進化論では・・・
自然選択による適応を繰り返した種は連続的にその姿形を変えていく。 A→B→Cと、A,Cの中間的特徴をもったBが存在するのが自然である。
しかし進化の過程で、中間的な特徴を持った種Bが存在した証が見つからないことがある。これをミッシングリンクという。
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ミッシングリンク「失われた環」とは、進化の流れが繋がらないことだが、この考え方には大きな弱点がある。
考古学的な発見、つまり「視界・視点と偶然の発見」に依存すると言うことだ。
他に選択肢がないこの定まった思考の延長線上でミッシングリンクと言う言葉は生まれた。
生物学にも言えることだが、見た目から考察を組み立てれば生命は必ず矛盾に突き当たり、それを補う為にさらに観察と考察を積み上げる。
そうして後戻りの出来ないほど膨大な学問と資料が出来上がる。
進化のミッシングリンクと言うより現学問のミッシングリンク
だな。
視界と偶然の発見に頼らない野人理論にはミッシングリンクがない。
中間の化石があろうがなかろうがどちらでもよいことであり、生命の仕組みから考えれば、「ある」ことも「ない」こともあり得る。
個々の方程式は道理から答えを導き、連立方程式も矛盾なく繋がっている。
植物が自力で生長する仕組み、その動力、動物の仕組みなど基本的なことを最初から理論で探求していれば現在のような矛盾は生じない。
「生物は自然選択によって環境に適応するように進化する」
これも観察結果を簡単な言葉でまとめたものだ。
当然と言えば当然の言葉であり何の意味もなさない。
進化も退化もあるが退化も進化、言葉の区別は必要ない。
沈滞もあれば突然現れることもあり得る。
観察結果などどうでもよいと言うことだな。
「何故」という疑問と仕組みが解けなければ判断のしようもない。
意識の仕組みがわからなければ、意識が使いこなす脳の仕組みもわかるはずがない。 脳は意識の指令室なのだから。
だから、脳の構造を隅々まで調べ尽くしても意識の仕組みは皆目わからない。
「不完全な学問」・・と言うことなのだから不調の完全復元も不可能。
生物学の基盤から再構築、これは野人の願望だが・・・
略せば「野望」
だな。
燃える闘魂もないし、野蛮な方法でもなく、淡々麺のようなもの。 誰も反論出来ない道理と結果を示せば、放って置いてもそうなる。
生命は 海から 塩辛・・![]()
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