自然保護より 破壊された環境の復元 | 野人エッセイす

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森羅万象から見つめた食の本質とは

 

 

 

自然保護活動は昔から各地で盛んに行われている。

検索すると100万件近く出るほど溢れている。

 

内容はどれも同じようなものでNPО活動も盛ん。

活動に異議を唱える人もあまりいないだろうが、違和感を覚える人はたまにいるだろうな。

野人もその一人であり、志は純粋であっても参加はしない。

しかし同じ志で仕事として活動はしている。

だから少しだけ意見を述べさせてもらいたい。

 

どのページを見ても以下のような文字が並んでいる。

自然保護とは何かの「定義」「常識」が決まっているようで、言葉で判断するなら素晴らしいことばかり。

 

「森や海を守る」

「野生生物を守る」

「絶滅危惧種を守る」

「地球環境を守る」

「自然の守り手を増やす」

「豊かな生態系と人の暮らしを守る」

「自然を守るボランティア」

「自然の守り手を増やす」

 

具体性が見えて来ないのは野人だけだろうか。

雲をつかむような話で釈然としない人もいるのでは。

 

共通のキーワードは「守ること」だが、つかみどころのない自然をどうやって守るのか。

具体的に行動を起こしているのだから、それぞれ方法を定めているはず。

 

しかし、守る前にやらなければならないことがたくさんあるのでは?

 

「何故守らなければならないか」その理由もどっさり紹介されていた。

しかし、守らなければならないようになった原因は何なのか

最も大切なことが抜けている。

 

体の仕組みも、病不調になった原因もはっきりわからないのに健康の為の食生活と適度な運動が氾濫、それと同じように思えるのだ。

 

自然、本来のそれが当たり前であり、守らなければならないようになったのは人が破壊を続け、今もそれが続いているからでは?

 

世界中で「守った場所」が増え続けているという話は聞かないが、危機的な速度で失われていることは誰もが知っている。

アフリカ然り、アマゾンの森然り、日本に至っては自然林を探す方が困難なほど植林と竹に覆い尽くされつつある。

守る場所は増えないが、破壊は加速、これでは先が見えている。

戦国攻防の兵法で考えれば守り一辺倒、勝てる見込みのない籠城のようなもの。自然破壊を止めることは出来ない。

 

「生物学と南方熊楠」 1週間前の記事だが・・

自然保護が崇高な志のように思われるが、必ずしもそうではない。

自然界の森は森羅万象の理に沿って生まれたものだが、理想的な森と言えるだろうか。 そこに住む動物達にとっても、進入が困難な人間にとっても。

放置して保護するより花も実もある桃源郷、そのほうが多くの生き物は喜ぶ。

地球上の動物でそれが出来るのは人間しかいない。

 

諸行無常、森は常に移り変わり同じ形をとどめない。

そこに住む動物も植物も移り変わり、時には侵入をも拒む。

人間が保護しようとする自然とはどのようなものなのか。

保護する場所、しない場所、その判断に人間の都合は入っていないのか。

 

自然は人間に守ってもらいたいと願っているかな。

人間は自然を守れるほどの知力と力を持っていない。

自然界の仕組みはいまだ何一つわかってはいない。

だから修正も出来ずに災いに世界中が喘いでいる。

 

野人は、保護よりも破壊を止め、破壊された森を生命が協生出来る森に再生する。

自然林より生態系を破壊された森の方が圧倒的に多いのだから。

世界に広めるには、破壊を止める多彩な理論、再生する多彩な理論、どちらも不可欠だな。

そうすればそもそも保護する必要などなくなる。

 

間違った理と利で破壊され続ける広大な自然の保護は、大金を投じてもボランティアでも歯が立たず正しい理と利で復元するしかない。

利とは欲であり、我欲を正常な意欲に転換出来れば復元は加速する。

 

それをやってのける復元部隊を育成して見せるが、自然保護の為でも人間の為でもない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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