今朝も行ってきたのですが、

 

『自分の気を観る。』

 

公園に行き、気の良い場所を見つけて

その場所で自分の気を見つめていく。

 

時間にして1時間ちょっと掛かかることなんですが、

 

すごく大きなものが掴めそうな気がしています。

 

 

今までも同じように「自分の気を整える」ことを

 

それなりにはしていました。

 

けど、それは自分の気が悪いと感じる時にしていただけで

 

普段から毎日していたわけではありません。

 

 

今日、取り組んで5.6日くらいと思うのですが、今日の気づきを書いてみます。

 

『老化するということは、体の中に気が溜まっていく。』

 

間違いないと思います。

 

溜まっていくと簡単に書きましたが、実際には排出する能力が低くなり溜まっていくのだと思います。

 

あと、気というのは自分の心の動きにも影響しています。

 

たくさんの情報を見て、いろんなことを感じた。

 

そんなことが多いと、たくさんの「気」が溜まります。

 

気を排出する能力が高くても、溜まっている「気」の量が多すぎると処理出来ないと思っています。

 

例を書いてみますね。

 

私のことなんですが、最近、古いアニメを見て懐かしくなり有料チャンネルを申し込んだんですよね。

 

そして、気がつくと何時間も見て夜中になっていました。

 

眠れるか心配でしたが、すぐに寝ていたようです。

 

 

朝起きて、気がつくと昨日のアニメのことを考えている自分がいました。

 

頭の中がゴチャゴチャしていると感じました。

 

 

気を整えに行きます。

 

たくさんの「気」が体の中に溜まっていることに気がつきました。

 

寝ている間に排出されなかった、処理出来なかった気です。

 

しっかり気を抜いていきます。

 

頭がスッキリして体もスッキリしました。

 

そして、面白いことにアニメのことを特に何も思わなくなっていたんですよ。

 

続きを見たいとか。

 

ここでの気づきなのですが、

 

昨日アニメを見たときの心の動きから生まれた「気」も抜けたんでしょうね。

 

執着も抜けた感じです。

 

 

今の時代、情報を求めればいくらでも入ってきます。

 

その度に何かを考えたり、思ったりします。

 

ですから、「気」の量が多くなるのは当たり前なのかも知れません。

 

情報と上手に付き合うことが老化にも影響しそうですね。

 

 

世の中楽しいものが多いですよね。

 

心、動きまくりですよ。

 

これが、情報疲れということなんですかね。

 

では、ほどほどに。

 

 

 

 

 

 

 

 

おはようございます。

 

ブログというのはすごいもんですね。

 

自分の心が見えてくるというか?

 

自分の書いたブログを時間をおいて読み返してみると

 

自分のいろんな面が見えてきます。

 

自分の傲慢さが出ていたり、

 

他にも自分の嫌な面がたくさん見えてきます。

 

それだけでも、書くことに大きな意味があるなと感じます。

 

たぶん、ブログって以前記事に書いた『他人は自分を映す鏡?』

 

そんな感じのものなんですよね。

 

文章の向こう側には相手がいる。

 

その相手にどんな言葉を使っているか?

 

愛情をもっているか?

 

なんとなく文章から自分という人間が見えてきます。

 

少しは成長していると思っていたんですが

 

まだまだ未熟ですね。

 

頑張ります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昨日、知り合いから

 

酔ってないときに会えませんか?

 

そんなメールが来たのですぐに連絡する。

 

ご飯食べました。一緒にどうですか?

 

ちょっと行って見たいお店があったので、ちょうど良いタイミングでした。

 

酔ってないとき???

 

どんな深刻な話があるんだろうかと思いました。

 

そして一緒にご飯に行きました。

 

「どうしたの?」

 

「私、捨てられたんですかね?。最近、そのことばかり考えているんですよ。」

 

どうも話を聞くと、同じように離婚してお一人様の友人と会話していて感じたみたいです。

 

その友人が捨てられたと言っていたので、同じようなことがあった私も捨てられたの?

他人も私が捨てられたと思っているの?

 

そんなことを、ここ10日間くらいずっと考えていて私に聞いてみたいと思ってたみたいです。

 

私はその方の離婚の経緯などを聞いていましたので思うままに伝えました。

 

「他人は、離婚に対していろんな見方をするから、捨てられたと思う人もいるんじゃないかな。私も捨てられたんだと思う。」

 

なんか、まだ未練でもあるのか?

そんなことを思ったのでキツく言ってしまいました。

 

「やっぱり、そう思うんだ。」

 

「うん、捨てられたの反対が拾われたとしたら、相手から一体何を拾われた。○○さんの心を少しでも拾ってくれた。何も拾ってくれてないよね。いきなり離婚届を出してきて印鑑を押せだなんて○○さんのこれからのことも何も心配されていなかったよね。だからそう思うんだ。」

 

「それと、そんなことを考えるなんて、以前、未練はもう全くないと言っていたけど、実はそのときから時が動いていないんだよ。そのことに気づいて。」

 

もう別れてから7年も経っているんですよ。

たのむ!、未練はもう捨てて前にすすんで。

そんな思いで伝えました。

そして、

 

「捨てられたとか、捨てられてないとか、他人は今の○○さんを見て感じることだと思うよ。そして他人なんて見たいように見るんだから。いちいち気にしないことだよ。大事なのは、その後の自分がどう生きているか?そこなんだと思うよ。」

 

その後、私の過去のことを話したりしました。

長くなりそうなので詳しくは書きませんが、

 

嫌だった過去の出来事も今では、それがあったから今良かったと感じられている。

 

そんな話をしました。

 

そして、

 

「今は、すべてが過程なんだよ。物語の途中に過ぎないことなんだよ。今起こっていることが悪かったこと、良かったこと、今はそんなことを判定するときではないんだよ。今は今だけを生きようよ。そして、気がつくと物語の終わりにいろんなことが良かったことと思えているかもよ。」

 

そう話しました。

 

私もいろいろありました。

 

過去の嫌だった出来事も、今の幸せを感じるために必要だった物語のように思うんですよね。だから「嫌な過去がなかったらな。」とは思いません。大事なことを知るために必要な出来事だったんでしょうね。そんなふうに思っています。

 

以前読んだ本に書いてありました。

 

私たちは学ぶために生まれてきている。そして生まれる前にシナリオを作って生まれてきている。

 

そんなことが書いてありました。

 

私は自分の作ったシナリオが、なんと酷なシナリオを考えたものだと思いますよ。

 

こんなひどいシナリオを考えないと学べなかったのか。と思いますよ。

 

 

ほんと、おかげでたくさん学んでいます。

 

だから、嫌な出来事も一生嫌な出来事のままじゃない。

 

気がつくと嫌な出来事の捉え方が変わっていることがあるよ。

 

と、すべての人に伝えたいです。

 

 

きっと学んで幸せになるシナリオを作って生まれてきているはずですから。

 

 

 

 

 

 

 

 

仕事をやめたので、ほんの少し未来を考えてみる。

 

残りの人生で何がしたいのか?

 

特になし

 

やりたい仕事はないのか?

 

特になし

 

 

どうも何もないみたいです。

 

きっと、「今は何もないのかも知れません。」

 

いつか出てくるんでしょうかね。

 

 

若い頃は、自分の人生なんてこんなものなんだろう。

 

と思い込んで大きな希望を持ったこともありませんでした。

 

日々の自分をごまかしながら生きていた、そんな感じです。

 

 

そんな自分が、『自分の人生に大満足』

 

そんな風に思えているので、明日命が終わるとしても

 

何も思い残すことはない。

 

 

以前、妻と二人でふと気がついた。

 

『 人生は、なんとシンプルなんだ。 』

 

シンプルな人生を、ああでもない、こうでもない、

 

という感じで自分が面倒くさくしていた。

 

そこに気がついたんですよね。

 

その頃の自分は、完全に『自分の人生に安らいでいた。』

 

そんな感じになっていました。

 

実は二人とも若い頃には死にたいと考えていたんです。

 

まさかこんな素敵な人生になるとは思っていませんでした。

 

 

どうやら今は安らぎの延長線にいるみたいなので、こんなにのんびりしているんでしょうね。

 

じゃあ、安らぎの源は何?

 

自分への信頼

 

これは、スパッと答えられます。

 

長く自分と付き合う中で、たくさん成長したことを感じるんですよね。

 

こんな自分だったっけ??

 

なんてことを思うこともしょっちゅうあります。

 

 

若い頃にこんな風に思えていたらなぁ。

 

そんなことを思ったけど、それは無理なんでしょうね。

 

未熟と思っていた自分が成長できたと思うからの今なんですよね。

 

 

若い人に言いたいです。

 

嫌なこと、苦しいことがあると思います。

 

これは誰にもあるはずです。

 

悩みがないと言う人は

 

悩むべきことから目を背けているだけだと思います。

 

私も悩んでは、目を背けて

 

そんな繰り返しでした。

 

けど、人生ごほうびもあるはずです。

 

 

そう信じて生きてください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

三月に入り仕事をやめました。

 

 

25年してきた仕事ですが意外にスパッと

 

「やめよう!」

 

と、決断できました。

 

 

一番の理由は『気』への恐怖。

 

『気』のことをより深く知り体感する度に、本当に危険なことをしていると感じていました。

 

経験を積み人の気を感じる能力が高くなってくると、私が他人から受ける『気』の影響も大きくなってきました。

 

そのため、たった一人を治療しただけで動きたくないほど疲れるようになりました。

 

まあ、当たり前のことなんです。

 

私の治療というのは

 

相手の体の外に付いている悪い気

 

相手の体の中にある悪い気

 

そのようなマイナスな『気』と同調して動かしていくというような治療をしていました。

 

同調するという施術方法を使っている時点で

 

気の影響をたくさん受けることになります。

 

だから仕事を続ける以上、自分の寿命が縮むのは目に見えていたし、

 

なにより今後、毎日はつらつと生きていくことが難しいと思ったんですよ。

 

だから、やめようと思いました。

 

 

 

実際に過去の有名な治療家の先生が意外に短命なんですよ。

 

たとえ私と治療方法が全く違ったとしても、人の体が楽になるというのは

 

間違いなく相手の「気」が動いているんです。

 

だから、たくさんの人を楽に出来る力があった治療家は

 

相手の『気』の影響をたくさん受けていたはずです。

 

その影響で本来の寿命よりも早く亡くなっているのだと思います。

 

 

でも、これは治療家だけに限った話ではありません。

 

医師の寿命が短いことにも関係していると思います。

 

日々、不調の人と向き合う。

 

言い換えると

 

日々、悪い『気』ばかりと向き合っていることになりますから

 

その影響を受ける医師の寿命が短いのも納得なんですよ。

 

私は年配者の方、不調の人と同じ車に乗っただけでも

 

相手の『気』の影響を受けて自分が不調になるのを感じますから

 

不調な人と同じ空間で、頼りにされる医師は大変です。

 

 

それと、この「頼りにされる」ということが多い職業の人も

 

『気』の影響をたくさん受けます。

 

 

 

『気』というものは目に見えないものなので、なかなか理解されにくいです。

 

本当は医学と同じくらい大事なことなんですよ。日々の活力、寿命に関係しますので。

 

けど、感じることが出来る人が少ないから『気』という分野が全然発展していないんですよね。

 

たぶん、百年、千年後も今と変わってないと思います。

 

 

 

私も今後、『気』のことを「知りたい」と若い人が求めてくれば力になりたいと思います。

 

私の知っている『気』のことは誰にとっても大きな財産になるはずですから。

 

 

ブログではこれからも体のこと、『気』のこと、心のことを書いていく予定です。

 

自分の体と心に向き合うことが自然になっている私だからこその気づきもあるはずです。

 

だからこれからも、「私は、こんなことを思ったよ。考えたよ。」みたいなことを書いていこうと思います。

 

誰かの何かの役に立つようなことがあれば嬉しいですね。

 

 

今、仕事のことを振り返り思うのですが、

 

ほんと天職だったと思います。

 

そして、ほんとに楽しかった。

 

 

こう言い切れることを続けてこられたことに感謝します。

 

 

ありがとうございます。