私達が生きる目的、あるいは生きているという事実は、日々に善く生き善く死ぬという願いに在ると私は考える
山尾 三省(詩人) 「法華経の森を歩く」
「自分はなぜ生まれ、何の為に生きているのか」誰もが一度は考えた事があると思います。
私達は皆この世界で唯一の存在ですが、だからといって居なくなっても多くの場合世界は何も変わりません。
私がいま死んでしまったら、近しい人は悲しんだり困ったりするかも知れませんが、世界全体という観点からみれば何の問題もありません。
「余人を持って代えがたい」という言い方をしますが、本当に「代えがたい」人は極めて稀ですし、「代えがたい」人であっても世界全体に与える影響は軽微、という事が殆どです。
人生で個人的に大きな事をやり遂げたとしても、世界には何の変化もありませんし、すぐに忘れられます。
では我々は何の為に生きているのか。実は仏教においてこの答えは明白です。山尾さんの言う通り「日々に善く生き」る為です。
何故「善く生き」なければならないのでしょうか?仏教は悩み苦しみから離れる事を目的としています。それが一番の幸福だと考えているからです。その為に「成仏」を目指すのです。「成仏」とは「仏に成る」という事です。
「善く生きる」すなわち自分を高める為に善行を行い、執着を離れ、物事をありのままに見られるよう心がけます。勿論欠点は改めていきます。
しかし人間、一度だけの人生であれば自分の心が抱えた問題全てを解決する事はできません。自分の心の有り様を変えるのはとても難しい事です。望めばそれだけでできる、ちょっと意識すれば何とかなる、というものではありません。
だからこそ我々は生まれ変わりを繰り返し歩みを続け、仏の境地を目指します(宗派によって考えがやや異なりますが、「成仏を目指す」事は共通しています。仏の世界に行くのもまた生まれ変わりです。仏の世界にいったらすぐ仏になるのではなく、仏の元で仏を目指します)。
この人生で残した課題は次の生で、そこでもできなかった課題はまた次の生で取り組みます。
「善く生きる」事ができれば、そのぶん成仏に近づきます。
行動を変えれば少しずつ心も変わっていきます。善いことを続ければ心も善くなっていきます。
悪い事を続ければ仏の境地から離れ、そのぶん苦しくなります。悪事により得をしたつもりになっても、善行で打ち消さなければ必ず報いがやってきます。
慌ただしい世の中にいる我々は、「本当の幸せ」が何なのか見失いがちになりますね。心を落ち着かせ、自分にとって「本当の幸せ」は何なのか、ゆっくり考える時間を持ちたいものです。
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