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本の虫凪子の徘徊記録

新しく読んだ本、読み返した本の感想などを中心に、好きなものや好きなことについて気ままに書いていくブログです。

【再読】  誉田哲也『武士道シックスティーン』 文春文庫

 

本日はこちらの作品を再読しました。

高校の剣道部をテーマとした作品です。

主人公は二人の女子生徒。

青春を剣道に捧げる彼女らの様子が、それぞれの視点から交互に描かれていきます。

それでは、内容について書いていきたいと思います。

 

以下、内容についての記載あり。未読の方はご注意ください。

一人目の主人公・磯山香織は武蔵を心の師と仰ぐ剣道狂いです。警察官の父を持ち、幼少期からずっと剣道中心の生活を送って来ました。「あたしの前に立つ者は誰であろうと斬る」と公言して憚らず、勝ち負けに対して異常にこだわります。ちなみに三白眼です。口も態度も悪く、すぐに殺すぞ貴様と凄む物騒な性格の持ち主。
その粗野な性格とは反対に、竹刀の構えは美しく、無駄のない動きで剣を振るうのが特徴です。一撃一撃が速く、重く、試合の際には激しい猛攻を仕掛けてさっさと勝負をつけてしまいます。そして掛け声は滅茶苦茶勇ましいです。
全中二位の実力者ですが、横浜の小さな地域大会で甲本という無名の選手相手に敗北を喫してしまいます。悔しさを噛み締め、リベンジを誓う香織。その甲本と、もう一人、岡巧という先輩男子生徒を「斬る」ために、強豪校からの推薦をことごとく蹴って東松学園高校に入学しました。

もう一人の主人公・西荻早苗は、香織とは対照的にふわっとした性格で、剣道は好きですが勝ち負けにはあまりこだわりがありません。「お気楽不動心」がモットーです。剣道を始めたのは中学からで、踏み込みが浅く、打ち込みが弱く、気迫も無く、弱くはないものの公式戦での戦績は微妙、というそこそこの実力の持ち主。ですが、日本舞踊を下地とした独特の足運びと、更に、人の動きを真似るのが得意、という特徴的な強みがあります。作中人物の言葉を借りて言うと、「キャリアはないけどセンスはいい子」です。
旧姓の「甲本」でエントリーした大会でうっかり香織に勝利してしまったせいで、彼女から目をつけられ、一方的に敵対視されることになった可哀想な女の子です。

香織と早苗は、東松学園の剣道部で再会を果たします。
早苗が「甲本」だと分かった途端、物凄い勢いで突っかかっていく香織の狂犬っぷりは何度読んでも笑ってしまいます。防具もつけずに直での打ち合いを強要し、容赦なくドウを打って怪我をさせた上で、実力が安定しない早苗に対して、お前はもっと強いだろ、あたしに勝ったんだから、とキレる香織。早苗からしたら、ただただ理不尽で怖い人でしかありません。
これに関してはさすがに、香織も後でやりすぎたな、と反省してはいましたが。

この作品の一番の魅力は、やはり磯山香織でしょう。個性が強すぎます。
三百六十五日、一日も欠かさずに竹刀袋を担ぎ、中学の頃は部活と道場を毎日ハシゴしていたという筋金入りの剣道馬鹿です。高校の入学式当日も、般若が描かれた竹刀袋を背負って登校しました。部活ないのに。こんな明らかな変人に臆することなく声を掛けに行く早苗もなかなか肝が座っています。
昼休みの過ごし方も独特です。弁当はいつもアルミホイルで包んだ握り飯とお新香。食べ終わったら武蔵の『五輪書』を読みながら鉄アレイで筋トレ。『五輪書』は出版社ごとに買って読み比べるほど愛読しています。その他、武蔵であれば吉川英治の原作は勿論、司馬遼太郎や藤沢周平の作品も読み込んでいます。ここまで来ると完全に武蔵オタクですが、本人はオタク扱いされるのはムカつくようです。ちなみに『バガボンド』も読んでいるそうです。面白いですよね、あれ。私も好きです。連載再開、ずっと待ってます。

基本的に剣道とは斬るか、斬られるかしかない、という考えの香織は、勝負に対する見方がかなり独特です。
本文ではさらっと流されましたが、中学の体育祭について回想する場面での香織のモノローグは、特に印象的でした。
学年で三本の指に入るほど足が速いものの、よーい、どんで走って勝敗を決める陸上競技は苦手だという香織。
【スタート前に全員叩きのめしてしまえばいい。そうしたら、悠々と歩いてゴールできる。それが戦いというものだろう。兵法であろう。】

お前は武者か、と言いたくなります。卑怯卑劣を是とするわけではないものの、香織は勝ちにこだわるあまり、時には手段を選ばず反則スレスレの行いをすることもあります。
また、関東大会の団体県予選では、試合前に階段から落ちて左手首が真紫に腫れ上がるくらいひどい怪我をしたのにも関わらず、それを隠して先鋒として戦い、勝ちをもぎ取った後に気絶しました。

こんな感じで一人だけ戦国時代の武者のような価値観で生きているので、当然、部内でも浮きっぱなしです。おまけに実力至上主義で自他共に対して厳しく、先輩の試合にも容赦なくダメ出しする上に口が悪い。本人には悪気はなく、ただちょっと剣道に対して情熱的すぎるだけなんですけどね。

視野狭すぎ、熱くなりすぎの香織に対して、早苗の方は肩の力が抜けていて視野が広く、自分が「楽しむ」ために剣道をやっています。個人での試合に対しても、勝ったら嬉しい、だから勝ちたい、というその程度の気概しかありません。勿論勝負には真剣ですが、香織のような必死さ、貪欲さは欠片も持ち合わせておらず、香織にはそこが気に入らないようです。
どちらかというと早苗は、勝敗にこだわらない、というよりも「こだわりたくない」んですよね。「剛」の剣を求める香織に対して、早苗は根っからの「柔」であるという印象を受けます。それも、きちんと芯のある「柔」です。

こんな正反対で凸凹な二人が、同輩として共に稽古し、団体戦ではチームメイトとして一緒に戦っていくことになります。
香織は早苗の実力を誰よりも評価しており、早苗の方も香織のことを強く意識しています。が、この二人は性格も剣道への向き合い方も全くの正反対なので、事あるごとに衝突を繰り返します。

二人の衝突で特に印象的な場面は、香織が、早苗の独特な足運びが日本舞踊の影響だと知った後の、教室での一場面です。
自分の全てである剣道は、早苗にとっては辞めてしまった舞踊の代用品でしかないのだ、と解釈し、お前のは剣道じゃなくてチャンバラダンスだと馬鹿にする香織。その言葉にはさすがの早苗もブチ切れ、あなたなんてただの武蔵オタクじゃない、私に負けたことが悔しいだけでしょ、と言いながら香織の文庫本を床に叩きつけます。それを見て般若のような笑みを浮かべた香織は、本を拾おうとした早苗の手を上履きで思いきり踏み躙りながら、稽古でもその意気でかかってこいよと言い残して去って行きました。後に残された早苗は、痛みと、言い過ぎた後悔と、いつまでたっても香織と仲良くできないことへの悲しみでボロボロ泣いてしまいます。
まあ、この場面はどちらかというと香織の方に非があるでしょう。早苗が日舞の代用としてではなく、剣道そのものが好きなのだということぐらい、きちんと彼女を見ていれば分かるはずです。それに手を踏むのはどう考えてもやり過ぎでした。

この二人の距離はなかなか縮まりませんが、それがかえってリアルです。近づいたり、離れたり、頑固で不器用な香織と、お気楽で根に持たないタイプの早苗は良いコンビだと思います。
そして意外と、早苗の方がメンタルにブレがありません。強気に見えて、一度落ち込んだり迷ったりするとどんどん落ちていってしまう香織に比べて、早苗は怒りも悲しみもすぐに水に流せてしまう性格なので、もしかするとメンタル的には早苗の方が強い可能性すらあります。お気楽って凄い。

そう考えると、この作品の主人公はやはり香織ですね。武蔵と兵法に縛られていた香織が、早苗や剣道部の面々との出会いを通じて、純粋に剣道が好きだった頃の自分にかえっていく、それがこの物語の一番大きな筋となっています。間にそれぞれの家庭の問題なども挟まれますが、基本的には香織の成長物語です。最終的に、香織は武蔵を卒業して「武士道」にシフトチェンジしました。一人きりで強さのみを追い求めるのではなく、もっと別の方向から剣道と向き合うことに決めたようです。

その後、早苗は両親がよりを戻したことで九州に転校になってしまいます。
密かに落ち込む香織でしたが、新年度のインターハイ会場で「甲本」として福岡の強豪剣道部に所属している早苗と再会します。
二人は来年のインターハイで勝負することを誓い合い、握手をして別れました。

非常に爽やかな終わり方です。
結局のところ香織も早苗も、お互いのことが好きなんです。最高の好敵手同士です。

続編として『武士道セブンティーン』、『武士道エイティーン』、それから『武士道ジェネレーション』の三冊が出ていますが、私の手元にはなく、すぐに読むことができません。残念です。最後に読んだのは結構昔なので、内容もよく覚えていません。エイティーンに私の好きな緑子さん(早苗のお姉さん)の話があったのだけは覚えていますが。

この作品は、剣道についての説明も丁寧なので知識のない方でもすいすいと読み進めることができると思います。
試合は団体戦の方がメインですが、話の内容としては香織VS早苗の構図なので、どちらかというと個人競技が好きな方に向いているかもしれません。
体育会系女子高生の青春小説に興味がある方は、ぜひ読んでみて下さい。
それでは今日はこの辺で。
 

 

 

 

【再読】  S・キング『ミスト』短編傑作選 矢野浩三郎ほか訳 文春文庫

 

本日、私の住んでいる地域は朝からじめっと蒸し暑いです。

湿度が高いせいか、どんよりとした話を読みたくなり、こちらの作品を再読しました。

キングの『ミスト』です。映画版も好きで、何度も鑑賞しています。豪胆なミセス・レプラーが大好きです。

表題作でもある『霧』を含めて全部で五つの作品が収録されています。

それでは、内容について書いていきたいと思います。

 

以下、内容についての記載あり。未読の方はご注意ください。

 

『ほら、虎がいる』松村三生訳
主人公のチャールズは初等中学校の生徒です。少し内気な、よく居る普通の男の子。
授業中、尿意を我慢できなくなったチャールズは、先生の許可を得てトイレに行きます。
男子トイレはL字型をしているのですが、その角を曲がった一番奥には虎が横たわっていました。
なんで?と思うかもしれませんが、とにかく虎です。縞の毛皮に緑色の目をした、あの虎。
チャールズは虎が怖くて用を足すことができません。
なかなか戻って来ない彼の様子を見に来た友達のケニーは、角を曲がって虎に食われてしまいました。ケニーに続いてやって来た先生も、チャールズの虎がいるという言葉を信じてくれません。
手洗い器で用を足したチャールズは、角を曲がっていく先生の姿を横目に、静かに教室に戻り、席について教科書を読み始めました。

以上、大変短いです。
清潔で塩素臭いトイレの奥で、静かに横たわっている虎、あまりにも異様な光景です。
ケニーが食われる場面が不気味です。話しながら角を曲がったケニーの声が突然ぷっつりと途切れ、その後には恐ろしい沈黙が続きます。悲鳴一つ聞こえません。恐る恐る角から覗いたチャールズが目にした、裂けたシャツの破片と微かな血の匂いだけが、ケニーが食われてしまったことを証明しています。

この虎、本当に何だったのでしょう。先生もやっぱり食われたのでしょうか。気になります。


『ジョウント』峯村利哉訳
SFチックなお話です。火星行きの「ジョウント・サービス」の待ち時間で、父親が子供たち二人と妻に「ジョウント」について説明してあげます。

ジョウントとは入口から入った物質を出口に転送するテレポーテーション技術のことで、人間に対しても使用可能なので、こうして地球から火星間の移動のためにも使われています。転送にかかる時間は2マイル(約3.2キロ)の距離で〇・〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇六七秒、まさに瞬間移動です。
大切なのは、ジョウント中、つまり入ってから出てくるまでのそのごく短い間、人間は眠っている必要があるということです。起きたままでジョウントすることはできません。肉体を粒子変換して移動させるジョウント技術ですが、精神は粒子変換させることが出来ないため、起きたままだと生物はワープによる精神的負荷に耐えきれずに狂って死んでしまうのです。
偶然の成功から生まれた、時間と空間を捻じ曲げるテレポーテーション技術。ジョウント中の一瞬に、入口と出口の間で何が起こっているのか、粒子変換され精神だけになった人間がどこを彷徨っているのか、それは誰にも分かりません。過去、実験のために起きたままジョウントを体験した男は、再出現の際には別人のように老い、自我を失い、「あそこには永遠がある」とだけ言い残して絶命しました。科学者たちは、ジョウント中の意識は歪んだ時空の中を浮遊しており、一瞬にも満たないジョウントの間に精神の方は何万年、何億年もの永遠に近い時間を体験していたのだと結論づけます。虚無の中でたった一人で何億年もの時間を過ごし、突然現実に呼び戻されたら、生物が発狂死するのも当然と言えるでしょう。このため、ジョウント前の人間は麻酔で眠らせる決まりとなっているのです。

父親の話が終わり、実際に火星へとジョウントした一家。
しかし転送先で父親が見たのは、変わり果てた息子の姿でした。好奇心旺盛なこの十二歳の少年は、起きたままジョウントを体験したいと思い、麻酔を吸うふりをしたのです。

信じられないくらい老い、濁った黄色い目をして、甲高い声で叫びながら跳ね回る息子。
「父さんが思ってるより長いんだ!父さんが思ってるより長いんだ!僕は見たよ!僕は見たよ!長いジョウントを!父さんが思ってるより―」と金切り声で叫びながら、永遠を見てしまった自分の両目を、爪でえぐり出します。
係員によって運び出されていく、喚き、のたうち回る息子だった存在を見ながら、父親が絶望の叫びをあげるシーンで物語は幕を閉じます。

何度読んでもぞっとしますね。
実際には、父親が家族に聞かせた「カルーン博士によるジョウント実験の過程」が物語の大部分を占めているのですが、最初の、ネズミを使った実験の場面が個人的には一番好きです。下半身だけワープさせても異変はないのに、上半身をワープさせると途端に異状死する、これはワープ中にネズミの意識が何らかの、死に至る出来事を体験したからに違いない、と考えたカルーン博士。しかしその原因が分からず、積み重なるネズミの死体。そこから、研究者チーム(カルーンは含まれず)による死刑囚を使った人体実験が行われる一連の流れは非常に読み応えがありました。必要な事とはいえ、なかなかの非道っぷりです。

作中でも触れられたジョウントの元ネタ、ベスターの『虎よ、虎よ!』はまだ読んだことがありませんが、折を見てそちらも読んでみたいと思っています。


『ノーナ』田村源二訳
行くあてのない若い男が、ノーナという女と出会い、破滅していくお話です。
主人公は優秀な大学生でしたが、恋愛に破れてからは飲んだくれて売春宿で遊ぶろくでなしに成り下がります。大学を飛び出して、ヒッチハイクで西に向かおうとしていたところ、美しいノーナと出会いました。

黒い瞳に黒い髪のノーナ。残酷で、無邪気で、食虫植物のような不気味な女。
ノーナと出会ってから、主人公は突然暴力的になっていきます。人間に対しての激しい苛立ちと憎悪を抑えることができず、会う人間を次々と殺していきます。それを見て興奮するノーナ。

彼女に導かれ、行き先も分からないまま車を運転する主人公。邪魔になる人間を機械的に殺しながら、ぼんやりと昔のことを思い返しています。過去の恋愛のこと、養母の野菜貯蔵室のこと、大学のダンスパーティのこと。

ノーナと共に辿り着いた先の墓地で彼が目にしたのは、乾涸らびた女の死体とその中で蠢く溝鼠たちでした。

どこからどこまでが現実なのか、警察に捕まった主人公は、ずっとお前一人でノーナなんて誰も見ていないと告げられます。墓地に着くまでの殺人は全てお前一人による犯行だと。

主人公はいつから狂っていたのか。そしてノーナとは一体何だったのか。
鼠、鼠、鼠。幻覚と幻聴、絶えず聞こえる、壁の中を走り回る鼠たちの足音。居もしない女の存在や、他人には聞こえない鼠の足音がする、と主張する彼は、傍から見ればただの異常な殺人鬼です。
ラヴクラフトの『壁のなかの鼠』を思い出して少しニヤッとしてしまいます。明らかなオマージュ作品ですね。キングのラヴクラフトへの愛が垣間見える作品です。


『カインの末裔』松村三生訳
こちらは非常に短いお話です。
主人公のギャリッシュが、大学の寮の自室から銃を乱射し始める話です。
乱射というよりは狙撃と言った方が良いかもしれません。
彼は友人たちと何気ない会話を交わした後、部屋に籠もり、窓の外の人間を片っ端から撃ち殺していきます。ブロンドの少女が、その母親が、学友が、次々と脳髄を撒き散らして吹っ飛んでいきます。一撃必殺、正確無比な狙撃です。

どうしてそんなことをしたのかは分かりません。ただ、彼の様子から、世界や人間に対して美しさを見出すことのできないタイプの人間なのではないか、と思います。一つ前の『ノーナ』の主人公もこのタイプに見えます。理由は不明ですが、人間というものに対して強い嫌悪感を抱いている、悪人というよりはただひたすらに異常な人物です。
「世界を食うか、食われるか」という発言も、聖書のカインとアベルの引用も理解不能です。狂人の思考を理解しろ、という方が無理な話なのかもしれませんが。
私は幽霊や怪物よりも、こういう生きた人間でトチ狂った人物の方が余程怖いです。


『霧』矢野浩三郎訳
本書のメインとなる収録作品です。他4編を合わせたよりもページ数が多いです。

謎の霧に包まれたスーパーマーケットで、閉じ込められた町の住人たちが次々と災厄に襲われるお話です。主人公のデイヴィッドもその一人。幼い息子のビリーも一緒です。気味の悪い多種多様な怪物たちが登場します。

政府の実験「アローヘッド計画」のミスで異次元に空いてしまった穴の奥から、霧と共にやって来る、謎の触手やおぞましい姿の蟲ども、途方もなく巨大な、クトゥルフ神話の邪神を思わせるような怪物。まさに悪夢そのものです。
スーパーマーケットの外、一寸先も見えないような濃霧の奥には死が広がっています。止める声を振り切って外に出た人々は、絶叫だけ残してそれきり戻って来ず、彼らが腰に結んだはずのロープだけが、真っ赤に染まり、無残に断ち切られた状態で戻って来ます。
スーパーの中も安全とは言えません。突然、異様な物音や震動が建物を揺らしたり、夜には翼竜のような怪物が窓を破って襲来したり。いつ霧が晴れるかもわからないまま、人々は正体不明の恐怖に怯えるしかないのです。

不気味な怪物たちも勿論魅力的なのですが、この作品の見所は何と言っても、スーパーという閉鎖された空間の中で徐々に狂っていく町人たちの様子です。
町の鼻つまみ者だった狂信者のミセス・カーモディがだんだんと発言権を強めていき、神の裁きだ、贖罪だ、生贄だと喚く彼女に賛同する者が次々と増えていく様子は、読む度にぞっとする場面です。死と恐怖を前に、正常な思考力を失い、過激な煽動者に縋ろうとする人々の姿は余りに生々しい。傍から見れば愚か極まりないのですが、自分が同じ立場に立たされた時、果たして彼らのようにならないのかと聞かれると、そうはならないと言い切れないところが一番恐ろしいです。このミセス・カーモディの恐ろしさは、映画版ではより強調されていました。女優さんの熱演がお見事でした。

最終的に、デイヴィッドはスーパーを出て、息子のビリー、アマンダ、ミセス・レプラーを連れて車で出発します。ミセス・カーモディを撃ち殺したオリーが、車に乗る前に怪物によって真っ二つにされてしまったのは残念でした。なかなか良いキャラクターだったのですが。
どこまでも続く霧の中を、慎重に進んでいく車。町は死に絶えたように人の気配がなく、もはや無事な場所が残っているのかさえ定かではありません。ラジオも受信できないため、霧による被害の規模も不明です。もしかすると、世界中がこの霧に侵されている可能性もあります。車の外には怪物たち、更にこの先ガソリンが補充できるかどうかも分からないという絶望的な状況です。それでも、唯一の希望をハートフォードという地に託して、デイヴィッドは車を進めるのです。

アメリカ軍が怪物に完全勝利した映画版の方が、まだスッキリとした終わり方だと思います。あちらでは主人公以外のビリー、アマンダ、ミセス・レプラーは全員死亡していますが。
こちらではデイヴィッド一行にしろスーパーに残った人々にしろ、その後どうなるかが一切分からないため若干もやもやが残ります。想像の余地がある分、より文学的ですね。私はどちらの結末も好きです。
デイヴィッドたちを待ち受けるのは希望か、それとも更なる絶望なのか、できれば前者であって欲しいものです。スーパーに残った人々も、デイヴィッド目線で見ると嫌な奴らに見えますが、彼らも必死だっただけなので、あまり酷い目には遭わなければ良いなと思います。

余談ですが、もし自分がこのスーパーにいた場合を想像すると、恐らく最後までスーパーの中に留まっていると思います。ミセス・カーモディの信者になっているかどうかは分かりませんが。あくまで一人で来ていた場合です。周りに家族がいれば、また違った行動を取っているかもしれません。
映画版ならおそらく、最初の夜辺りで蟲に刺されて死んでいますね。映画版の夜は原作に比べてかなりハードモードなので。


以上、全五編でした。
私は、主人公(読み手)が突然理不尽に襲われる『ほら、虎がいる』と『霧』が特に好きです。『ノーナ』と『カインの末裔』はどちらかというと主人公が「理不尽な災厄」側ですね。
初めて読んだときに一番怖かったのは『ジョウント』です。永遠を見てしまい発狂する、という状況が想像し辛いせいか、より気味悪く、恐ろしく感じました。

後味の悪い作品が好きな方には、ぜひ読んで頂きたい一冊です。
それでは今日はこの辺で。
 

 

 

 

【再読】  佐藤多佳子『ごきげんな裏階段』 新潮文庫

 

本日はこちらの作品を再読しました。最後に読んだのはかなり昔です。

子供向けの、ファンタジー要素の強い作品です。

それでは早速、内容について書いていきたいと思います。

 

以下、内容についての記載あり。未読の方はご注意ください。

 

築三十年のボロい「みつばコーポラス」。物語の中心となるのはこのコーポにある寂れた裏階段です。薄暗く、日光が当たらないため常にじめっとしている、少し不気味な場所です。
三編とも主人公は子供。この作品では彼らが裏階段にいる不思議な生き物たちと出会い、それぞれ交流を深めていく様子が描かれています。

『タマネギねこ』
四人家族と不思議な猫のお話。
主人公の学は小学生の男の子です。家は三〇六号室。裏階段で茶トラの子猫・ノラによく餌をあげています。
このノラは猫のくせに生のタマネギが大好き。皮付きのまま丸かじりします。そして、ノラは裏階段に生えた怪しいタマネギを食べたことで、変な姿のタマネギねこになってしまいました。体は子猫なのに頭はタマネギの形をしていて耳がなく、しかも人間の言葉を話す化け物猫です。こんなのが突然家に来たら、私なら卒倒すると思います。

このコーポはペット禁止なのですが、学と両親・妹は、ノラを家でこっそり飼い始めることにしました。
言葉を話すようになったノラは、気が強くてわがままなお嬢さん。お母さんの作ったタマネギスープを飲んで、良いバター使ってるわね、でも胡椒が多いわ、なんてコメントします。飼ってもらっている立場なのに基本的に態度が大きく、女王様然として好き勝手に振る舞う、まさに「猫」です。

ノラの体は滅茶苦茶タマネギ臭いのですが、洗ってやる度になぜか少しずつ体が縮んでいきます。タマネギの皮を剥くようにどんどん小さくなっていくノラ。そのうち、手のひらに乗るくらいになり、更に縮んで大福もちくらいになり、更に縮んでビー玉くらいになり、最後には消えていなくなってしまいました。その頃には家族全員がノラのことを好きになっていたので、皆大慌てで消えたノラを探します。

結局消えたタマネギねこは見つかりませんでしたが、翌朝、学は裏階段で普通の猫に戻ったノラを発見します。もう話はできないただの猫です。
それでも学や家族は大喜びで、これからも内緒でノラを飼うことに決めました。ペット反対派だった両親まで乗り気です。

女の子口調で喋るノラが可愛かったので、元に戻ってしまったのは少し残念です。
タマネギ猫のノラのためにタマネギ料理をたくさん作ってあげたお母さん、アレルギーを我慢してお気に入りのクッションを譲ってあげたお父さんの懐の広さには感服しました。良い人たちです。


『ラッキー・メロディー』
このお話の主人公・一樹も小学生の男の子です。二一二号室の叔父さんの家に居候中。リコーダーが下手で、五日後に迫ったリコーダーテストを前にかなり焦っています。
裏階段でリコーダーの練習をしていたところ、五センチくらいある巨大なクモから突然「へたっぴ」とダメ出しされます。

当たり前のように人語を話すそのクモは、二種類の笛を背負っています。ヒマワリの茎で作った笛と、ドクダミの茎で作った笛。ヒマワリの笛の音を聞くと幸運に恵まれますが、ドクダミの方はその反対で不運に見舞われます。それを知らずにうっかりドクダミの笛の演奏を聞いてしまったせいで、一樹は自転車にぶつかったりハトの糞が直撃したりと散々な目に遭います。二回目に聞いたときには更に酷い目に遭いました。

一樹はクモと交渉して、リコーダーテストのときに、自分の代わりにこっそり「若者たち」を吹いて欲しい、ヒマワリの方で、というお願いを聞いて貰うことに。
それには成功したのですが、笛による幸運はその演奏を聴いていたクラス全員+先生にも作用するため、一樹が得られたラッキーは本来の三十九分の一の、しょぼいものでした。落ち込む一樹。テストでズルしたバチが当たったんでしょう。

ですがそれから奮起して、あのクモと同じくらい上手くなってやる、と毎日リコーダーの練習に励むあたり、一樹は立派な子だと思います。その意気でこれからも頑張って欲しいものです。


『モクーのひっこし』
主人公は両親と共にコーポに越して来たばかりの七歳の女の子・ナナ。部屋は三一〇号室です。無邪気で好奇心旺盛な性格の持ち主で、裏階段のダストシュートから出てきた、煙男のモクーと友達になります。

モクーは自称「けむりおばけ」。その名の通り人型の煙で、常にモクモクしています。不定形なので空腹時は敷物のようにでろーっと地面に伸びてしまいます。
モクーが食べるのもやはり煙。料理の煙やタバコの煙です。魚はサンマ、肉なら牛肉をニンニク醤油で焼いた時の煙が好物だそうです。結構グルメですね。

最近は食べられる煙が少ないと嘆くモクーに、ナナのパパが知り合いのスナックで働かないかと提案します。このパパ、無邪気な性格で一々ノリが軽い。無責任や発言や行動のせいでよく奥さんを怒らせています。

タバコの煙が充満するスナックで煙を食べてエア・クリーナー代わりを務めつつ、その変幻自在な体を活かして煙のショーも行うようになったモクー。ピアノの音に合わせてクジラになったり、ウサギになったり。が、その後「空気が綺麗になりすぎて落ち着かない」という理由で店を追い出され、またみつばコーポラスに戻って来ました。モクー本人も店で働くのはあまり楽しくなかったようなので、逆に良かったと言えるでしょう。

最終的に、モクーはナナたちの家でパパのタバコの煙を食べて暮らし、パパが不在の時は三〇六号室のタバコ好きの奥様に貸し出す、ということで話が纏まりました。
三〇六号室の、ナナと同い年の女の子・くるみは「タマネギねこ」の学の妹です。ノラとモクーというそれぞれの不思議なペットを通じて、この二人も仲良くなれそうですね。どちらも裏階段で出会ったという繋がりもありますし。

以上、全三編でした。
どのお話も子供向けの易しい言葉で書かれているため、非常に読みやすいです。小学校低学年くらいの子でも読めるのではないでしょうか。

個人的には『ラッキー・メロディー』に登場するアリババ先生がお気に入りです。年増できつい性格の音楽教師で、学校一の嫌われ者。『タマネギねこ』では三〇一号室の口うるさい「有沢のおばば」として登場しました。こちらでも嫌われています。性格は最悪ですが根はそんなに悪い人物ではなく、面白いキャラクターだと思います。小学生の男の子に野菜ジュース(苦い)と麦芽クッキー(全然甘くない)を出すのは嫌がらせに近い気もしましたが。
 

本当に久しぶりに読み返したのですが、内容を忘れていた部分も多々あったので、新鮮な気持ちで読むことができました。懐かしい、というよりも、こんな内容だったっけ、といった感じです。

昔読んだ本を忘れた頃に読み返してみるのも、なかなか楽しいですね。

それでは今日はこの辺で。

【初読】  杉浦日向子 監修『お江戸でござる』 新潮文庫

 

杉浦さんのエッセイが好きなのですが、こちらの作品はまだ読んだことがありませんでした。

昔、NHKで放送していた『コメディーお江戸でござる』という番組で、杉浦さんが江戸文化の解説を担当されていたのですが、その番組で取り上げた内容を、本に纏めたのがこちらの作品になります。

江戸の風俗について、テーマごとに分けて紹介されています。

それでは、内容について。

 

以下、内容についての記載あり。未読の方はご注意ください。

 

江戸の文化は本当に洗練されています。特に、治水と教育に関しては同時代の他国の都市と比べても非常にレベルが高い。江戸市内の識字率、ひらがなに限っていえばほぼ百パーセントというのはすごい数字です。瓦版売りや貸本屋が繁盛するわけです。

江戸の文化、と聞いて私が真っ先に思い浮かべるのは、やはり食べ物でしょうか。
江戸のグルメといえば寿司・蕎麦・鰻・天麩羅。杉浦さんだけでなく、この本の構成を担当した方も明らかに蕎麦びいきですね。江戸の食文化については「料理茶屋・屋台」の一つの項目にまとめられていますが、蕎麦だけは別に「蕎麦」の項目があります。
ざるや盛りも良いですが、具入りの蕎麦も美味しそうです。江戸末期にはかなりメニューも増えています。海苔と青柳の貝柱を乗せた「あられ」。卵焼き、かまぼこ、椎茸、くわいを乗せた「しっぽく」。かまぼこ、松茸、湯葉を乗せた「おかめ」など。
ちなみに、ざるや盛りの蕎麦つゆのレシピ(初期)は、「みりん一合と醤油一合を合わせて一合になるまで煮詰め、大根の絞り汁を加える」だそうです。江戸の蕎麦つゆは辛いというのは知っていましたが、これはちょっと予想を超えていました。そんなに煮詰めたらカラメルみたいになっちゃいそうです。

食べ物の次に思いつくのは吉原遊廓。こちらは「花魁」の項目で触れられていました。
「〜でありんす」という廓言葉は地方出身者のなまりを消すために作られた人造語ですが、吉原の全ての見世で「ありんす」言葉が使われているわけではありません。「おす」「ざんす」など見世によって語尾が異なります。そのため話し方でどこの見世の花魁かすぐに分かるそうです。

遊女の中でも「呼び出し」の花魁は、諸芸に通じ、教養もある、最高位の存在です。決して笑わず、座敷でも物を食べず、しとやかに座っているだけ。このクラスの花魁は遊女三千人の中でもたったの四人程度です。当然、彼女らと遊ぶのには莫大な費用が掛かります。三日で百両吹っ飛ぶこともあるそうです。力士の一年の給料が十両、ということを考えると、どれだけ高額な遊びなのかということがよく分かります。
ケチで野暮な客は嫌われますから、相当気前が良く、かつさっぱりとした粋な性格の男でなければこの花魁と恋愛をすることはできません。
それでも客が引きを切らない辺り、ステータス的な意味でも、男として、高嶺の花をものにしたいと思う人間が多かったのでしょう。その気持ちはよく分かります。

その他の江戸の職業や、商売についての項目も興味深かったです。人材斡旋をする口入れ屋や損料屋(レンタルショップ)が大人気、というのが江戸らしいです。損料屋では物だけでなく猫や犬、人まで借りることが出来たそうです。

大店の若旦那や奉公人、武士の暮らしなども覗くことができます。江戸は基本的に、出稼ぎのための町なんですよね。地位が上がるほど、窮屈さも増していきます。武士なんてもうガチガチです。身一つで日銭を稼いで暮らす、独身の若い男が一番気楽そうです。
女性比率が低いため、女性の再婚、再再婚も珍しくはありませんでした。町人の女性に関しては二度以上の結婚がお上から推奨されていたくらいです。貞操観念は若干緩めです。

それから、江戸といえばリサイクル文化。
古紙を何度も漉き返したり、蝋燭から落ちたロウをもう一度溶かして蝋燭にしたり、割れた瀬戸物は接いで使ったり。ゴミである灰や髪の毛、排泄物まで再利用します。この「もったいない精神」は私も見習いたいものです。

他にも、江戸のファッションや江戸っ子たちの四季の楽しみ方、長屋での暮らし、趣味、信仰や狐狸妖怪についてなど、様々な事柄が紹介されています。知っているものもあれば知らないものもあり、どれも非常に面白かったです。
東京生まれ東京育ちとしては、やはり、江戸文化は非常に身近なものに感じられます。現代に通じる物も多くありますし。
とはいえ、古風で雅な上方文化も好きです。
歴史ある京に対抗して、まったくの反対方向に発展していったのが江戸の「粋」文化なわけですから、上方あってこその江戸の文化です。

知識があると、時代小説を読んだり時代劇を見たりするときにも、より一層楽しむことができます。この作品は一つ一つの項目が簡潔で読みやすいので、江戸時代への入門書としてはうってつけだと思います。興味がある方は是非。
それでは、今日はこの辺で。
 

 

 

 

【再読】  谷崎潤一郎『人魚の嘆き・魔術師』 中公文庫 

 

本日はこちらの作品を再読しました。短編二本立てです。

挿絵が多めに入っているのですが、その絵がとても素敵です。特に『人魚の嘆き』の人魚の裸の上半身は、非常に肉感的に描かれていて、思わず見入ってしまうほどの艶めかしさです。

それでは、内容についての感想を書いていきたいと思います。

 

以下、内容についての記載あり。未読の方はご注意ください。

 

『人魚の嘆き』
人魚に恋した貴公子のお話です。
舞台は支那の愛親覚羅王朝時代。中国史にはあまり詳しくないのですが、乾隆の帝という言葉から推測するに、清朝の中期頃でしょうか。十八世紀後期から十九世紀にかけての辺りだと思われます。きちんと調べていないので間違っているかもしれませんが。
 

主人公である若い貴公子は巨万の富と美貌と才智に恵まれた青年ですが、すでに贅沢と放蕩をし尽くしており、早くも世の中に退屈しています。
刺激が欲しい、と思うものの、もうほとんどの遊興は体験しているため、目新しい楽しみを見つけることができません。美しい七人の妾にも、古今東西の美酒にも、連日連夜の宴にも飽き飽きし、阿片に溺れる毎日を送っていたところ、ある日、怪しげな西洋人の商人が彼に人魚を売りつけに訪れます。商人の話を聞き、躊躇なくそれを買い取る貴公子。そしてその日から、彼は人魚に夢中になっていきます。

玻璃でできた水甕の中に囚われた人魚は、真っ白な肌と暗緑色の髪を持った物憂げな美女の姿をしています。貴公子から与えられた酒を飲み干す際、ちらりと見えた真紅の舌が艶めかしい。驚くほど澄み切った燐のように青く輝く瞳が、恐ろしくも美しく、見る者の心を惹きつけます。尾を揺らめかせ、しなやかに動く、水中の妖魔。まさに魔性の美です。

本人曰く、イタリアのナポリ生まれとのこと。
この人魚、性格はそれほど悪辣ではなく、控えめで奥ゆかしい、女性らしい感性の持ち主のようです。少なくとも作中では「背徳の悪性」を見せることはなく、西洋の人魚伝説にあるような、男を惑わせてばりばり食ってしまうような残酷さは見られませんでした。
まあこれは、囚われの身として本性を隠していただけなのかもしれません。海では普通に人を食っている可能性もあります。

人魚の持つ、この世のものとは思えぬ美貌にすっかり魅了されてしまった貴公子でしたが、最終的には、故郷に帰りたいという彼女の願いを聞き入れ、海に放してやりました。

そして、人魚や商人の故郷であり、彼にとっては未知の世界であるヨーロッパを目指して船を進めていきました。その後彼がどうなったのかは分かりません。

ストーリー自体は単純なものですが、文章がとにかく美しいのが特徴的です。特に人魚の美しさと妖しさを説明する下りは凄まじい力の入れようです。瞳の輝き、体の曲線、肌の光沢の一つ一つに対して、言葉を尽くしてその「美」の極まりっぷりが強調されています。

人魚の青い瞳は、
【どうにかすると、眼球全体が、水中に水の凝固した結晶体かと疑われるほど、淡藍色に澄み切っていながら、底の方には甘い涼しい潤いを含んで、深い深い魂の奥から、絶えず「永遠」を見詰めているような、崇厳な光を潜ませています。】
肌の白く照り輝く様は、
【何か、彼の女の骨の中に発光体が隠されていて、皎々たる月の光に似たものを、肉の裏から放射するのではあるまいかと、訝しまれる程の白さなのです。】

この辺りの描写には作者の執念を感じます。
女というよりも「美」に対する執念というか、この作品に限らず、谷崎は自分の「美」を表現する手段として女性を使っているような印象を受けます。
この人魚はあまりにも「美の極地」として描かれているため、金剛石七十個、紅玉石八十個、孔雀九十羽、象牙百本という値段が安く感じられるほどです。このレベルの美女なら国の一つや二つ簡単に落とせるでしょう。

支那の都の退廃的な雰囲気と人魚、オランダ人商人という組み合わせはどことなく『アラビアン・ナイト』を思わせます。貴公子の贅を尽くした放蕩の描写も実に美しく、彼が開く絢爛豪華な宴の様子は想像するだけでわくわくしました。
『アラビアン・ナイト』にも言えますが、女にしろ着物や邸宅にしろ、目も眩むほど派手で豪華な描写の方が読んでいて楽しいです。馬鹿みたいに宝石まみれで、一周回って下品なくらいが好きです。小さい時は『シンドバッドの冒険』の何回目かで出てくるダイヤモンドの谷が大好きでした。
この作品も何となくそういう雰囲気なので、谷崎の短編の中でもかなり気に入っています。


『魔術師』
どことなく異国の情緒を感じさせる、薄汚く、燈火と喧騒で満ちたいかがわしい夜の公園を、傍らに清く美しい恋人を伴って歩く主人公。
二人が向かう先は、魔術師が公演しているという見世物小屋です。

人々は魔術師の怪しい魔術ではなく、彼自身が放つ不思議な魅力の方に惹かれているようです。
傲慢な若い魔術師は、女のようにも見える、中性的な容姿の持ち主です。可憐な女奴隷の髪を踏み敷く、美貌の魔王。彼が仕掛ける甘美な誘惑に屈し、観客たちは自らこの美しい存在の前に身を投げ出しては、心身共に支配されることを望みます。主人公も結局は誘惑に負け、魔術師に「半羊神になってお前の玉座の前に躍り狂っていたい」と告げ、どうかお前の奴隷にしてくれと懇願します。半羊神とは卑しい半人半獣の怪物のことです。

捨てられた恋人の女は嘆きつつ、自分もあの人と同じ半羊神にしてくれと魔術師に頼み、主人公と永劫共に在ることを誓いました。
この「恋人」は人間の女というよりも、天使や、もしくは主人公の善性や理性の顕現といった存在のようにも見えます。
魔術師の小屋へ向かう途中で主人公が彼女に言った
【二人の体と魂とは、眼に見えぬ宿縁の鎖で、生れぬ前から一緒に縛られていたのだろう。】
というセリフが意味深です。

お祭り騒ぎの夜の公園から、静かで不気味な一画を通り過ぎ、明るい小屋の中に出る、この場面転換が非常に見事です。
魔術師の小屋では、大劇場を模して荘厳に作り上げられた内装の中、観客たちの興奮による熱気が静かに渦巻いているのをまざまざと感じ取ることができました。

個人的な意見としては、魔術師よりも魔女の方が嬉しいですね。この魔術師は女には美男子に、男には美女に見えるそうですが、中性的であるよりは完全に女であって欲しいです。怪しい技で人々を虜にする、美しく傲慢な魔女。素敵です。ちょっとディズニーの悪役っぽいですが。


以上。全二編です。
どちらも短く、ストーリーも単純なので非常に読みやすいです。物語として読むというよりも、独特の世界観に浸るために書かれた作品、という印象です。妖しく幻想的で、どこか官能的でもあります。たまに読み返したくなる作品です。
ポオやラヴクラフトの怪奇小説が好きな人にも向いているかもしれません。
それでは、今日はこの辺で。