人は常識の中で生きていると言っても過言ではない。
生まれて親から教わることは、引き継がれたその時代の常識。
日常の暮らしも学校で学ぶことも常識、学校の教科書はその時代の人間の常識であり、人間の常識が変われば年々修正される。
さらに社会人になってからも社会の常識、会社の常識を学び続ける。
性格、考え方は異なっても常識は共有され、枠を外れると非常識のレッテルを貼られ、法という常識に触れれば罰せられる。
常識とは人並みの社会生活が送れる「保証書」のようなものだ。
多くの人が疑わないこの保証書には盲点があり、利点と欠点が共存している。
利点とは・・
大勢の人々の知識と経験が長年にわたり積み重なったのが常識であり、自ら考え答を出す必要がなく、苦労なく知識が広がること。
欠点とは・・
深く考える必要がない故に間違いに気付かないこと。
ものごとの理、物理思考で言うなら、基本的なことからの難しい仕組み、数式を省略して答えだけ覚えるのだから理解とはほど遠い。
人間社会におけるルール、学問はそれでよいのだが、自然界、生命に関する常識はそれでは困る。
法改正などの修正と違って間違えれば、病、自然災害など多くの災いを招き、命をも落とす。
生物の教科書に自然界の常識を高校生の野人は見いだせなかった。
幼少より海川野山で体験、自らの頭で考え、組み立て、答を出し続けた道理とあまりにもかけ離れていたからだ。
道理がなく言葉だけが並んだ教科書、それらを覚える学問には関心もなく学びを拒否した。
それから半世紀を要しても生命の常識、食の常識は変わらず、相変わらず「あれが悪い これが良い」を繰り返し、健康法の珍説が登場している。
地球環境はどうにもならないところまで悪化、健康も悪化する一方だ。
世界中の人知を結集しても結果が出せなかったのだから「正しい常識」とするほうに無理がある。
協生理論は、自然界、動植物、農業、食、健康の常識、それらすべての学問が基盤から間違っていることを前提に生まれた。
基盤の何処がどのように間違っているか、正しい答えは何か、それがはっきり特定出来たから公開したのだ。
生きて行くのに保証書などはない。
生き物は自らの頭で判断するのが当然であり、脳機能もそのように出来ている。
常識の妄信は、判断を人に託す他力本願のようなものだな。
考える力とは
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学びの盲点
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悩む理由 悩まない理由
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