【冠婚葬祭編】最後に残ったのは”婚の巻”
ということで
今回はわたしの結婚を書いていこうと思うのですが
わたしは、ただ今”バツイチ”(^O^;)
そうでないと
世の通例に流されてというか、人様よりは二回りも遅れましたが
縁あって結婚することになったわたしが
(戸籍上だけとは言いながらも)
想いの性になることはできないので・・・
1980年には「DMS-Ⅲ」は発表されて、GIDの概念も提示されてはいるのですが
まだまだ私達にはなじみのないものでした・・・
その後、1994年に「DMS-Ⅳ」が発表され
1998年には、埼玉医大で法令順守下でのSRSが行われ
2001年に「金八先生」第六シリーズで上戸彩が性同一性障害の役を演じました
そしてとうとう2005年に
「性同一性障害者性別取扱特例法」が施行されました
特例法が施行された時には
人様から二回り遅れと言いながらも、結婚して既に10年以上が経っていました
そして二人のこどもも、もう小学生
それからさらに10年近く
家族四人の生活はそれなりには楽しく過ごしてきたのですが
いつしかどうにもならなくなって「勝手にRLE」と家を出て
トランスを本格的に始めて数年後に離婚しました
※彼女としては、保険証の被保険者名の私の名前が変わることに耐えられなかった
その彼女(元奥さん)との結婚に至る始まりが
33年前の今日でした
「わたしの女の子との交流記 その七 お見合い編」でも書いていますが
最初の転勤先で一緒に仕事をしていた営業からの紹介で
彼の家でお会いしてから、二人でドライブ方々ガーデンホテルまでドライブ
そこでお昼をいただいたのです
今は資本も変わって名前も変わりましたが
当時は出来たばかりで、とっても明るくて美しいホテルでした
会ってから4ヶ月
このお見合いと相前後して、最初に建てた家の住み替えの話も進んでいたので
急遽彼女が一人で住んでいたマンションに移ることになりました(^O^;
※このあたりの成り行きは、上で挙げた「お見合い編」で書いていますのでそちらも参照してみてください
夏休みに引っ越しをしたのはいいのですが
この段階ではなんの手続きもしていないので、単なる同棲(^O^;)
結婚式、特に会社の人を呼んで、上司に挨拶してもらって・・・なんていうのは
わたし自身はどうでもよかったのですが
多くの場合、女の子は「将来何になりたい?」「お嫁ちゃ~ん」と言うことがあるので
相手が結婚式を挙げたいと言ったら、拒絶する気はないのですが
彼女も「そういう結婚式はいい」と言うので、よしました(^O^)
本来結婚は、手続き的には役所に婚姻届けを出せばよいのですが
そうは言っても一つの区切りとして
新婚旅行かたがたで、当時会員になっていたトマムの水の教会で
両方の両親だけで(実際には彼女の札幌の友人家族も)式を挙げることにしました
わたしは簡単に、いつでもやりたい日に式なんて挙げられるだろうと思いながら電話したら
今からだと「最短でも10月18日」とのこと・・・
それで仕方なくその日に予約をしたのですが
その二カ月の間になんかあったらいかんなぁ~と
式とは無関係に区役所に届けだけを出しに行くことにしました
それなら(結婚した日を)いつにするか?
それなら式を挙げるのが”18日”だし、2か月前の同日18日が大吉なので
日曜日でしたが区役所に行って、婚姻届けを出してきました(^O^)/
※区役所では単に守衛さんが受け取ってくれるだけなので
実際の処理は翌月曜日なのでしょうが、日付は提出当日にしてくれます
そういうわけで、わたし達の”結婚の記念日”は
「婚姻届け記念日」と「結婚式記念日」の二つあるのです
「それがどうした?」って?
それはホテルだとかレストラン等で
結婚記念日にワイン一本だとかプレゼントをしてくれたりすることがあります
こうした時、多くの場合「証明書を出せ!」なんてことはないのですが
それでも、嘘をついてまでサービスを受けるのはねぇ~
そんな時”嘘いつわりのない正しい記念日”が二つあると
おまけのチャンスが二倍になります
実際にもその恩恵は何度か享受しました(^O^)/
そんな式を挙げたトマムですが
前日に羽田で両方の両親と合流して6人で千歳へ
両方の両親共、飛行機は初めてだったので、それもよかったかな(^O^)
そして前泊したトマムで衣装合わせ
彼女はなかなか気に入ったドレスを見つけられずにお時間かかりましたが
やはりわたしも着たかったですね(^O^;)
当日は、わたし達と両方の両親に、彼女のお友達家族4人の計10名のみ
全面の大きな一枚ガラスの前で、神父さん立ち合いの元、結婚の宣誓
頭を垂れている時に風がフワ~っと!
あれ何でだろう??と頭を上げると、前面の一枚ガラスが横に動いていました
それと共に池の向こうの草地にいろいろな動物が・・・
という、最後の動物は無いですが、前面が全開放されたのは本当で
とってもビックリしたし、感激しました(^O^)/
翌日には、彼女の両親は松島に
わたしの両親は下北半島の薬研温泉に寄りながら帰っていきました
そしてわたしと彼女は三日間レンタカーを借りて
一日目が、帯広~富良野の日帰りドライブ
二~三日目が、屈斜路湖プリンスでの一泊を挟んでの道東ドライブ
※この屈斜路湖プリンスは、以前富良野EXPでのスキーツアーでお世話になった方が
支配人になって赴任していたので、その方にお会いする意味もありました
この三日間のドライブで、当時は高速もなかったのに
1050kmも走っていました
ホテルでは、通常の時間での朝食/夕食を摂っているのに
さすが北海道と思いました・・・・この時が北海道での初の走りでした(^O^)
最後はまたトマムに戻ってきて
翌日には電車で小樽に向かいます
小樽では運河沿いのホテルに一泊したのですが
小樽一日目もレンタカーを借りて、余市~積丹を廻ったのですが
このドライブ中に初ケンカ(^O^;)
まあ成田離婚ならぬ小樽離婚にはなりませんでしたが
翌日はバスで市内観光
水族館やロープウエイに乗って天狗山からの景観やガラス工房の見学
そして夕方にフェリーで小樽を離れて、新潟経由の舞鶴へ・・・
このフェリーでは問題があったのです
それは予約していたお部屋が使えなくて
アップグレードしてセミスイートのお部屋にしてくれました(^O^)
※アップグレードは、GBRに二人で潜りに行った時の帰り便でもビジネスクラスにしてもらいました
これで8泊9日の結婚式&新婚旅行の旅も終わります
それから7年間はDINKS(Double Income No Kids)の時が続いたので
二人してあちこちと旅しました
向こうの家には今でも廊下の壁に貼ってあるのですが
日本地図上に、泊まった場所には赤丸、訪れた場所には緑色、潜った処は青丸の
シールを貼ってあります
日帰り旅は1日、一泊二日だと2日と言う風に数えて
ある年には一年で、旅した日数が40日を超えた時もありました
そして、彼女としては
わたしが定年退職した後に世界一周旅行に行くのが夢だったとかで
今でも何かの折に「私の夢を返せ~」と言われます・・・(*_*;
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