判断とは 1 | 野人エッセイす

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森羅万象から見つめた食の本質とは

生きることは「判断」の繰り返しであり、地球上のすべての生き物がそうであるように「学び」の主たる目的は「判断」とも言える。

それは生まれた瞬間から始まり、植物は土壌、環境を把握し、それに合わせて枝葉を伸ばし花実の数を決める。

昆虫や爬虫類や魚類は食べ物を親から習わずとも本能で判断、捕獲出来る。

成長に世話と時間がかかる哺乳類は親が養いながら教え、親なくして生きることは難しい。

しかしまったく不可能ではなく、本能だけで生き抜くものもいる。

すべての動物の脳には本能である判断の遺伝子が備わっていると考えればわかりやすい。

小鳥は親が飛び方を教えるが、教えなければ飛べないと言うわけではない。

人の子は、乳幼児期は親が育てるが、そこから十数年は社会が育てる。

その時代の知識、常識、モラルなどを学校や本やメディアから学び取り、生き方も決まる。

江戸時代、明治、現代と常識や考え方が異なるのも当然と言える。

数万年続いた食べ物を得る狩猟採取の時代から農業を中心とした集落の時代に入ると「判断」は社会の仕組みに移行、物々交換から通貨へ変ると学びの方向も変わった。

今の義務教育はその時代の社会生活を送る為の一般常識だが、目的は通貨を得る「職業」が主体となった。

レベルの高い大学へ入る為に小学校から競争が始まり熟へ通う時代になったが、その目的は学識と言うより就職競争であり、良い会社、高収入を目指すことであり、安定した生活だ。

つまり、より多くの獲物をとる学びから、より多くの収入を得る学びへと移行した。

文明社会の中では仕方ないことだが、どちらも判断が重要であることに変わりない。

しかしながら学びの内容は、与えられた問題を解く為により多くの知識を詰め込むことに奔走している。

幼少期から昼夜を惜しんで覚えることの目的が良い組織に「入る」ことではあまりにもバカバカしいが、それが今の社会の仕組み。

学校での学びは実務ではさほど役にも立たず、失った年月の損失のほうがはるかに大きい。

先頭を走り続けた現代教育の申し子たちが常に社会を引っ張って来たのだが、足元の基本的な道理が欠け、判断力が乏しいから矛盾だらけの社会になってしまったのだ。

法改正、法の矛盾も多いが、裁判で「前例」を持ち出すこと自体が情けないではないか。

数十年前ならともかく、ここまで科学技術が進めばいくら詰め込んでもパソコンには敵わない。

数十冊の辞書が組み込まれた電子辞書を数万円で買った方が早いだろう。

パソコンでも必要な情報はいくらでもタダで引き出せる。

実用本や六法や辞書は調べるものであり覚えるものでもない、それがそれらの本の目的だ。

パソコンは忘れないが、人が単純に覚えた知識はいつかは忘れる。

生きる為の学びは、余裕が出来れば趣味やスポーツの世界へと無限大に広がり、教養が目的にもなって来るがそれは自由な世界。

ここではあくまで判断とは何かを野人理論で解き明かそう。

常日頃、疑問、矛盾を感じ、それを必要とする人にとっては役に立つはずだ。

野人エッセイすもわかりやすく面白くなるだろう。

遊び心で読んでいただければよいが、親父ギャグは・・たぶん出て来ない。


続く・・3編の予定


野人思考の参考に・・


野人流学問のススメ

http://ameblo.jp/muu8/entry-10427872921.html

人間とは

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何故

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