学びの盲点 | 野人エッセイす

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森羅万象から見つめた食の本質とは


人はなかなか「何故」・・という方向へは向かわない

「何故」は思考の始まり

答えを出す為の方程式の基点の起点。

そうして人は自然界から仕組みを解明して文明を築き上げた。


科学、物理・数学・「何故」から始まった文明は人に豊かな暮らしをもたらし続けた。

先人達の知恵は時間を短縮、一から考える労力をも省き、人々に豊富な情報を分け与えた。

この多くの情報の「盲点」は「理解度」であり、それによって使いこなせるかどうかが決まる。

つまり活用、応用出来るかどうかだが、仕組みのある物理ほど使いこなすことが難しい。


理解とは「理」を「解」することであり、理の基本がなければ解することが出来ない。

では何故、理解したと錯覚するのか・・

理解という言葉が日常的に使われ、単なる「わかった」という用い方をされて来たからだろう。


「私の心を理解してくれない」とよく聞くが、心、感性は人それぞれであり、そこに理はないのだから理解も出来ない。

思いはそれぞれなら、察し方もそれぞれ・・

言葉の使い方も態度の表し方もそれぞれだ。

思いの強さも重さも単位がないのだから測りようがないではないか。

慰めの言葉をまったく思いつかない無粋なお野人は・・

知らんぷりしているしか術はない汗


心と違って物理に「人それぞれ」はなく、誰が解こうが同じ答えが出る。

同じ答えが出るのは解き方が同じであり、方程式が解けるからだ。

解き方を知らなければ当然のように解けない。


盲点とは・・


同じ「理解した」でも、仕組みを完全に理解したのか、言葉を理解したのかは天地の差がある。

後者を理解とは言わず、「言っていることがわかった」に過ぎない。

つまり式と答えを「言葉」で覚えたということに他ならない。


それでは数学や物理の問題が解けるはずもない。

聞いて読んで懸命に勉強しようが使いこなせなければただの言葉、役には立たないのだ。

「理解した」と思い込み、学びを止めればそこに気づくことはない。


多くの情報に対して、それらすべての分野の「基本の理」を持っている人などいない。

基本の理がなければ理解など出来るはずもないのだ。

自動車学校には学科と実技があるが、学科だけで車は乗りこなせない、それと似たようなもの。


多岐にわたる情報を聞いただけで、正しいか間違いか判断は出来ない。

多くは自らの感性に従って判断を下すのだが、物理的な判断とは程遠い。

つまり、情報を正確に理解出来ず、その情報の間違いも見抜けない。


どうでもよいことならそれで構わないが、そのツケが回って来たのが現状ではなかろうか。

健康、環境の悪化・・情報が正しければ何の問題もないはず。

「こうすればこうなる」これは道理式であり、現実における完全な物理

そのようにならなければ間違っていたということだ。


しかし明確な道理をもって間違いを指摘する人さえなく、さらなる前向き思考で傷口を広げている。

健康学、栄養学、氾濫する健康食品・・など、結果が出ないどころか状況はさらに悪化しているのだから、方程式にもならず、その道理は明らかに間違っていると判断すべきだろう。


赤信号 皆で渡れば怖くない・・という言葉があるが

現状は年々悲惨になり、後がない、どうにもならないところまで来ている。

そして環境だけでなく自らの命をも縮めている。


思考の盲点・・大きな代償になりそうだ。



言葉と仕組みの違い1 錯覚 全10編

http://ameblo.jp/muu8/entry-10759579684.html

人は何を間違えたのか

http://ameblo.jp/muu8/entry-12057213431.html



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