キリスト教聖地で聖職者が乱闘 | 野人エッセイす

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森羅万象から見つめた食の本質とは

今朝のニュースでギリシャの聖職者達が殴りあっている映像が流れた。別にあきれもしなかったがそれが宗教の実態だろう。キリスト教に限らず、イスラム教も日本の仏教も互いにいがみ合い殺しあった歴史を持つ。それが神の意思なのか。宗派の意思は個人の意思、自分達の言う事が正しい、考えを通したいと言う欲だろう。野人は心に支えを求める宗教を否定しない。入信は自由だ。ただ、人は自分で判断し、己の意思で生きる為にこの世に生まれてきたのだ。教祖に教わったことを鵜呑みにせず、宗教の本質を自分で判断すべきだろう。

以前に「気の科学11」に載せた記事を紹介する。

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「宗教は元は森羅万象の物理学だった」

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宗教のない国はないほど宗教は世界中に広まり、人々の心の支えになっている。キリスト教は世界中に広がり、聖書は世界一のベストセラーにまでなっている。それぞれの宗教にはその教えを説いたキリスト、仏陀、ムハメッドなどの教祖が存在するが、その教えが人を介して語り継がれ、現在の経典になるまでには年月を要している。やがて、同じ聖書を経典に持つキリスト教も幾つかの宗派に分かれ、互いの正当性を主張し、いがみ合い、戦争まで起こしている。仏教も同じことが言える。何でこれだけややこしくなるのかと感じるほど枝分かれして仲も悪い。人は意見が違うと喧嘩になってしまう。それと同じだ。つまりその時代の宗派の指導者の見解が組織同士の争いを招いている。振り回されるほうはたまったものではない。隣同士でも選んだ宗派が違えばいがみ合う事になってしまう。親子でも同じ事だ。そもそも宗教とは何だろう。人は宗教に精神的な支えを求め、教えを忠実に守る。程度に違いはあるが、生活に密着し、生き方そのものになっている人も多い。精神世界の宗教と物質世界の科学は一線を画し、相容れない分野になっているが本当にそうだろうか。野人の考えはまったく違う。宗教の元は物理学だったのだ。しかも森羅万象の宇宙物理学だ。肉体の仕組みも精神の仕組みも立派な物理学だ。そもそも分けるほうがおかしい。宇宙、地球の仕組みを理解し、それに合った生き方をする、それが目的だったのだ。宗教のルーツは非常にシンプルなものだった。その基本に色んな肉付けをして、さらには尾ひれまで付けたのはその理論を継いだ人間だ。組織を率いる権力者であればそれくらいは出来る。拳法などの格闘技も始祖を同じくしても弟子同士がいがみ合い分裂を繰り返している。教義はさらに細部に至るまで変化し、科学では証明出来ないほど不可解なものになってしまった。「人の思い」が今の宗教を築き上げた。宗教が物理学だった要素は各所に残っている。仏教に宇宙の話が出てくるのがそれだ。空即是色、色即是空も宇宙物理学を示している。輪廻転生も同じことが言える。「悟り」とは決して無の境地になることでもなく、物理的な仕組みを理解する事なのだ。座禅を組んで、頭の中で問答を繰り返してわかるはずもない。人は肉体と喜怒哀楽の心を持って生まれてきたのだ。それらを駆使して仕組みを体感する。それが道理だろう。悲しみ、苦しみ、欲望、快楽を避けて、痛みも感じず、悟れるはずもないのだ。一生懸命修行に励む僧侶には、そのひたむきな心には敬意をはらうが、野人には真似出来そうにない。それに説法や問答の類はあまり好きにはなれない。「どして?」「何故?」と聞いても答えに苦しむからだ。根拠、道理を持たない理論は空しいだけだ。

信仰は自由なもので内容の判断はあくまで個人。オウム事件も教祖だけのせいではない。個人の責任だ。法律は教組の責任、個人の責任を明確にしている。人間が充実した生き方が出来るのは宗教と科学が一致した時かも知れない。