現実の物理と異なり仏教は解釈が多過ぎて理解が大変だな。
わかりやすいのは・・
仏教は悟りを開くことを目指す宗教。
目的である「悟りを開く」とは、世の中のすべてを理解することであり、世の中の出来事、世の中の仕組みを完全に理解すること。
そのように言っているが、野人は仏教・宗教に詳しくはない。
その悟りの開き方の違いによって多くの宗派が分立している。
それらを開いたのはお坊様であり、それぞれ言い分が違う。
まあ、考え方の相異ともいえるな。
お寺、お坊様と言えば、お経、お葬式、お墓・・などが思い浮かぶ人が大半だろうが、それらは時代の流れの中でたまたま請け負ったことであり、維持の為のアルバイトのようなもの。
心の救いを宗教に求める人は多いが、仏教の本来の目的は「悟りを開く」ことであり、お坊様は求道者だ。
悟りとは「世の中の仕組みを理解すること」なのだが、そうしているのかな。
常に進化し続ける科学や、出来事のすべてを理解することなど不可能。 ここで言う「すべて」とは森羅万象のことだろう。
その仕組みを解き明かし、一度理解すればそこには機械技術のような終わりのない進化は存在しない。
理解とは理を解することであり物理、つまり自然界の普遍の法則を見出すことと言える。
座禅を組み瞑想することでそれが理解出来れば問題ないが、不可能ではないかな。 物理の難問がそれで解けるはずもない。
理解しなければ悟りは開けないのなら、理解しようとする姿勢、考え方、方法次第で結果が異なる。
宇宙があり、地球、気象もあるが、森羅万象の大半は生命に関すること。 つまり生命の仕組みを解き明かす物理学なのだから、
野人物理方程式では、物理学者しか森羅万象の仕組みを完全に説き明かすことは出来ない。
誰も解き明かしていないから人類が迷走している。
神に与えられた頭脳、体機能を駆使して適切な道と手法を選択、解明に向かって生涯を費やすのが求道者だと野人は思っている。
物理は個々の解釈、考えの違いで左右されるものではなく、そこにはいがみ合いも争いもいらないはず。
何故同じ教祖を仰いで争わなければならないのか。
神はそれを望んでいるのか・・是非考えていただきたい。
これだけ人の解釈によって左右されれば学ぶほうも疲れるだろう。
意識は個々異なるのだから誰もが釈迦のようになれるはずもなく、好きなやり方で目的を果たせばよい。
仏教の目的については下記の言葉もわかりやすい。
仏教は他の宗教とは毛色が異なり、信仰によるものではなく、あくまで自分自身と向き合いながら生きていくための知恵を授け、生きる上での悩みや苦しみをできるだけ晴らし、澄み切った心で生きることを目指すよう教える宗教。
救いは神のような超越的存在の力によるものではなく、個々人の実践によるもの。
釈迦の実体験を根拠に現実社会で達成・確認できる形で教えが示され、それを実践することを勧める。
仏教は悩み苦しむ人の考え方を楽にする哲学
「何かを信じれば救われる」みたいなものは特になく、むしろブッダは弟子に対して「死した後、自分を拝めるのは何の意味もないからやめてくれ」とさえ言っている。
真相は知るべくもないが・・
ブッダはブッダ流のやり方を貫いたと言うことだろう。
悩み苦しむ原因は何なのか。
思うようにいかないからであり、考えた通りにもならず解決策もなく途方に暮れるからだ。
考えた通りにならないのは思考・方程式の間違いか、基点の間違いかどちらかだ。
思考の基点は森羅万象の仕組みであり、人間の学問・常識ではない。 土台が不安定ならその上に積み重なるものも不安定になるのは必然の理だな。
ブッダは自らが思うように生き、使命を果たそうとしただけで、こうなることを予測していなかったかもしれないな。
火薬や核エネルギーの開発者たちも戦争兵器に使われることを予測出来なかったことだろう。
世界的に有名になったサリン事件もまた、当事者達は求道が目的であり、このような結果は予測出来なかったと思う。
世界の多くの宗教だけでなく、日本でも戦国時代の一向一揆、本願寺の攻防、比叡山と、多くの信者が戦乱に巻き込まれ命を落とした。
自らの意思ではなく教祖であるお坊様の指示で。
ブッダが生きていれば悲しみ嘆くだろうな。
人の命は指導者の解釈、方針で翻弄されるものではないはず。
思想にしろ科学にしろ、人間のあくなき欲望と知恵は人類を滅亡に導く可能性を秘めている。
野人は世界の争いの原因と攻防の歴史からこれらを学んだ。
たいした発明は出来ないだろうが、公開する時はこれらのことを肝に銘じ、危険なものやその可能性を持つものは公開しない。
理論は公開する以上その責任を果たすつもりでいる。
もう一つの誓いは、人の自由な心には介入しないと言うことだ。
知識、知恵と違って、生き方や行動は人や神に頼ることなく自ら考え決めるもの、幼少からの信条でありブッダと同じ心境だな。
だから神に傾くことなく、魔物を毛嫌いすることもなく、虫にも植物にも同じように接している。
姿形は違っていても意識あるものは同類だな。