理を解すれば危険も察知出来るし応用も効く。
昨日の川下り事故、添付された過去の自己の見解もそうだが、同じ思考回路で独自の理論と応用を繰り返して来た。
協生農法はじめ体調復元法、スポーツ・武術・ギャンブル、ビジネスなど野人理論すべてにそれが取り入れられている。
7月初旬の記事「手ぶらで登山」に書かれたスキューバダイビングの非常識、登山の非常識、野人が選んだこれらの手法の道理、野人思考研究中の読者は参考になっただろうか。
一般的には危険で超が付く非常識と思われ誰もやらないが、無理無茶はしていない。 野人にとっては当たり前のこと。
そうやって誰も解けない問題、出来ない難問を解決して来た。
だから苦難もなく役に立ち、こうして生き残っている。
テーマ「すいみん愚物語」や、「野人珍話列伝」「連載・東シナ海流」には、幼少よりの実践記録が詰まっている。
外野席からは「無理」「無茶」「不可能」「信じられん」などの言葉がどれほど飛び交ったか・・・数え切れず慣れっこになってしまった。
やって見せても真似してやる人はほとんどいなかった。
「簡単じゃろうが やらんかい~」・・と 言っても
皆さん高見の見物で知らんぷり、後に続かない。
泳法もターンも、武術でも、ギャンブルでも、仕事でも・・
結果はすぐ出るし画期的なのだがやらない。
「簡単」と「不可能」の境界は何処にあるのか。
簡単と困難、可能と不可能、前者は人間の技量で後者は絶対。
順に並べると、簡単、可能、困難、不可能・・となる。
不可能以下は可能な範囲、可能を挟んで簡単と困難があり、やり方次第でどちらにも転び、やれたら簡単になる。
簡単なのだから境界などは最初からない。
簡単と言うことに気付かない理由は何だろうか。
学び方が「丸覚え」だったと言うことだろう。
丸覚えでは使いこなせるはずがない。
言われるままに仕組みや使い方を教わっても丸覚えに変わりなく、理解とは程遠い。
何の為にそれを使いこなすのか、目的に合わせてどのような手段を選ぶのか、自ら考えるのではなく選択は一つしかなかったと言うことだ。
場合によっては大事な部分のみ残して他は丸裸に省エネするしかやれないこともある。
野人が生物学の学びを十代で放棄、間違いをバッサリ切り捨てたのはこの学問と関連学問に理がまったくなかったからだ。
生命体が持つ機械より高度な仕組みのかけらも解明されていない。半世紀以上経っても。それで生命が扱えるはずもない。
アインシュタインの言葉通りだな。
理がなければいくら努力しようが結果は出ない。
現状の生命に関する学問すべてそうではないかな。
だから血圧や体臭や冷え性など簡単な不調さえ解決出来ない。 医学では不可能でも野人には簡単。カナズチ解消も同じ。
世間を知らず学校の勉強も宿題もしない中学生の野人が人間社会では賢いはずもなく、海山川池の狩りしか出来なかった。
しかし正解はわからずとも理がない矛盾くらいは気付く。
理がないことを無理と言い、現実の出来事に無理などない。
あるとすれば人間の思考順路くらいだろう。
矛盾に気付き、「何故」という思考回路を持たなければ解明の思考は始まらない。
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