心と理の境界 1 | 野人エッセイす

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森羅万象から見つめた食の本質とは

 

この一か月、心と理について話す機会が多かった。

心と理を重ねれば心理となり、心理学という学問分野もある。

 

一般的な言葉の使い方・定義はどうであれ野人の見解ははっきりしている。

不調の「原因」と言う定義も異なれば、自然、健康、自然治癒力、野菜などの定義も異なる。

 

この心と理の境界もはっきり明言、野人心理学は一般的な心理学とは異なり、その関係の本は読まないし人から学んだこともない。

心理学を、読んで字の如く心の「物理」としてとらえれば、理はここに書くことの他にないのだから当然ともいえる。

 

現状の心理学のように理という言葉をどのように捉えるかは個々の自由だが、野人は理を物理として捉え、理のないものは「心理」から削除して考える。

野人理論の基盤は自然界であり人間の道理ではないのだから。

 

物理はそもそも自然界から生まれたもの。

人間の道理は人間によって作られたものであり、人間にしか通用しないものが多い。

学問の為ではなく結果を出す為に野人は学問を使いこなして来た。

 

困っている人がいればその解決に学問を使い、解決出来なければその学問には道理がないと言うことになる。 なければ道理のある形に組み立て直せばよい。

作られたものは作り直せる、学問とは本来そうあるべきものなのだ。

 

生命に関するすべての現学問は人を救っているだろうか。間違っていれば役には立たず、それが出来ない。

 

その信念で農業だけでなく、オーガニック、マクロビ、栄養学、健康学、健康食品などの矛盾・間違いを指摘して来たが、何年やっても全員に結果が出なければ物理としては間違っているのだから、何を間違えたのか、その方向へ思考を進めるべきではなかろうか。

 

物理とは現実に存在する現象の仕組みすべてを指す。

 

心が存在すればそれは物理であり、思い感じることが出来るならそれも物理。

仕組みが存在するから喜怒哀楽の感情があるのであり、体も意のままに動かせるし喋れる。

その仕組みは物ごとの道理、立派な物理ではないかな。

 

心も思考能力も感情も存在する以上物理だが、何を思い、考え、何を好むかなど、その中身は自由な内容であり物理ではない。

思い考えることが出来る「能力」が物理なのだ。

 

その物理を使って人は意のままに動かせる機械装置を作り続けて来た。

乗り物、電化製品、ロボット・・

それらに指揮を出す意識はなく、人間がその役割を務めている。

 

指揮官と指揮系統と本体

それが揃って初めて機械は動かせる。

機械の大半は無機質だが、木材は有機質。

プラスチックなど石油製品も有機物から作られたもの。

有機と無機・・燃えるか燃えないかは判別の一つだ。

 

有機で構成される生命体もまた物質の一種。

炭素も水素もカルシウムも・・

元は無機であり、複雑な無機の組み合わせが有機だ。

 

精神と肉体、心と体が一体になったものが生き物。

すべての生き物はそうして生きている。

 

機械は間違えないし、修正も修理も容易だ。

では何故、人間だけがこれほど間違いを犯し、修正に時間がかかるのか・・

本能、実体験の他、膨大な学問が頭と意識に詰まっているからだ。

 

学問、常識を前提に行動するのが社会人であり、そうしなければ野人のように野蛮人扱いされてしまう。

 

続く・・

 

 

心理と物理は同じもの 1

https://ameblo.jp/muu8/entry-11650505670.html

心理と物理は同じもの 2

https://ameblo.jp/muu8/entry-11650847543.html

 

 

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