伊勢志摩に37年住んだが、伊勢神宮内に入ったのは外宮・内宮合わせて5回くらい、自分の意思ではなく人に連れられて行ったもので、神宮の歴史も他の神社のことも全く知らない。
神々は心の中に在るもの、わざわざ出向いて行くこともない。
どのような場所からでも意志は通じる、寝床の中でも。
子供の頃からそのようにして野人は育った。
むー母からそのように育てられたのだが、野人はそれをさらに省エネした。
祖父、祖母、父、姉、兄、5人を看取ったむー母は、寺社へはあまり行かなかったが、仏壇は大切にしていた。
前に座ると毎日5人の名を必ず呼ぶのだ。
朝はともかく、家に帰ったら必ず仏壇の家族に手を合わせるよう口やかましかったが、お野人は毎回・・・
「なまんだぶ~」 チーン ・・だった。
やがて野人の省エネにあきれて何も言わなくなったが・・
「チ~ン」だけに省エネすると
「なまんだぶ」が抜けているわよ・・と、小言を言った。
墓参りもほとんどしないが、誰かの歌にもあったように、行ってもそこにいないのだからつまらない。 誰もオランダ・・
家族は常に自身と共にあると感じている。
神々の争いは古代よりあり、神と魔の戦いもあり、魔同士の争いもある。
魔々の争いも、人の争いも日常茶飯事、同じ教祖の宗門同士でも人間の解釈の違いで争い、いがみ合う。
いくら争おうが争いが絶えることはなく、完全決着が着くこともなく遺恨を残す。
争いは人の心が生み出すものであり、神も魔も同じ人の心。
善悪とは人の心の判断であり一対の言葉。
スターウォーズの映画もそうだったが人は善にも悪にもなれる。
お釈迦様が垂らす蜘蛛の糸、それに罪を償う法律も、どちらの道も選べるバイパスのようなもの。
全宇宙に存在する「物質」も、±の電子から成る陰陽の法則。
万物がそうであるように意識もまた同じ法則で存在している。
子供の頃に感じていたことは・・
神は優しいがたまに怖く、魔は怖いがたまに優しい。
親しみやすいのは神だが、野人は魔を毛嫌いしているわけでもない。
昔は酷い目に遭ったこともあるが、今は逆転して怖くもない。
真夜中に暗闇の山中を一人歩くことも抵抗はなく、落ち武者が出ようが生首が空中に浮いていようがたいしたことはなく、人間と対等に扱っている。 悪さしなければ問題はない。
世の中に理由もない現象などはなく、意識がもたらす現象はいくらでもある。
理解を超えれば恐怖心が広がるのは当然だが、無理に理解する必要もなく、礼を持って接し、無礼には怒りを持って接すればよい。 魔物にも野人の「バカタレ・・」は通用する。
同じ世界に存在するのだから、神も魔も仲良くしながらバランスを保てばよい。 特にやることもなくヒマなのだから。
人間に慕われ社まで用意される神と違い、誰からも嫌われる魔には住む家がない。
まあ、どちらも肉体がないのだから家も屋根もいらない。
神の教えも仏の教えも野人には必要がない。
どのように生きるのかは自分で決めることであり、幼少からそのように生き、お願いも相談もしたことがないが、神仏は嫌いではない。境内ではよく遊ばせてもらい、恩も親しみもある。
野人思考の基盤は自然界であり、そこからすべてを学んだ。
動物たちが寺社に参拝しないように野人も滅多に行かない。
生き物のパワースポットでもなく、行く理由がないからだ。
たまに付き合いで行くことがあるが、どちらでもよいこと。
神と同じだけ魔も存在するが、それらを特別意識することはなく、伊勢神宮のような巨大な社も、道端の小さな祠も野人にとっては同じであり、同じように敬意を払って見続けている。
小さな虫も、植物も、大きな動物も・・同じ生き物
意識を持つのが生命であり、小さな意識も大きな意識も意識に変わりない。
神も魔も・・人間も同じではないかな。
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