※アショーカ(梵: अशोकः、IAST:Aśokaḥ、巴: Asoka、訳:無憂〈むう〉、在位:紀元前268年頃 - 紀元前232年頃)は、マウリヤ朝の第3代の王である。 徳勝は釈迦に細沙(砂の餅)を作って供養し、無勝は合掌した。釈迦はアーナンダーに「この童子は私が滅度して100年後に華氏城(パータリプトラ)で転輪聖王になるであろう。姓は孔雀、名を阿育といい、仏の法をもって国を治め、8万4千の仏塔を建立して供養し衆生を安楽にするであろう」と言った。この予言の通り、頻頭沙羅王の子として、徳勝は無憂、無勝は離憂という名前で生まれたとされている。 これがアショーカ大王の前世です。
人類を救う 100万人の法華経入門 『妙法蓮華経授学無学人記品第九』について 11
「此の仏法の中に於いて 仏道の因縁を種えん」
此の仏法の中に於いて、仏道の因縁を種えたのです。様々な譬え話は大事です。「どうして貴方は縁があり、仏を目指したのですか?」「どのような修行をして仏になったのでしょうか?」、という因縁話が大事です。何故、貴方はここに生まれたのでしょうか? 様々な国土があるのに、貴方はここに生まれたのです。その因縁を仏は教えているのです。
「何故、貴方はここに生まれたのか?」「何故、貴方はそのような顔をして生まれたのか?」「何故、貴方は人間なのか?」、というのは、因縁話です。「このようなことをしたから、お前は豚なのだ」「このようなことをしたから、お前は犬なのだ」というのが因縁話です。
法華経の修行をしていくと因縁がわかってくるのです。それが人々を救うのです。一般の衆生は、自分の因縁などわからないで生まれて、何だかわからないで死んでしまうのです。法華経で見ると、「貴方は前世でこのようなことをしてきたから、ここに生まれたのです」、とわかるのです。貴方の前世、現世、来世の三世がわかるようになるのです。
そのようなことがわかるために仏道修行をしているのです。法華経は命の教えです。皆が知りたいところは、それなのです。「私はなぜここに生まれたのでしょうか?」それを説いてあげれば、「法華経は有難い」とわかるのです。
仏様はいろんな角度から、繰り返し、繰り返し譬え話を教えているのです。目的は何でしょうか? 衆生には、それぞれ因縁があります。因縁とは、蓮華の法です。どうして貴方は今の親の下に生まれたのでしょうか? それは、因縁があるのです。因縁がないものは、一つもありません。
親を選んだ因縁があるから、今世の親の下に生まれたのです。「くだらない自分がどうして天皇陛下の近くに生まれたのか?」というと、それもちゃんと因縁があるのです。それも、ケタ違いの因縁を法華経は説いているのです。
王様に生まれる因縁があります。王様は、前世でどのようなことをやったのでしょうか? 仏様は、「前世でお前は仏様が通った時にお花を差し上げたのです。私は貧乏で仏様に差し上げるものは何もありません。せめてこの花一輪を供養しますと言った因縁により、お前は大王に生まれたのだ」と言ったのです。
お花を一輪供養した、たったそれだけのことで、来世は大王に生まれてしまうのです。そのような因縁を聞かせてあげるのです。皆、自分の因縁が聞きたいのです。それがわかってくると、「この人は前世では因縁があり、今世はこのような果を受けて生まれてきたのだな」と、見えてくるのです。それをちゃんと教えてあげるのです。
その因縁を教えてあげることにより、その人は解脱することができるのです。そのようなことがわからないで、法華経の文字だけを読んでいたら、なにもわかりません。法華経を学び信じて行じて、人々に説いてきた人は、来世は大大王になって生まれるのです。
宇宙全体から見たら、地球は塵のように小さいものです。仏に供養したという因縁を持つと、来世は地球の何百倍も大きい星の大王に生まれることができるのです。花一輪を仏様に供養しただけでも大王に生まれることができるのです。
「法華経を信じて供養して、人々に説く功徳が如何に大きいのか」、ということがわかります。法華経の勉強をして、書写し、人々には懇切丁寧に教えていくのです。これが、法華経の信者の大事な修行です。
皆さんもわかったら、教えていくのです。「法華経を学ぶ」ということは、因縁を教えていくことです。「何故、貴方はこのような因縁を持って生まれたのか?」「何故、貴方はこのような事故にあったのか?」、全て因縁によって起きてくるのです。「その因縁は、こうだよ」と説いてあげると、衆生は喜ぶのです。
「因縁を説くことが出来るのか?」というと、それは法華経を勉強しないと因縁は説けません。自分の因縁もわかってきて、人の因縁もわかってくるのです。仏になるとは、そのようなことです。
「爾の時に会中(えちゅう)の新発意(しんぽつち)の菩薩八千人、咸く是の念を作さく、」
爾の時に会中(えちゅう)の新しい菩薩八千人、咸く是の念を作さく、
「我等尚、諸の大菩薩の、是の如き記を得ることを聞かず。」
我等尚、諸の大菩薩が、是の如き記別を受けたのかということを、聞いたことがありません。この諸々の新しい菩薩達はまだ記別を受けていません。
「何の因縁あってか、諸の声聞、是の如き決(けつ)を得る。」
私達は、何の因縁あって、ここにいるのでしょうか? 諸の声聞は、どうしたら、仏になることができるのか教えてください。声聞になるのにも因縁がありますが、仏になる因縁があるわけではありません。
仏様がお通りになった時に供養するものが何もなかったので、頭を下げて合掌しました。その因縁により、今世で声聞衆に生まれたのです。花一輪を供養したならば、大王に生まれるのです。因縁が全然違います。
声聞で満足しているのは、「仏様は有難い」と拝んだだけで、貴方が仏になろうとしたわけではありません。
それもよいことです。貴方はその因縁により、声聞衆に生まれたのです。今、貴方が僕の講義を聞いているのは、そのような因縁です。凄いでしょう。全て、因縁があるのです。(12に続く)
『妙法蓮華経授学無学人記品第九』
此の仏法の中に於いて 仏道の因縁を種えん
爾の時に会中(えちゅう)の新発意(しんぽつち)の菩薩八千人、咸く是の念を作さく、
我等尚、諸の大菩薩の、是の如き記を得ることを聞かず。
何の因縁あってか、諸の声聞、是の如き決(けつ)を得る。
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