わたしの平成,30年! | わたしの夢はどこに・・・

わたしの夢はどこに・・・

私ってなに?本当にGIDなんだろうか?まだまだ彷徨っています。
その中で多くの方のブログを見させていただいて、いろいろなことを教えていただきました。
このブログは自らの心の整理と、一つの事例として他の方の参考になったらお返しになるかな
と思って開きました。

今日で平成は終わります

  平成のスタートは1月8日! 昭和64年は一日も働いてはいませんでした

 

そうなんです!

  その年の1月8日は日曜日で、わたしは女友達?二人とお正月休みに

  トマムまで4泊5日でスキー女子旅に行っていたのです

わたしは最初の会社で(結果として)最後となったシステムを京都で開発していたのですが

  14か月京都にいた間にエステサロンにも通っていたのです(^O^)

このサロンでは最初痩身で通い出したのですが

  一回目の時に替えのショーツを持って行くのを知らなくてだか、忘れていてだか

  コースを終わると汗でグショグショになってしまって

  帰りに着換え用のショーツをいただいたのです

当然お店には女性用のショーツしかないのですが

  どうせだからとかわいいのを選んだのですが

  その時にいろいろとお話ししてカムしちゃったのです(^O^;)

そうして、それからは女の子として通わせてもらったのですが

  それならと二回目からは水着で施術してもらっていたのです

  そしたら「折角だからモニターに応募してみる?」と

  ワンピでビフォアの写真も取られちゃいました

結果一番の目的であった痩身では3カ月で15kgを落とす実績も上げたので

  アフターは、エステシャンのお姉さんに連れて行ってもらった

  三愛水着楽園で選んでもらったセパレーツで取ってもらったのですが

  やはりビフォアと同じ水着出ないとまずいということで

  結局はサンプル帳には最初のワンピで撮り直したものでした(^O^;)

当時はなかなかビキニなんて(^O^;)   ※今の水着楽園です

  今は平気で着ちゃうのにね!

 

そんなこともあり、基本の痩身以外にもおひげの脱毛もやってみたのですが

  当時はレーザーなどはなく、基本ニードル脱毛なので

  効率は悪いは、高いはで諦めました

  あと豊胸マッサージなんていうのも何回かはしてもらったのですが

  ホルモンやをやっていたわけでもないので、これは本当に気休め程度でしたね!

そうした中で、夏の期間にはお仕事終わってからのビアガーデンでの飲み会とか

  お客さんを交えての(今でいう)女子会にも参加させてもらっていました

 

そして冒頭のスキー旅行を

  往きは青春18、帰りは函館から飛行機という行程で

  エステシャンのお姉さんとお客さんとわたしの3人で

  スキー女子旅をすることになったのです

スキー場では三人のウエアサイズがほぼ同じだったので

  毎日それぞれのウエアを交換したりしながらして楽しく過ごしました

 

そして帰りの前日、昭和天皇が崩御されて、彼女らは皇居に立ち寄り記帳してから帰りました

  会社の開始日は1/5(木)だったので二日有休を取ってのスキー旅行だったのですが

  結果として昭和64年の2日間の稼働日に働くことはなくなったのでした!

 

こんな形で始まった「わたしの平成」

  この翌年には、今のお仕事をやり続けるために、初めての転職を行い

  その結果、転職後いっしょにお仕事した人(今は社長になっています)の紹介で

  遅まきながらの結婚をし・・・・この時の顛末は前記事『7年目のリターン!』で

  なかなか子供が生まれなかったこともあり

  彼女と一都一道二府三十三県をめぐりました

そしていろいろありましたが二人の子どもにも巡り合え

  背負子に入れた上の子と金毘羅山に参ったり

  二人の幼児と三人でTDLに行ったり

  学齢前から子供たちのホームゲレンデを探しに北信のスキー場をあちこち巡って

  木島平スキー場に10年以上通ったりしていました

 

遊ぶばかりではなく、5月から10月の庭の草刈り(元々は芝刈りだったのですが)には

  自分で再度仕上げをする覚悟で、幼稚園児の時から芝刈り機を使わせていました

また現役SEでありながらわたしは家を出るまで

  平均で週少なくとも4回、たぶん5回は子供たちと夕食を共にしていました

  お食事をした後、お母さんがお片付けをしている時に子供たちとお風呂に入り

  お母さんがお風呂に入ったりゆっくりしている間

  私たちは」寝室で読み聞かせをしていました

そして子供たちが寝て、お母さんが上がってきたら、わたしのお仕事の始まりです

  もちろん読み聞かせは子供たちの学齢前までですが

  小学校に入ってからは

  子供たちは二人とも自分で本を楽しみながら読める子になっていました

 

わたしは結婚する前から、もし自分の子ができたのなら

  ①本の好きな子にする

  ②「ありがとう」が言える

  ③父母は「お父さん」「お母さん」と呼ぶ

  の3つだけ目標にしようとしていましたが、これは達成できたようです

 

これができたから、もう一緒に居なくてもいい、と思ったわけでもないのですが

  7年前のGWに家を出ました

  出るにあたっては、それ以降の交流が断たれる覚悟もしての行動だったのですが

  みんなの気遣いもあってなんとか

  この7年の間も途切れることのない交流は続けて来られれました

  本当に感謝です

 

そしてわたし自身、この7年間で、美容外科での脱毛を皮切りにその同じクリニックでのHRT

  その後ガイドラインに乗る形でカウンセリングを受けだし

  HRTもフライングから正規に移行

  改名、改名報告という形での会社へのカム除睾離婚SRS

  そして未成年の子条件が外れるのを待っての戸籍の改性まで行きました

 

そしてすべてが終わっての彼女からの出戻り要請

  もう結婚をすることはないでしょうし

  とりあえずは同じ敷地内と言えども別棟のお家への移転ですが

  もう一度互いが互いの生存確認ができる状況に戻ることになりました

当然、わたしはお家を出るときには孤独死の覚悟はしていて出ているのですが

  子ども達からしたら、自分(子供)の親同士がそれぞれ面倒みあっていてくれれば

  少しは安心してこれからの生き方を自由に考えられるかな、とも思っています

 

結局「わたしの平成30年間」は、”私の家族”を創った30年で

  子育ての時だったのかなと思います

  それは、結果として家を出ていた7年間も一緒だったのだなぁ、と思います

  そしてもうひとつ”想い続けて、行動すれば、成し遂げられる”

  確認できた7年間でした(^O^)/

 

    想え 走れ そうして創れ

 

  私の行動規範です