に入会させることではありません。道理を教えていくのです。(11に続く)

 

 

『妙法蓮華経妙音菩薩品第二十四』

諸有(しょう)の地獄、餓鬼、畜生及び衆の難処(なんじょ)、皆能く救済(くざい)す。

乃至(ないし)王の後宮(ごぐ)に於いては、変じて女身(にょしん)と為(な)って是の経を説く。

華徳、是の妙音菩薩は、能く娑婆世界の諸の衆生を救護する者なり。

是の妙音菩薩、是の如く種々に変化し、身を現じて此の娑婆国土に在って、諸の衆生の為に是の経典を説く。

神通変化智慧に於いて、損減(そんげん)する所無し。
是の菩薩は、若干の智慧を以って、明かに娑婆世界を照して、一切衆生をして各(おのおの)所知を得せしむ 「十方恒河沙の世界の中に於いても、亦復是の如し。

 

 

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人類を救う 100万人の法華経入門 『妙法蓮華経妙音菩薩品第二十四』について 9


「或は梵王の身を現じ、或は帝釈の身を現じ、或は自在天の身を現じ、或は大自在天の身を現じ、或は天大(てんだい)将軍の身を現じ、或は毘沙門天王の身を現じ、或は転輪聖王の身を現じ、或は諸の小王の身を現じ、或は長者の身を現じ、或は居士の身を現じ、或は宰官(さいかん)の身を現じ、或は婆羅門の身を現じ、或は比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷の身を現じ、或は長者、居士の婦女(ふにょ)の身を現じ、或は宰官(さいかん)の婦女の身を現じ、或は婆羅門の婦女の身を現じ、或は童男(どうなん)、童女の身を現じ、或は天、龍、夜叉、乾闥婆、阿修羅、迦楼羅、緊那羅、摩睺羅伽、人非人等の身を現じて、而も、是の経を説く。」

或は梵王の身を現じ、或は帝釈の身を現じ、或は自在天の身を現じ、或は大自在天の身を現じ、或は天大(てんだい)将軍の身を現じ、或は毘沙門天王の身を現じ、或は転輪聖王の身を現じ、或は諸の小王の身を現じ、或は長者の身を現じ、或は居士の身を現じ、或は宰官(さいかん)の身を現じ、或は婆羅門の身を現じ、或は比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷の身を現じ、或は長者、居士の婦女(ふにょ)の身を現じ、或は宰官(さいかん)の婦女の身を現じ、或は婆羅門の婦女の身を現じ、或は童男(どうなん)、童女の身を現じ、或は天、龍、夜叉、乾闥婆、阿修羅、迦楼羅、緊那羅、摩睺羅伽、人非人等の身を現じて、而も、是の経を説いたのです。
 この妙音菩薩は、様々な身を現じて、仏様に供養してきたのです。様々な身を現じてきた功徳があります。王様の位から、バラモンになったり、居士の奥さんになったり、或いは天、龍、夜叉になって、仏様に供養をしてきたのです。

ここが大事です。我々は、様々な職業をもっています。看護師であったり、運転手であったり、会社員であったりしますが、その身で仏様に供養をしてきたのです。だから、また仏様に会えるのです。

ところが大金持ちになっても、仏を供養しないならば、その人の功徳は終わってしまうのです。来世は大金持ちには生まれません。明確です。仏様に供養するという気持ちがないと、どんな大金持ちに生まれても一回限りです。

「あなたはクシャトリア(王族)で生まれたのですか? 今回、仏様に供養しなければ、貴方の功徳はこれでおしまいです」と言われると、地獄へ逝くのです。

法華経は永遠の生命を説いているのです。何回も生まれても、仏様に供養をするのです。妙音菩薩は、様々な姿になり、この世に現れるたびに仏様に供養した因縁があるから、仏になったりして、貴方達を救うのです。

この観念がないと、仏様に供養することは、意味がなくなってしまうのです。大金持ちになろうが、有名な医者になろうが、ノーベル賞をもらおうと、そんなことは、たいしたことはありません。たまたま過去に「仏様に一回の供養をした」という功徳で、今世でノーベル賞をもらっているのです。

「貴方が、どうして不幸な目に遭うのか?」というと、その人は過去で仏様の悪口を言ったのです。それが因になって、何をやってもダメなのです。Y子がそうです。本人は、頭が狂っているからわかりません。わからないから、悪口を言うのです。

「何がわかるのか?」というと、それは来世に生まれた時にわかるのです。来世に生まれた時に「私はなぜ、こんなに不幸なのか?」というと、「お前は前世で、法華経を誹謗しただろう。ウソを言って、大衆に「こんな奴は信じてはいけない」と言っただろう。その罰で貧窮下賤(びんぐげせん)に生まれてのだ」と仏様に言われてしまうのです。

貧窮(びんぐ)とは、生活にひどく苦しんでいて、貧乏ということです。下賤(げせん)とは、下人です。貧しくて病気だらけで下人に生まれるのです。

野良犬は主人がいません。主人がいないから、ほっつき歩くのです。すると、子供に「汚い犬だな、あっちへ行け!」と石を投げられるのです。或いは、棒でぶたれるのです。

「何故、私は棒でぶたれるのでしょうか?」「お前が嫌いなんだよ」と言われて棒でぶたれてしまうのです。このようになってしまうのです。

棒でぶっている子供は「汚い犬だから、あっちへ行け!」という理由です。ぶたれている犬は、法華経誹謗の罰なのです。法華経誹謗の罰は、白癩(びゃくらい)の病を得るのです。白癩とは、癩病(らいびょう)です。現代で癩病は、治る病気になりましたが、昔は不治の病です。不治の病におかされてしまうのは、法華経誹謗の罰なのです。

妙音菩薩は、何回生まれても仏様に供養してきた功徳により、神通力があり、人を救うことができるのです。(10に続く)

 

 

『妙法蓮華経妙音菩薩品第二十四』

或は梵王の身を現じ、或は帝釈の身を現じ、或は自在天の身を現じ、或は大自在天の身を現じ、或は天大(てんだい)将軍の身を現じ、或は毘沙門天王の身を現じ、或は転輪聖王の身を現じ、或は諸の小王の身を現じ、或は長者の身を現じ、或は居士の身を現じ、或は宰官(さいかん)の身を現じ、或は婆羅門の身を現じ、或は比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷の身を現じ、或は長者、居士の婦女(ふにょ)の身を現じ、或は宰官(さいかん)の婦女の身を現じ、或は婆羅門の婦女の身を現じ、或は童男(どうなん)、童女の身を現じ、或は天、龍、夜叉、乾闥婆、阿修羅、迦楼羅、緊那羅、摩睺羅伽、人非人等の身を現じて、而も、是の経を説く。

 

 

 

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人類を救う 100万人の法華経入門 『妙法蓮華経妙音菩薩品第二十四』について 8


 「時に多宝仏、妙音に告げて言(のたま)わく、」
 時に多宝仏、妙音に告げて言(のたま)わく、
 「善い哉善い哉、汝能く釈迦牟尼仏を供養し、及び法華経を聴(と)き、並びに文殊師利等を見んが為の故に、此に来至(らいし)せり。」
 善い哉善い哉、汝能く釈迦牟尼仏を供養し、及び法華経を聴(と)き、並びに文殊師利等を見んが為の故に、此に来至(らいし)せり。

私の姿を見たいと思って、よくここによくきてくれましたね。
 「爾の時に華徳菩薩、仏に白して言さく、」
 爾の時に華徳菩薩、仏に白して言さく、
 「世尊、是の妙音菩薩は、何なる善根を種え、何なる功徳を修してか是の神力有る。」
 世尊、是の妙音菩薩は、何なる善根を種え、何なる功徳を修してか是の神力が有るのでしょうか。

世尊に、聞いているのです。この妙音菩薩は釈尊に会ったり、多宝如来に声をかけている善根をいつ植えて、このような大功徳を受けているのでしょうか? しかも、妙音菩薩は、神通力をもっています。
 「仏、華徳菩薩に告げたまわく、」
 仏、華徳菩薩に告げたまわく、
 「過去に仏いましき。」

過去に仏がいました。

「雲雷音王多陀阿伽度(うんらいおんのうただあかど)、阿羅訶(あらか)、三藐(さんみゃく)三仏陀と名づけたてまつる。」
 
雲雷音王多陀阿伽度(うんらいおんのうただあかど)、阿羅訶(あらか)、三藐(さんみゃく)三仏陀と名づけたてまつる。
 「国を現一切世間と名づけ、劫を憙見(きけん)と名づく。」
 国を現一切世間と名づけ、劫を憙見(きけん)と名づけたのです。
 「妙音菩薩二千歳に於いて、十万種の妓楽を以って、雲雷音王仏に供養し、並びに八万四千の七宝の鉢(はち)を奉上す。」
 妙音菩薩は二千歳に於いて、十万種の妓楽を以って、雲雷音王仏に供養してきたのです。並びに八万四千の七宝の鉢(はち)を奉上したのです。
 「是の因縁の果報を以って、今(いま)浄華宿王智仏の国に生じて、是の神力有り。」
 是の因縁の果報を以って、今(いま)浄華宿王智仏の国に生じて、是の神力が有ります。私にこのような功徳があるのは、仏様を供養してきたからです。
 「華徳、汝が意(こころ)に於いて、云何(いかん)。」
 華徳よ、汝の意(こころ)はどうなのですか?
 「爾の時に、雲雷音王仏の所(みもと)に妙音菩薩として、妓楽をもって供養し、宝器を奉上せし者、豈(あに)異人(ことびと)ならんや、」
 爾の時に、雲雷音王仏の所(みもと)に妙音菩薩として、妓楽をもって供養し、宝器を奉上せし者は、豈(あに)私と違う人ではありません。
 「今此の妙音菩薩摩訶薩是れなり。」
 今此の妙音菩薩摩訶薩は是れなり。私はそのようなことをやってきたのです。
 「華徳、是の妙音菩薩は、已に曾(かつ)て無量の諸仏に供養し、親近して、久しく徳本を植え、又、恒河沙等の百千万億那由他の仏に値(あ)いたてまつる。」
 華徳よ、是の妙音菩薩は、已に曾(かつ)て無量の諸仏を供養し、親近して、久しく徳本を植え、又、恒河沙等の百千万億那由他の仏に値(あ)うのです。
 「華徳、汝但妙音菩薩其の身此(ここ)に在(あ)りとのみ見る。」
 華徳よ、汝は但妙音菩薩其の身が此(ここ)に在(あ)りと見ているのです。
 「而も是の菩薩は、種々の身を現じ、処処に諸の衆生の為に是の経典を説く。」
 而も是の菩薩は、種々の身を現じ、処処に諸の衆生の為に是の経典を説いてきたのです。(9に続く)

 

 

『妙法蓮華経妙音菩薩品第二十四』

時に多宝仏、妙音に告げて言(のたま)わく、

善い哉善い哉、汝能く釈迦牟尼仏を供養し、及び法華経を聴(と)き、並びに文殊師利等を見んが為の故に、此に来至(らいし)せり。

爾の時に華徳菩薩、仏に白して言さく、

世尊、是の妙音菩薩は、何なる善根を種え、何なる功徳を修してか是の神力有る。

仏、華徳菩薩に告げたまわく、

過去に仏いましき。

雲雷音王多陀阿伽度(うんらいおんのうただあかど)、阿羅訶(あらか)、三藐(さんみゃく)三仏陀と名づけたてまつる。

国を現一切世間と名づけ、劫を憙見(きけん)と名づく。
妙音菩薩二千歳に於いて、十万種の妓楽を以って、雲雷音王仏に供養し、並びに八万四千の七宝の鉢(はち)を奉上す。

是の因縁の果報を以って、今(いま)浄華宿王智仏の国に生じて、是の神力有り。

華徳、汝が意(こころ)に於いて、云何(いかん)。

爾の時に、雲雷音王仏の所(みもと)に妙音菩薩として、妓楽をもって供養し、宝器を奉上せし者、豈(あに)異人(ことびと)ならんや、

今此の妙音菩薩摩訶薩是れなり。

華徳、是の妙音菩薩は、已に曾(かつ)て無量の諸仏に供養し、親近して、久しく徳本を植え、又、恒河沙等の百千万億那由他の仏に値(あ)いたてまつる。

華徳、汝但妙音菩薩其の身此(ここ)に在(あ)りとのみ見る。

而も是の菩薩は、種々の身を現じ、処処に諸の衆生の為に是の経典を説く。

 

 

 

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人類を救う 100万人の法華経入門 『妙法蓮華経妙音菩薩品第二十四』について 7


 「世尊、浄華宿王智仏、世尊を問訊(もんじん)したもう、」
 世尊、浄華宿王智仏、世尊に質問します。
 「少病少悩、起居(ききょ)軽利(きょうり)にして、安楽に行じたもうや不や。」
 少病少悩、日常生活は身のこなしが軽やかですばやく、安楽に行じたもうや不や。

仏様は病気をしても少しの病気です。悩みもありますが、少しの悩みです。日常生活は身のこなしが軽やかですばやく、仏様は安楽の気持ちでお過ごしでしょうか?

少病少悩の反対は、大病大悩です。大きな病気をしていて、大きな悩みがあったら大変です。人々を恨んで「ぐやしい~。あいつにも裏切られた。こいつにも裏切られた。みんな殺してやりたい」という境涯ならば、地獄界です。

仏様は悩みがあっても少しだけです。病気があっても少しだけです。
 「四大調和なりや不や。」
 季節は、調和していますか、或いはいませんか?

天台大師の『摩訶止観』によると、病の原因には六つあると言いわれています。
第一が、「四大(しだい)順ならざる故に病む」です。四大とは、春夏秋冬です。これが順調にいかないで、夏が異様に寒かったり、冬が長かったり、順調の四季がめぐってこない場合に、人間は体に不調をきたして病気になります。

 「世事(せじ)は忍びつべしや不や。」
 世間のことをどのように考えたらよいでしょうか? これは、仏様に聞いているのです。
 「衆生は度し易(やす)しや不や。」
 仏様は「衆生を直してくれる」と言っていましたが、本当に直るのでしょうか?
 「貪欲、瞋恚、愚痴、嫉妬、慳満(けんまん)多きこと無しや不や。」
 仏様は、貪欲で、怒ったり、愚痴を言ったり、嫉妬したり、自分に満じることはありますか?

 「父母に孝(きょう)せず、沙門(しゃもん)を敬わず、邪見不善の心にして、五情を摂(おさ)めざること無きや不や。」
 父母に孝行せず、沙門(しゃもん)を敬わず、邪見のよからぬ心にして、五情(眼・耳・鼻・舌・身)の五根を摂(おさ)めていますか?
 「世尊、衆生は能く諸の魔怨を降伏(こうぶく)するや不や。」
 世尊、衆生というものは、魔が襲ってきますが、この魔の念を衆生は降伏させることができるでしょうか?
 「久滅度の多宝如来は、七宝塔の中に在(ましま)して、来って法を聴きたもうや不や。」
 久滅度の多宝如来は、七宝塔の中に在(ましま)して、来って法を聴きたもうや不や。

お釈迦様の眷属である多宝如来が塔の中からでてきて、私たちの説法を聞いてくれますか? このような質問です。
 「又、多宝如来を問訊(もんじん)したたもう、」

 又、多宝如来にも聞きます。

「安穏少悩にして堪忍し、久住したもうや不や。」
 
多宝如来様は、安穏にして、少悩にして、バカな衆生に対して怒らないで忍耐強く耐えて、ずっとここにいると思っていますか? 
 「世尊、我今多宝仏の身を見たてまつらんと欲す。」
 世尊、我は今多宝仏の身を見たてまつらんと欲っしています。
 「唯願わくは世尊、我に示して見せしめたまえ。」
 唯願わくは世尊、我に示して見せてください。
 「爾の時に釈迦牟尼仏、多宝仏に語りたまわく、是の妙音菩薩、相見(あいみ)たてまつることを得んと欲す。」
 爾の時に釈迦牟尼仏、多宝仏に語りたまわく、是の妙音菩薩、相見(あいみ)たてまつることを得んと欲す。

この妙音菩薩は、多宝物仏に会いたいと言っています。そんなことができるのでしょうか?(8に続く)

 

 

『妙法蓮華経妙音菩薩品第二十四』

世尊、浄華宿王智仏、世尊を問訊(もんじん)したもう、
少病少悩、起居(ききょ)軽利(きょうり)にして、安楽に行じたもうや不や。

四大調和なりや不や。

世事(せじ)は忍びつべしや不や。
衆生は度し易(やす)しや不や。

貪欲、瞋恚、愚痴、嫉妬、慳満(けんまん)多きこと無しや不や。

父母に孝(きょう)せず、沙門(しゃもん)を敬わず、邪見不善の心にして、五情を摂(おさ)めざること無きや不や。

世尊、衆生は能く諸の魔怨を降伏(こうぶく)するや不や。

久滅度の多宝如来は、七宝塔の中に在(ましま)して、来って法を聴きたもうや不や。

又、多宝如来を問訊(もんじん)したたもう、

安穏少悩にして堪忍し、久住したもうや不や。

世尊、我今多宝仏の身を見たてまつらんと欲す。
唯願わくは世尊、我に示して見せしめたまえ。
爾の時に釈迦牟尼仏、多宝仏に語りたまわく、是の妙音菩薩、相見(あいみ)たてまつることを得んと欲す。

 

 

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人類を救う 100万人の法華経入門 『妙法蓮華経妙音菩薩品第二十四』について 6

 

「唯願わくは世尊、神通力を以って、彼の菩薩の来らんに、我をして見ることを得せしめたまえ。」
 唯願わくは世尊、神通力を以って、彼の菩薩の来らんに、我をして見ることを得せしめたまえ。

そんなことは遠くでやっているので見えません。お釈迦様、私にそれを見せてください。
 「爾の時に釈迦牟尼仏、文殊師利に告げたまわく、」
 爾の時に釈迦牟尼仏、文殊師利に告げたまわく、
 「此の久滅度の多宝如来、当に汝等が為に、而も其の相を現じたもうべし。」
 此の久滅度の多宝如来、当に汝等が為に、而も其の相を現じたもうべし。

 「時に多宝仏、彼の菩薩に告げたまわく、」
 時に多宝仏、彼の菩薩に告げたまわく、
 「善男子来たれ。文殊師利法王子、汝が身を見んと欲す。」
 善男子来たれ。文殊師利法王子、汝が身を見んと欲す。

貴方を見てあげましょう。
 「時に妙音菩薩、彼の国に於いて没(もっ)して、八万四千の菩薩と倶共(とも)に発来(ほつらい)す。」

時に妙音菩薩、彼の国に於いて没(もっ)して、八万四千の菩薩と倶共(とも)に発来(ほつらい)したのです。

「経(ふ)る所の諸国、六種に震動して、皆悉く七宝の蓮華を雨らし、百千の天楽、鼓(く)せざるに自ら鳴る。」
 
経(ふ)る所の諸国、六種に震動して、皆悉く七宝の蓮華を雨らし、百千の天楽、鼓(く)せざるに自ら鳴る。
 「是の菩薩の目は、広大の青蓮華の葉の如し。」

是の菩薩の目は、広大の青蓮華の葉の如し。

「正使(たとい)百千万の月を和合せりとも、其の面猊端正(めんみょうたんじょう)なること、復此れに過ぎんや。」
 正使(たとい)百千万の月を和合せりとも、其の面猊端正(めんみょうたんじょう)なること、復此れに過ぎんや。

顔がよくて、姿が立派でした。
 「身は真金(しんこん)の色(いろ)にして、無量百千の功徳荘厳せり。」
 身は真金(しんこん)の色(いろ)にして、無量百千の功徳荘厳せり。
 「威徳熾盛(いとくしじょう)にして、光明照曜(しょうよう)し、諸相(しょうそう)具足して、那羅延(ならえん)の堅固の身の如し。」
 ものすごい威徳があって、光明照曜(しょうよう)し、諸相(しょうそう)具足して、那羅延(ならえん)の堅固の身の如し。

那羅延(ならえん)とは、梵天・帝釈天 (たいしゃくてん) とともに仏教を守護する神です。 非常に力が強く、那羅延金剛 (ならえんこんごう) ともいい、その大力を那羅延力という。
 「七宝の台(うてな)に入(い)って、虚空に上昇(のぼり)、地(じ)を去ること七多羅樹(しったらじゅ)、諸の菩薩衆、恭敬し圍繞して、此の娑婆世界の耆闍崛山に来詣す。」

七宝の台(うてな)に入(い)って、虚空に上昇(のぼり)、地(じ)を去ること七多羅樹(しったらじゅ)、諸の菩薩衆、恭敬し囲んで、此の娑婆世界のヒマラヤに来詣す。

「到(いた)り已って七宝の台(うてな)を下(お)り、価直(あたい)百千の瓔珞(ようらく)を以って、持って釈迦牟尼仏の所(みもと)に至り、頭面に足(みあし)を礼し、瓔珞を奉上して、仏に白して言さく、」
 
ヒマラヤに来て、七宝の塔を下(お)り、価直(あたい)百千の瓔珞(ようらく)を以って、持ってお釈迦様の所(みもと)に至り、頭面に足(みあし)を礼し、瓔珞を奉上して、仏に白して言さく、

この菩薩は非常に顔がきれいで戒律もしっかりと守っています。まさに黄金でできたような立派な姿であったのです。(7に続く)

 

 

『妙法蓮華経妙音菩薩品第二十四』

唯願わくは世尊、神通力を以って、彼の菩薩の来らんに、我をして見ることを得せしめたまえ。

爾の時に釈迦牟尼仏、文殊師利に告げたまわく、

此の久滅度の多宝如来、当に汝等が為に、而も其の相を現じたもうべし。

時に多宝仏、彼の菩薩に告げたまわく、

善男子来たれ。文殊師利法王子、汝が身を見んと欲す。

時に妙音菩薩、彼の国に於いて没(もっ)して、八万四千の菩薩と倶共(とも)に発来(ほつらい)す。

経(ふ)る所の諸国、六種に震動して、皆悉く七宝の蓮華を雨らし、百千の天楽、鼓(く)せざるに自ら鳴る。

是の菩薩の目は、広大の青蓮華の葉の如し。

正使(たとい)百千万の月を和合せりとも、其の面猊端正(めんみょうたんじょう)なること、復此れに過ぎんや。

身は真金(しんこん)の色(いろ)にして、無量百千の功徳荘厳せり。
威徳熾盛(いとくしじょう)にして、光明照曜(しょうよう)し、諸相(しょうそう)具足して、那羅延(ならえん)の堅固の身の如し。

七宝の台(うてな)に入(い)って、虚空に上昇(のぼり)、地(じ)を去ること七多羅樹(しったらじゅ)、諸の菩薩衆、恭敬し圍繞して、此の娑婆世界の耆闍崛山に来詣す。

到(いた)り已って七宝の台(うてな)を下(お)り、価直(あたい)百千の瓔珞(ようらく)を以って、持って釈迦牟尼仏の所(みもと)に至り、頭面に足(みあし)を礼し、瓔珞を奉上して、仏に白して言さく、

 

 

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