タイトルの言葉は昔から何度も人から聞いたりしていました。

 

けれど、自分の中で

 

「絶対に正しいこと」

「核心をついていること」

 

そこまでには思えなく、たまに何かの時に思い出す言葉、

 

そのくらいの軽い扱いの言葉になっていました。

 

なんか腑に落ちそうで落ちない。そんな言葉なんですよね。

 

他人の態度(心)をみて、

 

「ああ、自分の中にもあんな部分があるある。」

 

と、思えることもあれば、

 

「あんな部分は自分には絶対にない。」

 

と、納得出来ないこともあります。

 

だから、自分にとって大きな学びの言葉にはなっていませんでした。

 

 

でも最近、タイトルの言葉と少し違うかも知れませんが

 

自分の教訓のようなものが出来ました。

 

 

他人は自分を知るための鏡

 

 

相手と向き合っている時の『自分を見つめることで見えてくる自分』

 

そんな感じです。

 

他人との関係から見えてくる自分という部分では似ているかも知れません。

 

でも、私の考えは、

 

相手の態度(心)から自分を見つめ直すのではなく、

 

私自身が相手に対してどのような態度(心)でいるのかを見つめる。

 

 

自分の口からどんな言葉が出ているか?

 

どのような言葉使いか?

 

どんな態度をとっていたか?

 

 

相手と接するときの自分に注意を向けて普段見えていない自分を知ると言うことです。

 

 

ほとんどの人が相手によって自分の振るまい方を変えている気がします。

 

未熟な私もそんな一人です。

 

相手によって

張り合おうとする自分がいたり

 

認めてもらおうとしている自分がいたり

 

感じの悪い自分がいたり

 

偉そうな自分がいたり

 

いろんな自分がいるんですよね。

 

そのたびに、今現在の自分の人間性みたいなものが見えてきます。

 

 

私の理想は、どんなとき、どんな相手に対しても

 

自分らしい自分でいることなんですよ。

 

常にしっくりくる自分というものでいたいんですよ。

 

なんか上手に説明できませんが

 

生まれてきた魂に近い自分というか?

 

今の自分って子供の頃からの生い立ちの劣等感であったり

 

いろんな感情の上にある自分なんですよね。

 

だから、人と話している時に「なんであんなことを言ったんだろう。」

 

と、とっさに思うこともよくあります。

 

だから、人と接することでしか見えてこないことって多いんですよね。

 

 

昔、私が人に会いたくない時期があったときに

 

私の師匠が

 

人は人の中でしか成長できない。

 

という言葉を私に贈ってくれました。

 

本当にその通りなんだと思います。

 

 

今回の気づきは大きな財産になります。

 

自分を見つめながら、これからも暮らしていきます。

 

 

 

 

 

 

 

正月の不摂生で体重も過去最高に増えウエストサイズも過去最高。

 

下に落ちたものを立ったまま腰を曲げて拾おうとしたら、おなかの出っ張りが邪魔になることを初めて感じた。

 

そう言えばお相撲さんはお尻が拭けないなんてことを聞いたことがあるなぁ。

 

とうとう、そんなことが頭に浮かんできた。

 

これはマズい。

 

今日が最後、不摂生をしまくって終わろう。

(これが私の甘いところ)

 

 

こんな感じでやりたい放題が始まる。

 

最後の酎ハイを夜中1時半に空ける。
 
グッバイ不摂生

 

目が覚めたら再び以前の体に戻す。

 

軽く決意して寝ました。

 

 

久しぶりに体の状態がこれほど落ちていると感じるので、

 

私が感じている最近の体のことを書いておこう。

 

いつかの参考になるはず。

 

 

別に痛いところはない。

 

最近、左肋骨あたりに少し違和感を感じる。(たぶん数日続いている)

 

目がすごく悪くなったように感じる。悪くなったというよりピントが合いにくくなっている感じかな。

 

気の高さはへそまで下りていることは最近はなく、日々高さが違い不安定。鳩尾くらいまで気が上がっているときもあった。

 

腹の気が左右ともいつもより外にある。

(調子が落ちると外に逃げていくのかも)

 

目を閉じても体の中が見えない。

(体の内部からいろんな所を観ようとしてもみえない。気がつけば外から観ている。)

 

足裏がブクッとしていてスッキリした感じがない。

 

顔がほてっている感じがする。

 

朝起きた時も気が下がっていない。

(気の位置は寝る前とそんなに変わらない)

 

立っている時、おなかを出してバランスを取るように立っている。

(筋力で立ってない)

 

ずっと便が出ていたが昨日はでていない。

 

おならも勢いがあるのではなく粘りがある感じ。

 

 

思い浮かんだものを書いてみた。

 

 

今日の朝、早速ランニング。

 

走り始めてすぐにキツく感じたので以前走っていた急坂のコースではなく、平坦コースを選択。

 

スピードも出ないし、歩幅が20センチは狭い。

 

若い人と年の人を比較して一番違いを感じること。

 

それが、「体の軽さ」だ。

 

体型のことではありません、体を楽に使っているかどうかです。

 

今の私は自分でも体が重たく感じる。

 

そう感じているときは自分の適正体重ではないと思っています。

 

別に見た目が太っていてもいいと思うんですよ。

 

本人が体が軽く感じていれば、それも適性体重なんだと思います。

 

筋力がある人は大きくても重たく感じていない人も多いですから

 

それでいいのではないでしょうか。

 

 

30分走り終えると一気に「気」の位置が上がり、体が回復するための運動に入る。

 

立ったまま静かに目を閉じて自分の体の内側に集中する。

 

まずは左肋骨に意識がいく、その意識をずっと見つめる。

 

すると必要な動きがでてくる。その動きを追って体を動かしていく。

 

体がまとまりキリの良い終わりを迎える。

 

やっと左肋骨のピントが合ってくる感じが出てきたのでもう一回繰り返す。

 

再び体のまとまりがでる。

 

今日は二段階状態を上げた。そう思って良いだろう。

 

歩いて帰るときに邪気が口から繰り返し出始める。

(頭からも出ているが口からも出ている。)

 

体の悪いものが抜けることにより邪気を体の外に出す機能が働き始めたのだろう。

(一定以上の状態にならないと自分で邪気が出せないのかも)

 

家に帰りパンを食べて、ついでにサンチン(三戦)をする。

 

体にスッキリした感じが出てくると家の気が悪いことを感じる。

(家の気と人の気の関係。これもすごく大事なことなので今度書きます。)

 

左肋骨の違和感はなくなり左季肋部あたりに少し何かを感じる。

 

頭もスッキリ、顔もスッキリ、目も良い感じかも。

 

立っている感じもピシッと立っている感じが出た。

 

やはりサンチンはすごい。

 

 

今回は私の記録のようなものです。

 

毎日、体に関していろんなことを感じながら、考えながら過ごしています。

 

その中で新しい体の仮説なんかも出てくるんですよ。

 

いま、座ってブログを書いていますが、とても楽に姿勢よく座れています。

 

今日は市外に醤油を買いに行ったり忙しかった。

 

車の運転中に体を感じると、ずっと頭から気が出ていた。

(今まで動いていないものが動き始めることによって盛んに回復運動が行われている)

 

今は気がでるのが落ち着いて便も出てスッキリ。

 

 

やっぱり運動は必要ですね。

 

 

 

 

 

 

 

ネットニュースで藤あや子さんのヨガのポーズを見ました。

 

すごいですね。

 

胸から頭にかけて最大の意識があり、その意識を維持したままで脚を動かしている。

 

私の求める、『動いていないものを動かす。』に通じるものを感じました。

 

 

私がヨガに対して、いいなぁと思っていたことは、「ゆっくり動く」ということに最大の魅力を感じていました。

 

今の人って、とにかく忙しそう。

 

自分の体の中にあるリズムよりも速く

 

頭、心を動かしている印象を受けます。

 

だから、ヨガのようなゆっくりな運動をして、自分のリズムを取り戻したら良いと思っていました。

 

 

 

私は人の体のリズムというのがわかります。

 

一時期、人のリズムを感じることがマイブームになっていたときがありました。

 

どのようなリズムを持っているのか?

 

リズムに幅があるのか?

 

そのことを知ることで本人の行動などを理解することがなんとなく出来ていました。

 

 

この、人の持っているリズムというのは一生変わらない個性のようなものだと思っています。



人のリズムを感じていた初期の頃、

 

たぶん年を取るとリズムがゆっくりになると思っていました。

 

だから演歌のようなテンポの遅い曲を好むんだと思い込んでいました。

 

でも違いました。

 

私の出会った高齢者の方は80歳を超えていたのですが

 

すごくリズムが速い。高速。

 

息子さんを治療していたので息子さんのリズムがすごく速いのは知っていましたが、

 

まさか、お母様まで速いとは、、、

 

ほんとに驚きました。

 

人間のリズムも遺伝するんでしょうね。

 

 

リズムの速い息子さんの特徴を書いてみますね。

 

息子さんは情報収集がすごく得意。

 

目、耳、いろんな感覚を使って情報を集めています。

 

たくさんのことに興味を持ち、興味を持ったことに対して活動的に動く、

 

そして仕事が忙しいことも全く苦にならず同時進行でタスクをこなせる。

 

例えると、高速のコンピュータですね。

 

だから、リズムの速い人は忙しいことが全く苦痛にならないんですよね。

 

逆に、ゆっくりすることの方が落ち着かないと思います。

 

 

もう一つ、その方のすごいところは遅いリズムも受け入れられる

 

「リズムの幅」がありました。

 

リズムの幅とは速いリズムも持っているが少し遅いリズムも持っているという感じで、

 

その幅があることで、自分とリズムの違う人、自分のリズムと違う生活、そのようなことへの対応力が高いんだと思われます。

 

リズムに幅のない人は、自分のリズムと違う生活、人が苦手なんですよね(体からみるとですよ)

 

だから、すぐに体に不調がでます。

 

以前、妻が引っ越しの度に不調になると言っていたのを思い出しました。

 

引っ越しって忙しいですよね。一気にやることが増える感じで頭も体のフル稼働。

 

リズムに幅のないのんびり屋の妻にはキツかったんでしょうね。

 

 

健康的に生きるためには

 

自分のリズムで生きる

 

このことがすごく大切なことだと思います。

 

 

あと、人との相性はリズムが一番大事なのかも知れません。

 

自分のリズムに合う人は一緒にいても、きっと楽なはずですから。

 

 

それと、人のリズムも尊重して欲しいですね。

 

速い人もいれば遅い人もいる。

 

そんなふうに考えると人づきあいが少し楽になりませんかね。

 

 

では、失礼します。

 

 

 

 

 

 

昨日、アイロンをかけているとき息が入ることが何回もありました。

 

『息が入る』とは、体にとって良いことがあったときに起こります。

 

これだけではわかりにくいので、いくつか例を挙げてみます。

 

●体にとって「良い気」を感じたとき

あるところに行って気持ちの良い「気」を感じたとき

たまにテレビでどこかにロケに行き、気持ちが良くて深呼吸をしているのをみます。

あの、息を吸い込みたくなるという感じも同じだと思います。

 

●自分の体が欲しがっている食材をみたとき、食べたとき

買い物に行き商品を見ただけで息を吸い込んでいるんですよ。

体が欲しがっていることがわかります。

そして、体にとっておいしいものを一口入れた瞬間に起きたりします。

体の喜びの表現ですね。

 

●ギュッとしたとき

愛しい人に抱きついたとき、深呼吸をしています。

これは、体と心が安心に包まれているから起こるんだと思います。

 

●体が楽になってくるとき

治療をしていてお客様が急に息を吸い込まれるんです。

空気の通り道が空いたみたいに。

 

まだまだ、たくさんあるはずなんです。

 

とにかく、体にとって気持ちが良いことがある。ありそう。

 

そんなときに『息が入る』ことが起きます。

 

では、アイロンがけしていて何度も息が入るのはなぜ??

 

洗濯したままのマスクが大量に溜まっていました。

 

妻の手作りでもあり、大切に丁寧にアイロンがけしていました。

 

思い出しても、すごく幸せな時間だったんですよね。

 

でも、なぜ急に息が何度も入ったのか?

 

『息が入る』ことって食べ物の例にもあるように未来の願望の時なんかにも起きます。

アイロンがけは体の願望ではないよな。じゃあ、魂の願望なのか?

 

アイロンがけをして生きていきたいのか?

 

ゆっくり丁寧に過ごして生きたいのか?

 

考えてもわかりません。

 

 

そのときに思ったのですが、

 

「どういう生き方をしたいのか。」

 

私は、この答え持っているようで持っていないようです。

 

ハッキリと、「こんなふうに生きたい」と心から言えることが今の自分にはないんです。

 

こんな感じで生きていくんだろうな

 

という予測のようなものはありますが。

 

 

今の自分の価値観というのは人から教えられて身についているものが多いと思います。

 

こんなふうに生きるべきだよ。

 

こんなふうに生きたらダメだよ。

 

世の中の常識の上に自分の価値観を築いている気がします。

 

 

私の魂の望む生き方

 

今の自分にはよくわかりませんが

 

ゆっくり探してみようと思いました。

 

 

 

 

ありました。

 

「おいしいものを食べて生きていく」

 

このことだけは決定している気がします。

 

 

 

 

 

 

 

 

新年を迎え何かをすぐに決めたくなる私。

 

昔は、なかなかやめることが出来なかった『たばこ』

 

「今年からは」、「今月からは」

 

区切りのよいタイミングで、いつもそんなこと言いながら、

 

気がつけば時は流れ、また次のタイミングが来ては同じことを言う。

 

今はやめていますが、やめるまでにかなりの時間が掛かりました。

 

だから、最近は区切りが良くても何も決めず、区切りを意識せずに過ごしています。

(出来ない約束はしない方がいいですからね。)

 

 

けど、新しいことは何も決めないにしても、今年も引き続き大切にしていきたい考えくらいは再確認しながら書いておこうと思います。

 

 

『動いてないものを動かす。』

 

 

年を取ることとは、動かない部分が増えること。

 

外側から見える部分だけではなく、見えない体の中も、どんどん動かない部分が増えていく。

 

老化することを、私はそのように捉えています。

 

老化と書きましたが、老化だけでなく痛みが取れないことも同じだと思っています。

 

腰が痛い、昨日も痛く今日も痛い。

 

体の中に動きがない。だから腰が痛いままで症状が変わらない。

 

活発に内部が動いている体なら痛みの症状は日々変わるはずですから、

 

継続的に同じような痛みがある人は、自分の体の中に動いていない部分があるんだなぁ。と思ってください。

 

 

私の施術方法は当然、

 

「どうすれば、動いていない所を動かせるか?」

 

このことを最優先に考えて作られた施術方法になります。

 

まだまだ、たくさんの施術方法があるはずですから

 

自分の体を通してたくさん研究していこうと思っています。

 

 

 

今日、家の前でスズメが死んでいました。

 

「お疲れさま」

 

庭に穴を掘り、枯れ葉の布団を作ってお米と一緒に埋めました。

 

自分に問いかけました。

 

「今日死んだらどう?」

 

ちょうど、パチンコから帰ってきた所でした。

 

「今日は絶対に嫌。」

 

人生最後の日、これと言った理想はないが今日だけは嫌だ。

 

そう思いました。

 

 

毎日、「もしも何かが起きたら」なんて考えて生きていないけど、

 

たまには、「もうすぐ人生が終わるよ。」

 

そんなことを考えることも大事なんだと感じました。

 

 

のほほんとしている自分には、スズメの死が教訓になりました。

 

 

 

「教訓になりました」と書いておきながらすぐに忘れるんでしょうね。