それにつけても、軍部のごとき強大なるけんりょくを誇った八百万がっかいとそのがっかいへつらい道念のかけらもない禿人とくにんどもで充満する正系門家にあって、ただお一人で諌暁を重ねられたせんせいの激闘がいかにすさまじいものであられたことか。
 今月7日の日曜勤行ごんぎょうで拝聴したどうにおいてせんせいは『ほうおんじょう』のにちれんいちにんみょうほうれんきょうみょうほうれんきょうこえしまずとなうるなり」との一節を引かれ

たいせいじゅんのうでは成仏じょうぶつは叶わない。
 たとえ多くの者が反対しようと、悪口を言おうと、いちにんだいしょうにんさま忠誠ちゅうせいつらぬくのが地涌の菩薩である。ここに初めて成仏じょうぶつがある。
 顕正会員は『にちれんいちにん』とのおおせを絶対ぜったいに忘れてはいけない。
 一人一人がそれぞれのたちで『我いちにん立つ』とのはくで立て」

されましたが、全しゅうもんがこぞってだいしょうにんさまかたきとなる中「日蓮にちれんいちにん」「日興にっこういちにん」との大せいしんを受け継がれ「我いちにん立つ」とのかく遺命ゆいめいしょうを顕わされたせんせい大忠誠心だいちゅうせいしんが強烈に胸にさりました。
 せんせいは『しょ』のこうにおいてかくおおせられました。

 「悪王と邪法の僧等の結託けったくによる理不尽なざいに対し、だいしょうにんさまは臆して命乞いをされたでしょうか。凡夫ならそういうこともあるかもしれない。
 だが、だいしょうにんさまおうのごときこころで竜の口のくびの座に臨み給うたのであり、これ、御自身のしんみょうも惜しまずにただ法を惜しみ給うお姿であられる」と。

 今このおおせをせんせいの戦いに約させていただけば、最高けんりょくしゃいけだいさく絶対ぜったいけんの時の貫首らの結託けったくによるざいに等しい理不尽な解散かいさん処分しょぶんに対しせんせいは臆して命乞いをされたでしょうか。
 せんせいは、おうのごときお心で徹底せる諌暁に立たれた。
 これ、御自身の身命を惜しまず、ただ法を惜しむゆえにだいしょうにんさまへの忠誠心ちゅうせいしん遺命ゆいめいを守りたてまつられたお姿であると拝するのほかはありません。
 このせんせいの何物をも恐れぬおうしんがいかなるものであられたのか。
 それは、解散かいさん処分しょぶんの前夜、遺命ゆいめいしょうを正系門家の全信徒に訴える戦いを決然けつぜんと起こされた時のかくを拝すればよく分かります。
 せんせいはかくされました。

 「それではみょうしんこうはどうなるのか。潰されるではないか。
 へらぬ口のようではあるが、解散かいさん・除名などは少しも悲しむことではない。嘆くには当たらない。むしろ喜びである。
 みょうしんこうには世間のとがいちぶんもない。
 ただ法を惜しむゆえに今だいしょうにんさま遺命ゆいめいを守り、御金言に方人かたうどを申し上げている。
 そのためにくびねられるならば本望ではないか。
 もしそのようなたいが起こるなら願ってもない事、無視の罪障たちまちに消滅するどくとなる。
 みょうしんこうの悲しみはすでに遺命ゆいめいげられてしまったことにある。
 正系門家が公式決定としてざんにも遺命ゆいめいげてしまった。
 かかる仏法ぶっぽうじょうの最悪のたいを見ながらみょうしんこうだけは安穏である。
 そして、のうのうとうれし顔にて暮らしていてはだいしょうにんさまに申し訳が立たない」と

 まさに『しょ』を文字通り身で読まれ、ついにはざいに等しい解散かいさん処分しょぶんこうむったせんせいのいささかの私心なき大忠誠心だいちゅうせいしんには熱涙ねつるいきんぬものであります。
 何年か前のある日、せんせいとお話しさせていただいた際、せんせいが顕正会の解散かいさん処分しょぶんについておおせられたことを私は今でも忘れたことはありません。
 せんせいはこうおおせられました。

 「近い将来ただしき貫首上人しょうにんがお出になった時、私は松本まつもと日仁にちじんそんのう擯斥ひんせき処分しょぶんの取り消しをただちに求める。
 しかし、顕正会の解散かいさん処分しょぶんについてはちがう。
 ただ『ぶっまかたてまつる』のおもいではあるが、私からは絶対ぜったい解散かいさん処分しょぶんの取り消しは求めない。
 なぜなら、だいしょうにんさま遺命ゆいめいを守りたてまつったゆえにこうむった解散かいさん処分しょぶんぶつにとって最高の勲章だからである。こんなに有難ありがたいものはない」と。

 しんじんなき愚人の毀誉きよ褒貶ほうへんなどは一切目もくれず、ただだいしょうにんさまのおうなずきを賜わることのみを本望とされるせんせいのどこまでも澄み切ったしんじんに涙がまりませんでした。
 普通の凡夫であれば、理不尽な解散かいさん処分しょぶんを受ければただその非道を恨み、あるいは愚痴や不満をつのらせ、あるいは抗議を行い、あるいはそれをもってことげられぬい訳とすることでありましょう。
 これおのれの名誉や保身をだいおもうがゆえ。そして、忠誠ちゅうせいうすく、心弱きゆえであります。
 しかるにせんせいに置かれては、だいしょうにんさま御悲おんかなしみ、おんいきどおりをそのまま御身に味わわれ、むしろ不当なるざいこうむったことだいしょうにんさまこころかなたてまつる」の喜びとされるそのあまりにも崇高にして透徹のお心にただ低頭ていとうするばかりであります。
 将来ぜんにっぽんじんせんせいしんみょうを賭したこの大忠誠心だいちゅうせいしんに涙を流す事うたがいありません。
 私達はかかるあさせんせいであります。
 ならば、全員がせんせい大忠誠心だいちゅうせいしんを深く命に刻み、いかなるしょう困難こんなんえて遺命ゆいめい成就の重大奉公ほうこういさたねばなりません。
 そして、私自身せんせいが『しょ』のおうの心で大忠誠だいちゅうせいつらぬかれたゆえにこうむった解散かいさん処分しょぶんのその意義極めて重大なるを今にして改めて深くおもうものであります。
 せんせいは『しゅほんぶつじょうどうしょ』のひとをよくなすものはかたうど方人よりも強敵ごうてきとのおおせを引かれた日曜勤行ごんぎょうにおいて

 「顕正会は遺命ゆいめいを守りたてまつったゆえに理不尽な解散かいさん処分しょぶんというだいしょうを受けた。
 しかし、このだいしょうのおかげて今日本国の中においてだいしょうにんさま奉公ほうこうを申し上げる唯一のぶつだいしゅうだんになれたのである」

どうくださいましたが、千鈞せんきんの重みを感じるものであります。
 心静めておもうに、もし解散かいさん処分しょぶんがなければどうなっていたことでしょうか。
 遺命ゆいめい破壊の悪貫首たるほそにったつ並びににっけんひきいる腐敗堕落のしゅうもんの中にいたら、修羅と悪竜の合戦のごときがっかいとの醜悪なる大抗争に巻き込まれ、広宣こうせん流布るふ奉公ほうこうが叶わなかったにちがいありません。
 しかし、解散かいさん処分しょぶんこうむったことで腐り切った濁乱のがっかいしゅうもんと一線を画し、せんせい御面おんかおてはなにかせん、こころこそたいせつそうらへ」との御せいしん戒壇かいだんだい本尊ほんぞんを直接拝みまいらせるこう最終さいしゅう段階だんかい信行しんぎょうたる遥拝ようはい勤行ごんぎょう確立かくりゅうされ、ただいっしゃせん広宣こうせん流布るふまいしんし、ついに三百万になんなんとする死身弘法をなされ、がっかいしゅうもんを遥かにりょうして、日本国の中で日蓮にちれんだいしょうにんだいおんとくを叫ぶ唯一のぶつだいしゅうだんになさしめたのであります。
 すべてはおうごとくなるこころてるものかならほとけになるべし。れいせば日蓮にちれんごとし」との御金言を身で読まれたせんせい峻厳しゅんげん極まる大忠誠心だいちゅうせいしんによるものであり、だいしょうにんさませんせいころもをもっておおい御守護くださったものと拝するのほかはありません。


令和6年 4月26日 4月度 総幹部会 浅井会長指導

令和6年 4月28日 4月度 男子部班長会 行成総男子部長指導