中杉弘の人間の探求

中杉弘の人間の探求

思想・哲学・歴史・宗教の宝庫!読めば読むほど面白い!鋭い切り口で一刀両断。中杉ワールドへようこそ。

◆2025年に出版された本の紹介◆

人類の宝 法華経を語る 無量義経三品収録
法華経以外に仏教はありません!
キンドル版・単行本 定価5,000円(税別)
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法華経と量子力学下巻
2500年前にお釈迦様が見た、量子の世界を解き明かします!
定価1,800円(税別)

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■本の紹介
現代では、様々なユーチューバーが、「仏教と量子力学」について語っていますが、どれも核心を突いたものはありません。
 僕の『法華経と量子力学』の講義では、仏教と量子力学の関係を明らかにしていきたいと思います。実のところを言うと、それは「法華経から見た、量子力学」ということです。本講義により、2500年前にお釈迦様の見た、量子の世界をt解き説き明かしていきたいと思います。










◆2024年に出版された本の紹介◆
法華経と量子力学上巻
2500年前にお釈迦様が見た、量子の世界を解き明かします!
定価1,800円(税別)

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乱世を生きる
法華経と量子力学の智慧
定価1,800円(税別)

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池田大作の七つの大罪
定価1,500円(税別)
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人類を救う 100万人の法華経入門 『妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五』について 18


 「無垢(むく)清浄の光あって 慧日(えにち)諸の闇を破し」
 汚れていない清浄の光があって、太陽が闇を照らすように
 「能く災の風火(ふうか)を伏(ふ)して 普(あまね)く明かに世間を照す」
 
能く不幸な風火(ふうか)を消して、普(あまね)く明かに世間を照す

雨風がやみ、太陽がでてきて世間を照らせば、全て見えます。
  「悲体(ひたい)の戒(かい)は雷震(らいしん)のごとく 慈意(じい)の妙は大雲(だいうん)のごとく」
 「絶対に人を救います」という戒を観世音菩薩は身に付けていて、雷が鳴り響くように確実に効くのです。「可哀そうだな」と思っている観世音菩薩の慈悲の声は、大きな雲のようです。
  「甘露(かんろ)の法雨を澍(そそ)ぎ 煩悩の焔(ほのお)を滅除(めつじょ)す」
 甘露の法雨を注ぐと、悩み苦しんでいる貴方の煩悩の炎を消してくれるのです。

 生長の家の教義である「甘露の法雨」は、法華経から出ているのです。谷口雅春は、「甘露の法雨」という経典をつくったのです。その経典を戦争にもっていった信者は、「弾が経典に当たって死ななかった」というのです。

生長の家は、そのような話をたくさんしています。「甘露の法雨が貴方を守るのだ。甘露の法雨の原点は、『妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五』に書いてあるだろう。この甘露の法雨が貴方に働いてくるのですから、谷口雅春が書いた経典を大事に持ちなさい」と言ってきたのです。

ただし、甘露の法雨を注いで、煩悩の炎を消してくれるのは、法華経を正しく信じている人です。「成長の家の信者になったから、甘露の法雨で守られる」というわけではありません。

 「諍訟(じょうしょう)して官処(かんじょ)を経(へ) 軍陣(ぐんじん)の中に怖畏(ふい)せんに」
 訴訟して、官処(かんじょ)を経(へ)て、軍陣(ぐんじん)の中において、戦に恐怖して、
 「彼の観音の力を念ぜば 衆の怨(あだ)悉(ことごと)く退散せん」
 彼の観音の力を念ぜば、衆の怨(あだ)悉(ことごと)く退散したのです。
 「妙音観世音 梵音(ぼんのん)海潮音(かいちょうおん)」
 妙音観世音、梵天王の声、、海の波の音、
 「勝彼世間音(しょうひせけんのん)あり 是の故に須(すべから)く常に念ずべし」

彼の世間つまり「過去の世界よりも、今日の方が良いのだ」という声あり。是の故に須(すべから)く常に念ずべし。
 「念念に疑を生ずること勿(なか)れ 観世音浄聖(じょうしょう)は」
 念念に疑を生ずること勿(なか)れ。観世音浄聖(じょうしょう)は
 「苦悩死厄(しやく)に於いて 能く為に依怙(えこ)と作(な)れり」
 苦悩や、死ゆく病を払って、能く為に貴方にとって頼りになるのです。
 「一切の功徳を具して 慈眼(じげん)をもって衆生を視(み)る」
 一切の功徳を具して、慈悲の眼(じげん)をもって衆生を視(み)る。
 「福聚(ふくじゅ)の海無量なり 是の故に応に頂礼(ちょうらい)すべし」
 福聚(ふくじゅ)の海無量なり、是の故に応に頂礼(ちょうらい)すべし。

このような功徳があるので、一心に観世音菩薩を信じるべし。
 「爾の時に持地菩薩(じちぼさつ)、即ち座より起(た)って、前(すす)んで仏に白して言さく」
 爾の時に持地菩薩(じちぼさつ)、即ち座より起(た)って、前(すす)んで仏に白して言さく

持地菩薩(じちぼさつ)とは、密教で、胎蔵界曼荼羅の地蔵院九尊のうち、東方から第七位におかれる菩薩です。功徳、智慧にすぐれて、大慈大悲をもって、一切衆生の救済をすること、大地のすべてをその上に持するが如くであるというところからの名称です。

弥勒菩薩 (みろくぼさつ)の異名ともいい、観音とも地蔵ともいう。
「世尊、若し衆生有って、是の観世音菩薩品の自在の業(ごう)、普門示現(ふもんじげん)の神通力を聞かん者は、当(まさ)に知るべし。」

世尊、若し衆生有って、是の観世音菩薩品の自在の業(ごう)、普門示現(ふもんじげん)の神通力を聞かん者は、当(まさ)に知るべし。

「是の人の功徳少(すくな)からじ。」
 是の人の功徳は少(すくな)くありません。
 「仏、是の普門品を説きたもう時、衆中の八万四千の衆生、皆無等等(みなむとうとう)の阿耨多羅三藐三菩提の心を発(おこ)しき。」

仏、是の普門品を説きたもう時、衆中の八万四千の衆生、皆無等等(みなむとうとう)の阿耨多羅三藐三菩提の心を発(おこ)したのです。

観世音菩薩様の智慧を教えてもらい、次に何を思うのかというと、あらゆるものを恐れない仏様の智慧にふれるのです。

そして、「これ以上の法はありません。私も阿耨多羅三藐三菩提を得て、観世音菩薩と同じような神通力を賜りたい」と言いました。

 

 

『妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五』

無垢(むく)清浄の光あって 慧日(えにち)諸の闇を破し

能く災の風火(ふうか)を伏(ふ)して 普(あまね)く明かに世間を照す

悲体(ひたい)の戒(かい)は雷震(らいしん)のごとく 慈意(じい)の妙は大雲(だいうん)のごとく
甘露(かんろ)の法雨を澍(そそ)ぎ 煩悩の焔(ほのお)を滅除(めつじょ)す

諍訟(じょうしょう)して官処(かんじょ)を経(へ) 軍陣(ぐんじん)の中に怖畏(ふい)せんに

彼の観音の力を念ぜば 衆の怨(あだ)悉(ことごと)く退散せん

妙音観世音 梵音(ぼんのん)海潮音(かいちょうおん)
勝彼世間音(しょうひせけんのん)あり 是の故に須(すべから)く常に念ずべし

念念に疑を生ずること勿(なか)れ 観世音浄聖(じょうしょう)は

苦悩死厄(しやく)に於いて 能く為に依怙(えこ)と作(な)れり
一切の功徳を具して 慈眼(じげん)をもって衆生を視(み)る
福聚(ふくじゅ)の海無量なり 是の故に応に頂礼(ちょうらい)すべし

爾の時に持地菩薩(じちぼさつ)、即ち座より起(た)って、前(すす)んで仏に白して言さく

世尊、若し衆生有って、是の観世音菩薩品の自在の業(ごう)、普門示現(ふもんじげん)の神通力を聞かん者は、当(まさ)に知るべし。

是の人の功徳少(すくな)からじ。
仏、是の普門品を説きたもう時、衆中の八万四千の衆生、皆無等等(みなむとうとう)の阿耨多羅三藐三菩提の心を発(おこ)しき。

 

※これで『妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五』は、終わりです。

 次回は『妙法蓮華経観陀羅尼品第二十六』です。ご期待ください!

 

 

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人類を救う 100万人の法華経入門 『妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五』について 17

 

「観音妙智(みょうち)の力 能く世間の苦を救う」(続き)

観音の妙智(みょうち)の力は、能く世間の衆生の苦を救うのです。

「もう終わりだよ」などと愚癡を言っているようではいけません。そのような人は、ホームスになってしまうのです。そのようになってしまうと、念じる力もなくなってしまいます。

「観世音菩薩にお願いすれば、助けてくれるのだな」と思うと、本当に観世音菩薩が助けてくださるのです。「念ずれば花開く」です。「私はこうなりたいのです。観世音菩薩様、助けてください、お願いします」と念じるから、助かる現実がでてくるのです。

その念力が弱いと、何もやらない人間になってしまうのです。「神も仏もいないのだから、何を念じてもどうにもなりはしないよ」と思っている人には、観世音菩薩は働きません。そのような人間は、昼間から寝転がっているのがよいのです。このような怠け者になってしまうと、お金もいりません。

「南無観世音菩薩様、この戦争を勝たせてください」というのが、祈りです。「この試験に合格するように、お願いします」「どうか私の病気が治りますように、南無観世音菩薩様」と祈る人の中には、観世音菩薩がいるのです。

観世音菩薩は、架空の仏ではありません。本当にいるから祈るのです。「観世音菩薩は

いない」と思っている人は、祈ることはできません。「祈っても、観世音菩薩がでてきてくれるわけがないだろう」と思っているのですから、観世音菩薩がでてくるわけがありません。

「私の人生には観世音菩薩様がでてくるのです。南無観世音菩薩様、お願いします。助けてください、南無観世音菩薩、南無観世音菩薩、南無観世音菩薩、・・・」と唱えても、よいのです。
 「神通力を具足し 広く智の方便を修(しゅ)して」
 
神通力を具足して、広く智の方便を修(しゅ)して

観世音菩薩は、神通力をもっています。具足とは、鎧のことです。「具足を着る」ということは、「鎧を着る」ということです。観世音菩薩は、神通力を身に付けて、自身の鎧にしているのです。

「物事をよく智っている」というのは、智の方便です。観世音菩薩のもっている力に比べたら、「病気に効く薬を飲む」とか、「物理学を知っている」などということは、方便です。本当に貴方の病気を治すもの、貴方の貧乏を治すもの、貴方の悩みを解決するものは、「この本を読めばよい」ということではありません。観世音菩薩を念ずることです。

これを「念彼観音力」といいます。「観世音菩薩様がいる」と信じて、祈りをかけていくのです。これが、信仰の本物の姿です。それに付随する様々な知識は、方便です。
 「十方の諸の国土に 刹(くに)として身を現ぜざること無し
 
十方の諸の国土には、刹(くに)として身を現ぜざること無し

誰かが「南無観世音菩薩様」と唱えるならば、私はどんなところでも助けにいきます。どこにでもいるのです。
 「種々の諸の悪趣 地獄鬼(き)畜生」
 種々の諸の悪趣、地獄鬼(き)畜生

そのような功徳だけではなく、諸々の悪趣や、地獄、餓鬼、畜生に入ってしまっても、
 「生老病死の苦 以って漸(ようや)く悉く滅せしむ」
 
生老病死の苦も、以って漸(ようや)く悉く滅することができるのです。
 「真観(しんかん)清浄観(しょうじょうかん) 広大智慧観(かん)」
 真観(しんかん)、清浄観(しょうじょうかん)、広大智慧観(かん)

観世音菩薩の教には、五観があります。

真観(しんかん)とは、真観 真実を求め真理を愛する心です。

清浄観(しょうじょうかん)とは、清く澄んだ、私利私欲に走らず、利他を重んずる心のことをいいます。

広大智慧観(こうだいちえかん)とは、あらゆるものを平等に観ずる心です。

悲観(ひかん)とは、他の苦しみを自らの苦しみとして共感できる心です。

慈観 他の楽しみ、喜びを共に観じられる心です。
 この観世音菩薩の功徳には、心を清浄にするという働きがあります。「その智慧はどのくらい広いのか?」というと、広大無辺です。
 「悲観及び慈観あり 常に願い常に瞻仰(せんごう)すべし」
 悲観及び慈観あり。常に願い常に仰ぎ見ているのです。
 観世音菩薩には、「衆生を可哀そうだな」と思う慈悲があり、常に仰ぎ見ているのです。観世音菩薩には慈悲があります。だから貴方に現れて、貴方を助けるのです。(18に続く)

 

 

『妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五』

観音妙智(みょうち)の力 能く世間の苦を救う(続き)

神通力を具足し 広く智の方便を修(しゅ)して

十方の諸の国土に 刹(くに)として身を現ぜざること無し
種々の諸の悪趣 地獄鬼(き)畜生

生老病死の苦 以って漸(ようや)く悉く滅せしむ

真観(しんかん)清浄観(しょうじょうかん) 広大智慧観(かん)
悲観及び慈観あり 常に願い常に瞻仰(せんごう)すべし

 

 

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人類を救う 100万人の法華経入門 『妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五』について 16


 「呪詛(じゅそ)諸の毒薬に 身を害せんと欲(せ)られん者」
 誰かが祈り殺そうと思って、「法華経の行者だと、生意気な奴だ。この毒薬を食らえ」と思って、身を害しようと思っても
 「彼の観音の力を念ぜば 還(かえ)って本人に著(つ)きなん」
 彼の観音の力を念ぜば、還って本人に著きるのです。

 これが、有名な「還著於本人(げんちゃくおほんにん)」です。ここから、言われているのです。正理会の幹部の悪口を言っているY子も 還著於本人になってしまうのです。
 「或は悪羅刹(あくらせつ) 毒龍諸鬼(どくりゅうしょき)等に(あ)遇わんに」
 或は悪羅刹、毒龍諸鬼等に遇ってしまったら、
 「彼の観音の力を念ぜば 時に悉く敢(あ)て害せじ」
 彼の観音の力を念ぜば、時に悉く敢て害することはできません。
 誰も法華経の行者を害することはできないのです。
 「若しは悪獣(あくじゅ)圍遶(いにょう)して 利(と)き牙爪(げそう)の怖(おそ)るべきに」
 若しは悪獣に囲まれて、利き牙爪に怖れているときに、、
 「彼の観音の力を念ぜば 疾(と)く無辺の方(かた)に走りなん」
 彼の観音の力を念ぜば、疾く無辺の方に走り去ってしまうのです。
 「蚖蛇(がんじゃ)及び蝮蠍(ふつかつ) 気毒(けどく)煙火(えんか)の燃(も)ゆるごとくあらんに」
 いもりや蛇、及びまむしやサソリに遭って、自分の心が苦痛を感じ、煙火の燃ゆるがごとくならんに
 「彼の観音の力を念ぜば 声に尋(つ)いで自(おのずか)ら廻(かえ)り去らん」
 彼の観音の力を念ぜば、声に尋いで自ら廻り去るのです。

蛇やサソリがでてきても、貴方を害することはありません。自ら去っていくのです。すごい大功徳です。仏法は、信じなければ功徳はでてきません。本当にそうなるのです。『御義口伝』に書いてありますが、「南無妙法蓮華経」と言っても、同じことです。

観世音菩薩は有難いと思われているので、『妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五』は、法華経の中でも一番読まれているのです。
 「雲りて雷(らい)鼓(く)掣(せい)電(でん)し 雹(あられ)を降らし大(おお)いなる雨を澍(そそ)がんに」
 雲りて雷が「ゴロゴロゴロ」と鳴り、落ちて、雹(あられ)を降らし大(おお)いなる雨を澍(そそ)がんに
 「彼の観音の力を念ぜば 時に応じて消散(しょうさん)することを得ん」
 彼の観音の力を念ぜば、時に応じて消えてしまうことを得るのです。

例えば、険しい山の中で遭難事故に遭ったとき、天が真っ黒になり、「ドン、ガラガラガラピシャ!」と雷が落ちても、「南無観世音菩薩」と唱えればよいのです。そうすれば死ぬべき運命であっても、貴方は助かります。

我々が「南無観世音菩薩」と言うときには、「南無妙法蓮華経」が入っているのです。観世音菩薩も、南無妙法蓮華経も体は一つです。違うことを言っているように見えるのですが、本当は一つのことを言っているのです。
 「衆生困厄(こんやく)を被(こうむ)って 無量の苦身(くみ)を逼(せ)めんに」
 衆生は困難や厄災を被(こうむ)って、無量の苦を身に受けたとき、
 「観音妙智(みょうち)の力 能く世間の苦を救う」
 観音妙智(みょうち)の力、能く世間の苦を救うのです。

「観世音菩薩様、助けてください」と言うことは、世間の苦を救うのです。「それは、どのようなことなのか?」というと、病気になっても、「南無観世音菩薩」と唱えるのです。失業しているときも、「南無観世音菩薩様」と唱えるのです。

ホームレスは、寝ているだけではいけません。座禅を組んで真剣に「南無観世音菩薩様」と唱えるのです。すると、仕事がでてくるのです。黙って座って「仕事がないな」とつぶやいていたのでは、仕事はでてきません。

やる気になると、全て変わってくるのです。「仕事がないから」と言って、昼間からむしろを敷いて、寝転がっているようではいけません。「私には観世音菩薩様がついている。南無観世音菩薩様、助けたまえ」と言うのです。「助けたまえ」という言葉の中に観世音菩薩が入っているのです。

「私は観世音菩薩様にお願いしたのだから、仕事を真剣に探そう。何かあるのに違いない、観世音菩薩様、お願いします。南無観世音菩薩様」と言うと、仕事が決まってくるのです。これが、能動の姿勢です。(17に続く)

 

 

『妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五』

呪詛(じゅそ)諸の毒薬に 身を害せんと欲(せ)られん者

彼の観音の力を念ぜば 還(かえ)って本人に著(つ)きなん

或は悪羅刹(あくらせつ) 毒龍諸鬼(どくりゅうしょき)等に(あ)遇わんに
彼の観音の力を念ぜば 時に悉く敢(あ)て害せじ
若しは悪獣(あくじゅ)圍遶(いにょう)して 利(と)き牙爪(げそう)の怖(おそ)るべきに

彼の観音の力を念ぜば 疾(と)く無辺の方(かた)に走りなん

蚖蛇(がんじゃ)及び蝮蠍(ふつかつ) 気毒(けどく)煙火(えんか)の燃(も)ゆるごとくあらんに

彼の観音の力を念ぜば 声に尋(つ)いで自(おのずか)ら廻(かえ)り去らん

雲りて雷(らい)鼓(く)掣(せい)電(でん)し 雹(あられ)を降らし大(おお)いなる雨を澍(そそ)がんに

彼の観音の力を念ぜば 時に応じて消散(しょうさん)することを得ん

衆生困厄(こんやく)を被(こうむ)って 無量の苦身(くみ)を逼(せ)めんに

観音妙智(みょうち)の力 能く世間の苦を救う

 

 

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人類を救う 100万人の法華経入門 『妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五』について 15


 「仮使(たとい)害の意(こころ)を興(おこ)して 大なる火坑(かきょう)に推(お)し落さんに」
 仮使、害の意を興して 大なる火坑に推し落されても

 「彼(か)の観音の力を念ぜば 火坑(かきょう)変じて池と成(な)らん」
 彼の観音の力を念ぜば、火坑変じて池と成るのです。

すごいでしょう。「南観世音菩薩、お助けください」と念じるならば、火の穴が池に変わってしまうのです。

夢だったら、そう思うでしょう。現実も夢と同じです。苦しい夢を見て苦しんでいても、ハッと目が覚めると、「ああ、夢だったのか」と思うでしょう。目が覚めると夢は消えてしまうのです。それと同じことです。

本当は、観世音菩薩様に守られているのに、それを信じていないから、戦争に連れていかれたり、苦しい目に遭っているのです。そこで、「念彼観音力」と唱えるならば、直ちに世界が変わるのです。その人の苦しみが消えればよいのです。それが、観世音菩薩のご利益です。
 「或は巨海(こかい)に漂流(ひょうる)して 龍魚(りゅうぎょ)諸鬼(しょき)の難あらんに」
 或は巨海に漂流して、龍、魚、諸鬼の難に遭い
 「彼(か)の観音の力を念ぜば 波浪(はろう)も没(もつ)すること能(あた)わじ」
 彼の観音の力を念ぜば、波浪も没して静かな海になるのです。

船が波で沈むような嵐が来ても、「南無観世音菩薩」と唱えるならば、一瞬で波が消えてしまうのです。
 「或は須弥の峯に在(あ)って 人に推(お)し堕(おと)されんに」
 或はヒマラヤの峰に在って、人から突き落とされても
 「彼の観音の力を念ぜば 日の如くにして虚空に住せん」
 彼の観音の力を念ぜば、日の如くにして虚空に住するのです。

落ちても、岩にあたって死ぬことはありません。もうその人は、虚空にいるのです。有難い話です。
 「或は悪人に逐(お)われて 金剛山より堕落(だらく)せんに」
 或は悪人に逐われて、金剛山より堕落するときに
 「彼の観音の力を念ぜば 一毛(いちもう)をも損(そん)すること能(あた)わじ」
 彼の観音の力を念ぜば、一毛をも損することはありません。
 「或は怨賊(おんぞく)の遶(かこ)んで 各刀(つるぎ)を執(と)って害を加(くわ)うるに値(あ)わんに」
 或は怨賊に囲まれて、各刀で斬りつけて貴方に害を加えようとするときに、
 「彼の観音の力を念ぜば 咸(ことごと)く即ち慈心(じしん)を起さん」
 彼の観音の力を念ぜば、咸く即ち慈悲心を起こすのです。

これは、本当です。日蓮大聖人様のご一生は、奇跡の連続です。伊豆に伊豆に島流しにされると、船守弥三郎が助けにくるのです。

東条景信は、軍勢をもって、「日蓮を殺せ」と言って、日蓮大聖人様を斬りにきたのです。すると、東条景信は落馬をして命を落とすことになるのです。

日蓮大聖人様は、「観音即ち法華の体なり所謂南無妙法蓮華経の体なり云云。」(御義口伝巻下)と言われています。観音の力と南無妙法蓮華経は、別名ですが、同じ力なのだと言われているのです。
 「或は王難の苦に遭いて 刑(つみ)せらるるに臨んで寿(いのち)終らんと欲せんに」
 或は王難の苦に遭うて 処刑せらるるに臨んで寿終らんと欲せんに
 「彼の観音の力を念ぜば 刀(つるぎ)尋(つ)いで段段に壊(お)れなん」
 彼の観音の力を念ぜば、刀が尋いで段段に壊れてしまうのです。

これが有名な、「刀尋段段壊(とうじんだんだんね)」です。日蓮大聖人様の首を斬ろうとすると、光物が現れて刀が折れて首を斬れなくなってしまったのです。まさに観世音菩薩の奇跡が起こったのです。
 「或は枷鎖(かさ)に囚禁(しゅうきん)せられて 手足に杻械(ちゅうかい)を被(こうむ)らんに」
 或は枷鎖につながれて囚禁せられて 手足を縛られて

 「彼の観音の力を念ぜば 釈然(しゃくねん)として解脱することを得ん」
 彼の観音の力を念ぜば、縛られいる手足の枷や鎖が取れて、解脱してしまうのです。(16に続く)

 

 

『妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五』

仮使(たとい)害の意(こころ)を興(おこ)して 大なる火坑(かきょう)に推(お)し落さんに

彼(か)の観音の力を念ぜば 火坑(かきょう)変じて池と成(な)らん

或は巨海(こかい)に漂流(ひょうる)して 龍魚(りゅうぎょ)諸鬼(しょき)の難あらんに

彼(か)の観音の力を念ぜば 波浪(はろう)も没(もつ)すること能(あた)わじ

或は須弥の峯に在(あ)って 人に推(お)し堕(おと)されんに

彼の観音の力を念ぜば 日の如くにして虚空に住せん

或は悪人に逐(お)われて 金剛山より堕落(だらく)せんに
彼の観音の力を念ぜば 一毛(いちもう)をも損(そん)すること能(あた)わじ

或は怨賊(おんぞく)の遶(かこ)んで 各刀(つるぎ)を執(と)って害を加(くわ)うるに値(あ)わんに

彼の観音の力を念ぜば 咸(ことごと)く即ち慈心(じしん)を起さん

或は王難の苦に遭いて 刑(つみ)せらるるに臨んで寿(いのち)終らんと欲せんに
彼の観音の力を念ぜば 刀(つるぎ)尋(つ)いで段段に壊(お)れなん

或は枷鎖(かさ)に囚禁(しゅうきん)せられて 手足に杻械(ちゅうかい)を被(こうむ)らんに
彼の観音の力を念ぜば 釈然(しゃくねん)として解脱することを得ん

 

 

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人類を救う 100万人の法華経入門 『妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五』について 14


 「仏子何の因縁あってか 名けて観世音と為(す)る」
 仏子は何の因縁があってか、貴方は観世音と名づけられたのですか。
 「妙相を具足したまえる尊(そん) 偈をもって無尽意に答えたまわく
 妙相を具足したまえる尊(そん)、偈をもって無尽意に答えたまわく
 「汝観音の行を聴け 善く諸の方所(ほうしょ)に応ずる」
 汝観音の行を聴け、善く諸の方所(ほうしょ)に応ずる

観世音菩薩の行を聞きなさい。あらゆるところに応じる
 「弘誓(ぐせい)の深きこと海の如し 劫を歴(ふ)とも思議せじ」
 弘誓(ぐせい)の深きこと海の如し。劫を歴(ふ)とも思議せじ。

海の中の生き物までも慈悲をもっているから、海に溺れる人がいて、観世音菩薩の名を唱えるならば、助けてくれるのです。山に遭難した場合でも、「観世音菩薩様」と唱えるならば、助けてくれるのです。観世音菩薩は海にもなり、山にもなり、広大な神通力をもった原因は、なんでしょうか?
 「多千億の仏に侍(つか)えて 大清浄の願(がん)を発(おこ)せり」
 多千億の仏に侍(つか)えてきて、大清浄の願(がん)を発(おこ)してきたのです。
 「我汝が為に略して説かん 名を聞き及び身を見」
 我、汝が為に略して説いたのです。名を聞き及び身を見て
 「心に念じて空しく過ぎざれば 能く諸有(しょう)の苦を滅す」
 心に念じて空しく過ぎざれば、能く諸有の苦を滅するのです。

貴方のために諸々の苦を滅する方法を教えます。それは、「心に念じて空しく過ぎざれば」ということです。

「念ずれば花開く」という言葉があります。念ずれば実現するのです。人間は、何でもできるのです。心の中は自由です。心は火にも焼けません。海にも溺れません。人間は海に落ちると「助けてくれ」と言いますが、自分の心の中で海に溺れない方法を思えばよいのです。「海に落ちても俺は死なない」ということは、心で思うことです。

心で思うことは自由です。「観世音菩薩様、助けてください」と念ずれば花が開くのです。観世音菩薩の名前を唱えるならば、まず心の中で救われるのです。海に落ちても、「俺はこんなことでは死なないぞ」と思えばよいのです。

この世は空(くう)です。海も空(くう)、自分も空(くう)です。「海に溺れて死ぬかもしれない」ということがあっても、それは自分ではありません。もともと自分の存在は、自分ではありません。空(くう)なのです。

それが幻想のように現れて、人生を送っているのです。そこで、「南無観世音菩薩、助けたまえ」と言うならば、幻想は消えてしまうのです。

海に落ちて溺れて死ぬことも、戦争に連れていかれて死ぬことも、幻想の世界です。今まで、自分がやってきた行いにより、そのような世界を見ているのです。今、起きていること事体、全て空(くう)なのです。

その中で「次は、どのような夢を見るのか?」というと、それは業行の因果によるのです。今まで自分がやってきたこと、縁を取り持ってきたこと、それによって「今」という瞬間の世界を見ているのです。

すると、次の瞬間も消えてしまうのです。何故、消えるのでしょうか? それは、空(くう)だからです。「俺は絶対に変わらない実体だ」と言ったら、「苦しい、苦しい、苦しい」と思っていることは、消えません。全て空(くう)だから、苦しい思いも消えてしまうのです。

自分の心に強い思いがあれば、どんなものでも消えてしまうのです。観世音菩薩は、そのような働きがあります。それを、『妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五』では、教えているのです。

一切は空(くう)です。「南無観世音菩薩」と唱えるならば、妙法の世界に入ってしまうのです。妙法の世界に入れば、業行の因果から離れてしまいます。様々な因果が重なって、貴方はこのような夢を見ているのです。「南無観世音菩薩」と唱えるならば、悪夢から離れて、妙法の世界に行ってしまうのです。(15に続く)

 

 

『妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五』

仏子何の因縁あってか 名けて観世音と為(す)る

妙相を具足したまえる尊(そん) 偈をもって無尽意に答えたまわく

汝観音の行を聴け 善く諸の方所(ほうしょ)に応ずる

弘誓(ぐせい)の深きこと海の如し 劫を歴(ふ)とも思議せじ

多千億の仏に侍(つか)えて 大清浄の願(がん)を発(おこ)せり

我汝が為に略して説かん 名を聞き及び身を見
心に念じて空しく過ぎざれば 能く諸有(しょう)の苦を滅す

 

 

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人類を救う 100万人の法華経入門 『妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五』について 13

 

「無尽意、観世音菩薩は、是の如き自在神力有って、娑婆世界に遊ぶ。」(続き)

無尽意よ、観世音菩薩は、是の如き自在神力有って、娑婆世界に遊んでいます。

仏様と凡夫の境涯の違いを理解するためには、豚と人間の違いを見てみればわかります。

豚は、仏道修行ができません。修行できたとしても、人間にはなれません。ということは、豚はどんなに頑張っても人間の境涯にはなれません。それを、「三世変わらざるを性となす」というのです。

バカは来世もバカで、男は来世も男、女は来世も女です。「バカとは、何であるのか?」ということは、観じることです。それも瞬間に感じ取っていくのです。これを信心というのです。

「わかりました」と言った段階では、まだわかっていません。「私は信じます」と言った段階で、スッとわかってくるのです。すると妙がでてくるのです。

妙を探しても、どこにもありません。妙を教わったからといってもわかりません。「妙法から私は生まれたのですね、信じます」と言った瞬間に妙がにじみ出てくるのです。そのようなものです。

観世音菩薩は、仏様に言われたことをスッと受け取ったのです。そのおかげで神通力をもっているのですから、娑婆世界で遊んでいるのです。

人間が娑婆世界を生き抜こうと思うと、三悪道、四悪道に巻き込まれてしまいます。「娑婆世界に遊ぶ」ということは、それ以上の境涯をもっているということです。お釈迦様から見たら、娑婆世界など遊んでいることと同じことです。

仏法とは、境涯の学びです。頭の理解ではありません。仏様というご境涯を学んでいくことが仏教の信仰です。

その大功徳はどのようにしてでてくるのでしょうか? 仏さまの境涯になると、何がでてくるのでしょうか? それは、無尽の智慧がでてくるのです。六道輪廻をして、娑婆世界にいる人から見ると、無尽の智慧はでてきません。仏の智慧ということは、それは恐ろしい智慧が自然にでてくるのです。

そのようになるのです。それを確信すればよいのです。「私は仏教を勉強して何になるのかしら?」という答えは、貴方の境涯が変わるのです。仏の境涯になると、全て変わってしまうのです。

生活で苦しんで「1万円貸してくれ」というのは、地獄界です。何をしても地獄界の境涯は、変わりません。仏様の境涯になると、お金に困ったりしません。むしろ、反対にすべて自分のものです。

そのような境涯になれるのです。最初は気持ちだけでよいのです。「あれは、誰のビルなのかしら? あれは私のビルです。仏国土にいるのだから、仏国土の中にあるものは、全て私のものなのよ。今は人に預けてあるけれども、あれは全て私のものです」と思えば、何も欲しくありません。

みんな自分のものです。「自分の物ではない」と思うから欲しくなるのです。欲しくなればなるほど、手には入りません。それが地獄界です。求めずして得られるのは、不求自得(ふぐじとく)です。反対に求めても得られないことを求不得苦(ぐふとっく)と言います。
 「爾の時に無尽意菩薩、偈を以って問うて曰さく、」
 爾の時に無尽意菩薩は、偈を以って問うて曰さく、
  「世尊は妙相(みょうそう)具(そなわ)りたまえり 我今重ねて彼れを問いたてまつる」
 世尊は妙相(みょうそう)が、具(そなわ)りたまえり。我、今重ねて彼れを問いたてまつる。

世尊には、妙相が備わっています。普通の人は、人相です。豚は豚相です。仏は妙相が備わっています。妙とは目に見えません。目に見えないものが、顔に現れているのです。それはあたかも、目に見えないものが目に見えるように、お釈迦様の顔を通して、妙相が現れているのです。

お釈迦様の顔は妙相なのですから、目に見えない妙を観ようと思ったら、お釈迦様の顔をじっと見るのです。お釈迦様のお顔の中に妙が入っているのです。これは、不思議なことなのです。法華経の修行をしている人は、妙相が現れてくるのです。それが現れてこないと、尊敬はされません。

妙相の反対は、貧相です。貧相ではいけません。貧相がよく現れているのは、地獄、餓鬼、畜生、修羅の四悪道です。ヤクザはヤクザの貧相が現れています。(14に続く)

 

 

『妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五』

無尽意、観世音菩薩は、是の如き自在神力有って、娑婆世界に遊ぶ。(続き)

爾の時に無尽意菩薩、偈を以って問うて曰さく、

世尊は妙相(みょうそう)具(そなわ)りたまえり 我今重ねて彼れを問いたてまつる
 

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人類を救う 100万人の法華経入門 『妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五』について 12


 「時に観世音菩薩、肯(あ)えて之を受けず。」
 時に観世音菩薩は、肯て之を受けませんでした。
 「無尽意(むじんに)、復観世音菩薩に白して言さく、」
 無尽意は、復観世音菩薩に白して言さく、
 「仁者(にんじゃ)、我等を愍(あわれ)むが故に、此の瓔珞を受けたまえ。」
 仁者(観世音菩薩様)、我等を愍むが故に、此の瓔珞を受けてください。

 仁者とは、仁の道に達した、道徳的に完全な人です。瓔珞とは、仏を飾る装身具です。
 「爾の時に仏、観世音菩薩に告げたまわく、
 爾の時に仏は、観世音菩薩に告げたまわく、
 「当に此の無尽意菩薩、及び四衆、天、龍、夜叉、乾闥婆、阿修羅、迦楼羅、緊那羅、摩睺羅伽、人非人等を愍(あわれ)むが故に、是の瓔珞を受くべし。」
 当に此の無尽意菩薩及び四衆、天、龍、夜叉、乾闥婆、阿修羅、迦楼羅、緊那羅、摩睺羅伽、人非人等を愍むが故に是の瓔珞を受けてください。

観世音菩薩は、「そんなものはいらない」と断ったのです。お釈迦様は、「皆が受けてもらいたいと言っているのだから、この瓔珞を受けたらどうなのだ」と言われたのです。
 「即時に観世音菩薩、諸の四衆、及天、龍、人非人等を愍(あわれ)んで、其の瓔珞を受けて、分って二分と作(な)して、一分は釈迦牟尼仏に奉り、一分は多宝仏塔に奉る。」
 即時に観世音菩薩は、諸の四衆及び天、龍、人非人等を愍んで其の瓔珞を受けて、分って二分と作して一分は釈迦牟尼仏に奉り、一分は多宝仏塔に奉ったのです。

ここが大事です。観世音菩薩は、今まで「いらない」と断ってきたのですが、仏様に言われると即座に「わかりました、受けます」と言ったのです。これが、信心の修行です。そうでなければいけません。

仏様に言われたら、「はい、わかりました」と言うのです。観世音菩薩は「いらない」と言っていたのですが、仏様から「もらっておきなさい」と言われたら、ただちに受け取ったのです。観世音菩薩の精神を見習わなければいけません。「ただちに」ということが大事です。

「よく考えます」と言って、時間が経ってから、「やっぱり、受けます」というのではいけません。

観世音菩薩は、この瓔珞を二つに分けて、一つはお釈迦様に奉り、残りは多宝仏塔に奉ったのです。
 「無尽意、観世音菩薩は、是の如き自在神力有って、娑婆世界に遊ぶ。」
 無尽意よ、観世音菩薩は、是の如き自在神力有って、娑婆世界に遊んでいるのです。

観世音菩薩は、仏様から言われて瓔珞を受け取ったのです。それをお釈迦様と多宝仏にお供えしたのです。これは、仏道修行の基本を言っているのです。

「考えた結果、受け取りません」というのは、仏道修行ではありません。師匠から言われたら、「はい、わかりました」と言って受け取るのです。そうしないと、考えてもわかりません。仏様は、考えてもわからないことを言っているのです。自分の弱い頭で、世界最高の頭脳をもっている仏様を解釈しても、わからないのです。それでは、どうしたらよいのでしょうか。

観世音菩薩は自在の神力があって、娑婆世界に遊んでいるのです。観世音菩薩は、どんなことができるのでしょうか? 観世音菩薩は、神通力があるのです。その観世音菩薩は、仏様に「受けとったらどうだ?」言われて「はい」と言って、素直に瓔珞を受け取ったのです。それが、さらに上の信心です。

観世音菩薩は神通力があるのにも関わらず、お釈迦様に言われて「はい」と言って、素直に受け取ったのです。信心修行とは、そのようなものです。僕に言われたことも、「はい」と言って、素直に受け取ることが大事です。あれこれ考えてから行動していたのでは、いけません。

正理会で仏道修行をする人は、教学だけ学んでいればよいというのではありません。わからないことを教わるのです。それをわかろうとして、教学だけ学んでいてもわかりません。

これは、感じ取るしかありません。「それを考えてみます」というだけではわかりません。折伏をしていかないとわかりません。活動して後から答えがでてくるのです。みんなそうです。妙法などという話を聞いても全然わかりません。

「今はわからないから、わかってから、活動しようと思います」というのでは、永久に悟れません。妙などというものは、頭で理解しようと思っても、わかるものではありません。

「一を勉強して、二を勉強して、三を勉強して、妙がわかったか?」というと、わかりません。妙のレベルと法のレベルは違います。法の場合は、一歩一歩学んでいけばわかるのですが、妙はわかりません。

妙は、直達正観(じきたつしょうかん)でわかってくるのです。わかる人は、瞬間にわかるのです。わからない人は、何年学んでもわかりません。それは、境涯の違いがあるからです。(13に続く)

 

 

『妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五』

時に観世音菩薩、肯(あ)えて之を受けず。

無尽意(むじんに)、復観世音菩薩に白して言さく、

仁者(にんじゃ)、我等を愍(あわれ)むが故に、此の瓔珞を受けたまえ。

爾の時に仏、観世音菩薩に告げたまわく、
当に此の無尽意菩薩、及び四衆、天、龍、夜叉、乾闥婆、阿修羅、迦楼羅、緊那羅、摩睺羅伽、人非人等を愍(あわれ)むが故に、是の瓔珞を受くべし。

即時に観世音菩薩、諸の四衆、及天、龍、人非人等を愍(あわれ)んで、其の瓔珞を受けて、分って二分と作(な)して、一分は釈迦牟尼仏に奉り、一分は多宝仏塔に奉る。

無尽意、観世音菩薩は、是の如き自在神力有って、娑婆世界に遊ぶ。
 

 

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人類を救う 100万人の法華経入門 『妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五』について 11


 「是の故に此の娑婆世界に、皆之を号して施無畏者(せむいしゃ)と為(な)す。」
 
是の故に此の娑婆世界に、皆之を号して施無畏者(せむいしゃ)と為(な)す。

施無畏者(せむいしゃ)とは、相手に危害を加えず恐れをいだかせない者のことです。
 「無尽意菩薩、仏に白して言さく、」
 
無尽意菩薩は、仏に白して言さく、
 「世尊、我今当に観世音菩薩を供養すべし。」
 世尊、我今当に観世音菩薩を供養いたします。

 観世音菩薩様に感謝するのです。すると、貴方はなんにでもなれるのです。アメリカで、高齢になって現役のボクサーになって、アメリカ大統領からほめられた人がいるのです。お爺ちゃんの遊びのボクシングではありません。真剣に殴り合うボクシングです。人間はなんにでもなれるのです。

 念ずれば花は開くのです。「英語も勉強したい。身体も鍛えたい」そのように思うのです。「お婆ちゃん、もう死にたいなどと言ってはいけません。観世音菩薩様がいるのだから、もう一度、布団からおきてやりたいことをやりなさい。観世音菩薩様を信じるのよ」と言えばよいのです。観世音菩薩を信じることは、法華経を信じることと同じことです。
 「即ち頚(くびき)の衆宝珠の瓔珞の、価直(あたい)百千両金(こん)なるを解(と)きて、以(も)って、之を与えて、是の言を作(な)さく、」
 即ち頚の衆宝珠の瓔珞の価直百千両金なるを解いて以て之を与え、是の言を作さく、
 「仁者(にんじゃ)、此の法施(ほうせ)の珍宝の瓔珞を受けたまえ。」
 仁者、此の法施の珍宝の瓔珞を受けたまえ。

 仁者とは、仁の道に達した、道徳的に完全な人。

無尽意菩薩が仏に言ったのです。すると仏は観世音菩薩を出してきて、「観世音菩薩を供養しなさい」と言われたのです。「どのようにして供養するのですか?」と聞くと、世界中の宝をもってきて、観世音菩薩に供養しなさい」と言われたのです。

観世音菩薩は、それ以上の功徳を貴方に与えてくれるのです。これを聞いた人が「観世音菩薩様に供養したいと思いました。今、自分には1万円しかありません。私は、1万円しかありませんが、ご供養します」と言ったのです。

でも、違うのです。あらゆる瓔珞をもって観世音菩薩様に供養するのです。「私は100万円くらい供養できるようにするには、どうしたらよいでしょうか?」これが、功徳です。「100万円を供養したいのだけれども、今はお金がありません。どのようにしたら、100万円つくったらよいのだろうか?」と考えるから、人間が向上するのです。

「今の自分には千円しかありません。千円で我慢してもらえますか?」と言っていたのでは、それ以上は望めません。

自分を何でも変化させくれる、偉大な観世音菩薩様に対して、千円しか供養できないなど、ケチなことを言っていてはいけません。それでは、千円の功徳しか受けられません。

現実は、欲をもってよいのです。仏教は欲を説いたものではありません。無分別法を説いたものです。

しかし、現実に我々は生きています。生きていて、欲望を消して仕事も適当にして、何もしないようにしていてはいけないのです。無分別法を習っているのですが、我々は現実社会に生きているのです。「私は、こうなりたいのだ」と祈りをかけてよいのです。

「議員になりたい」という祈りでも、よいのです。それは、全然違う自分を開発していくことになるのです。観世音菩薩様がいて、初めて法華経の精神が生きてくるのです。観世音菩薩がいなかったら、「無量義は一法より生じる」のだから、「何もしなくてもよいだろう」と考えていたのではいけません。

自分を光らせて頑張ってよいのです。何故、光らないのかというと、貴方は観世音菩薩の智慧を授かっていないからです。だから、貧乏で長屋に住んでいて、自己満足をしているのです。それではいけません。もっと希望を持ちなさい! 勇気をもって、観世音菩薩様にお願いするのです。法華経の祈りは、本当に叶うのです。(12に続く)


 

『妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五』

是の故に此の娑婆世界に、皆之を号して施無畏者(せむいしゃ)と為(な)す。

無尽意菩薩、仏に白して言さく、
世尊、我今当に観世音菩薩を供養すべし。

即ち頚の衆宝珠の瓔珞の価直百千両金なるを解いて以て之を与え、是の言を作さく、
仁者、此の法施の珍宝の瓔珞を受けたまえ。
 

 

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人類を救う 100万人の法華経入門 『妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五』について 10

 

「無尽意、是の観世音菩薩は、是の如き功徳を成就して、種々の形を以って、諸の国土に遊んで衆生を度脱す。」(続き)

観世音菩薩は、様々な者に変身をするのです。「観世音菩薩」の「観(かん)」とは、「見る」ということです。「世音(ぜおん)」とは、「世間の音(こえ)を聞く」ということです。

「世間の音(こえ)を聞く」とは、「衆生の声を聞く」ということです。衆生には、天、龍、夜叉、緊那羅、摩睺羅伽などの怪獣もいます。畜生もいれば、修羅もいれば、何でもいます。その者たちに法を説いていこうと思うと、貴方の身を変化することができるのです。

仏様「お前は、緊那羅、摩睺羅伽に法を説きたいのか?」、「そうです」、仏様「わかった、お前も緊那羅の姿になって法を説きなさい」と言われるのです。

すると、ゴジラのような怪獣の姿となって堂々と法を説くのです。そのようなことです。

観世音菩薩は、修行をしているのですが、まるで遊んでいるようなものです。大王様に法を説く場合には、大王になってしまうのです。緊那羅に法を説く場合には、緊那羅になってしまうのです。

観世音菩薩は、様々な姿に変化して、王様にもなれば、大臣にもなり、怪獣にもなるのですから、楽しんでいるのです。自分の身がパッと変わってしまうのですから、自在です。この世の中を変化しながら楽しんでいるのです。それが観世音菩薩です。
 「是の故に汝等、応当(まさ)に一心に観世音菩薩を供養すべし。」
 是の故に汝等、応当(まさ)に一心に観世音菩薩を供養しなさい。
 「是の観世音菩薩摩訶薩は、怖畏(ふい)急難の中に於いて、能く無畏(むい)を施す。」
 是の観世音菩薩摩訶薩は、恐ろしい場所に於いて、能く恐れることもなく施してくれるのです。

例えば、周りが火事になり自分が焼け死んでしまうときに、「助けてくれ」と叫ぶと、必ず観世音菩薩が見ているのです。観世音菩薩の名前を唱えるならば、貴方は火の地獄から脱することができるのです。

盗賊が出てきて、貴方を刀で斬り殺そうとしている場合でも、「南無観世音菩薩」と唱えるならば、観世音菩薩は必ずその人を助けるのです。

病気で死にそうな場合でも、「南無観世音菩薩様、助けてください」と言うならば、観世音菩薩が助けてくれるのです。

日蓮大聖人様は、『御義口伝』では、何と言われているのかというと、「観音即ち法華の体なり所謂南無妙法蓮華経の体なり云云。」(御義口伝巻下)と言われています。

観世音菩薩と南無妙法蓮華経は、同じ意味です。日蓮大聖人様は、ハッキリと言われています。ということは、「南無観世音菩薩」と言ってもよいのです。

本当に困難にぶつかったならば、「南無観世音菩薩様、助けてください」と言えば、観世音菩薩様が助けてくださるのです。「観世音菩薩様、助けてください」ということは、信仰が負けたのではありません。信仰は、「南無妙法蓮華経」です。「道がなくなって困っています」と言うときには、観世音菩薩に現れてもらって、この道を通してもらうのです。

海に落ちてアップ、アップになってしまったら、修行どころではありません。死にそうなときに妙法蓮華経の修行などできません。そのような場合は、観世音菩薩に頼んでよいのです。

「南無観世音菩薩、助けてください」と言って、困難を脱したならば、再び仏道修行に励んでいけばよいのです。わかりましたか? 困難な時には、「南無観世音菩薩様」と言ってよいのです。

「南無妙法蓮華経」と言える余裕があれば、そのように言えばよいのです。、本当に余裕がなくなったら、「南無妙法蓮華経」と、言えないかもしれません。「助けてください」と言いたくなるでしょう。

妙法は助けてくれるものではありませ。修行して、極めていくものです。困難な時には、観世音菩薩をつかわしてくださるのですから、有難いことです。(11に続く)

 

 

『妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五』

無尽意、是の観世音菩薩は、是の如き功徳を成就して、種々の形を以って、諸の国土に遊んで衆生を度脱す。(続き)

是の故に汝等、応当(まさ)に一心に観世音菩薩を供養すべし。
是の観世音菩薩摩訶薩は、怖畏(ふい)急難の中に於いて、能く無畏(むい)を施す。

 

 

 

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人類を救う 100万人の法華経入門 『妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五』について 9


 「無尽意、是の観世音菩薩は、是の如き功徳を成就して、種々の形を以って、諸の国土に遊んで衆生を度脱す。」
 無尽意よ、是の観世音菩薩は、是の如き功徳を成就して、種々の形を以って、諸の国土に遊んで衆生を度脱しているのです。

折伏しようと思って法を説く人は、どんどん立派になるのです。「乞食に法を説いてきます」という場合は、ホームレスの仲間になり車座になり法を説くのです。立派な身なりをしていくと、乞食は逃げてしまいます。

帝釈天を折伏したいと思ったならば、自分が帝釈天になれるのです。内心は、帝釈天よりも上です。今は百姓の姿でも、内心は仏です。今世は人間ですが、「来世は帝釈天にしてあげましょう」と言われるのです。だから、法を広めた者勝ちです。

自分が「学者に法を説きたい」と思ったならば、来世は学者になって生まれるのです。学者になるためには、東大を卒業していないとなれないから、そのような頭脳を貴方にあげましょう」と言われるのです。

東大を卒業していれば、上層階級と接触する機会がありますから、そのような人々に向かって法を説くことができるのです。そのようにならないのは、「布教をしよう」という気持ちがないからです。そのような人は、乞食のままです。

だから、仏様は「折伏をしなさい」と言っているのです。折伏をすると、最高の修行になるのです。人に説法しようと思うならば、わが身を反省しなければいけません。わが身を反省すれば、来世はその身が備わって生まれてくるのです。見た目も、姿かたちも立派で生まれてくるのです。

そのような人は前世で法華経の修行をしてきたのです。だから、立派な姿で生まれたのです。そのような原理です。帝釈天を折伏しようと思ったら、自分が立派になるのです。だから、折伏をやらなければいけません。

折伏をやらなければ、自分の能力も伸びません。ぶら下がり玉では、何も変わりません。自ら戦いを挑んで、未来を切り開いていかないと、何も変わりません。自分で開いた分だけが、来世自在の人生になるのです。

「君は帝釈天も折伏してきたのか、すごいね。来世は帝釈天に負けない身分にしてあげましょう」ということになるのです。

来世、美人になるのも、ブスになるのも、頭がよくなるのも、頭が悪くなるのも、自分がやってきた行いの結果です。

これが来世の鍵です。政治家になりたい人は、折伏を行じた功徳によって、政治家になることができるのです。過去世の功徳がパッと現れてくるのです。本当にそうなのです。

一生懸命、議員として励むということは、福運を追加しているのです。一人でも、二人でもいいから仏法を教えていくのです。そのように考えている人の人生は、全て修行になってしまうのです。

お釈迦様は、出家して苦行をしていました。ある日、苦行をやめたのです。そんなことをしても悟りは得られないとわかったのです。すると、一緒にいた仲間に「瞿曇(くどん)、お前は退転するのか?」と言われたのです。

お釈迦様は、スジャータという娘からもらった乳粥を食べて、体力を回復されたのです。その後、菩提樹の木の下に静かに座り、悟ったのです。

するとお釈迦様は金色に光っているのです。昔の修行仲間は「釈迦は悟ったのか、あいつとは口を利かないようにしよう」と言ったのです。それと同じです。

立派になってしまうと会うのが嫌なのです。「うわー、お前立派になったな。俺も弟子にしてくれ」とは、言わないのです。お釈迦さまもそうだったのです。悟ったら、「お前は修行を途中で辞めた退転者だから、口を利かない」と言われたのです。

僕の場合は、「あいつは上目線だから同窓会に呼ばないようにしよう」と言われたのです。僕に会うと押されてしまうのです。まるっきり違うものになっているから、誰も太刀打ちできません。そのような人には、会うのも嫌なのです。

「あいつは同窓会に呼ばないようにしよう」と言われても、それもいいじゃないですか。僕も出世したものです。「賢者はよろこび愚者は退く」(兵衛志殿御返事)というのです。差がついてしまったのです。

いろんな職業がありますが、法を説こうと思うと、いろんな姿に変化することができるのです。それが、観世音菩薩です。(10に続く)

 

 

『妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五』

無尽意、是の観世音菩薩は、是の如き功徳を成就して、種々の形を以って、諸の国土に遊んで衆生を度脱す。

 

 

 

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